近づかない距離でいてくれる、君がいい(2)

 深沢さんは明らかにおかしかった。

 表情は硬く強ばり、声は震え、なのに無理やり作り笑いを浮かべながら自らの衣服に手をかける。


 本来ならこの時で、僕はすぐにでも彼女を止めるべきだった。

 慣れない大声を張り上げてでも、深沢さんを叱るべきだった。


 にも関わらず、彼女のボタンが全て外され、するりと上着が滑るように床へ落ちるまで何一つとして動けなかったのは、たぶん、お互いなるだけ関与しないという約束が頭の隅にまだ残っていたことと。

 純粋に意味がわからなかったことと、そして。

 ……あまりにも、情けない理由ながら。

 僕自身が、彼女に見入ってしまったせいだと思う。


 身を包むものを払い、外気にさらされたまっさらな首筋と、柔らかくなめらかに伸びた鎖骨のライン。

 赤く上気した表情とは対照的に、まっさらな初雪のように白い肌が薄明かりの下にさらされ、つい、そのまま視線を下ろそうとしたところで――彼女の腕が、それを庇う。


 はっきりと女性の形を彩った、白い布。

 包まれた豊かなものを、彼女が恥ずかしそうに抱いて、ふるりと震える。

 その揺らぎと存在感があまりに生々しく、一瞬、僕は現実を失いかけ、


「……そ、そんなに、まじまじと見られると、ちょっと、は、恥ずかしいかも……」

「っ」


 彼女の一言で、ようやくこれが現実だと認識した。

 どっ、どっ、と遅れて心音が激しく高鳴り、自分が本当にここに立っているのかが分からなくなる。


「待って。深沢さん。ごめん。……え。待って。何してるの?」

「……お礼、を。……ほ、ほら。私ってべつに、可愛くはないけど……知ってるかもしれないけど、結構ある、でしょ?」

「……お礼?」

「だから、その……私は詳しくないけど? お、お礼として、いろいろ、使い道、ある、と思うし」


 そう口にして、自らの胸を抱き上げるように、彼女がか細い声で囁いた――


 その顔がハッキリと、僕には、泣いているように見えたお陰で、かろうじて正気を取り戻した。


 ……いや。本音をいえば、正気になった訳じゃない。

 動揺と色香、欲求と欲望、奥底でぶわりと疼く熱をしっかりと抱きつつ、けれど、彼女の放った言葉と辛そうな表情がキツく刺さったおかげで、理性がかろうじて天秤を揺り戻した。


 っ、と手のひらに爪が食い込むほど拳を握り。

 僕は、普段なら絶対使わないような言葉を、腹の奥から絞り出す。


「使い道、って。そんな言葉、使うなよ」

「え」

「自分のことを、道具みたいに。……深沢さんは普段、もっと、言葉を慎重に使う方だろ?」


 語気が強くなったのは、たぶん、僕は怒っていたんだと思う。


 チャットアプリ越しに届く彼女の返事は、文脈が乱れていることはあっても配慮は欠かさなかった。

 茶化す程度に冗談は言うけれど、決して、僕を傷つけたり馬鹿にしたり、貶めたりしない。

 彼女の遠慮がちな意識が程よく滲み、その中に隠しきれないお人好しさがつい顔を出してしまう、それが僕の知る深沢さんだ。


 なのに、何だ?

 使い道、って。

 ――そんな自棄っぱちな言葉は、


「らしくない。それは深沢さんらしくないと思うよ、僕は。普通じゃない」


 ぴくっと彼女が震え、淡い瞳がうっすらと滲んだのを見て、僕はこれが深沢さんの本意でないと判断した。

 僕は暴れる本能を覆し、理性の歯車を回し出す。


 深沢さんに何が起き、どう考えて今に至ったかは、分からない。

 ただ、彼女には何かしら自分を追い詰めるような出来事があったのだろう。

 経緯は分からないが――


 ああくそ、と、僕は彼女から無理やり視線を引き剥がし、足下にすべり落ちた寝間着を拾った。

 顔を背けつつ上着を広げ、彼女の背中から回すように被せてあげる。


「は、葉山く……」

「黙って。それと、これを被って」

「え。わっ……」


 続けて、ベッド脇に転がるタオルケットを彼女に被せる。

 これで多少マシになるだろうと思いつつ、彼女の手をそっと掴み、指先の柔らかさを意識しないようにしながら勉強椅子に座るよう案内する。

 それから僕はベッドにあぐらをかき、彼女に背を向けた。


 顔を合わせないのは、情けないことに未だ、僕の中で彼女の素肌がくっきりと線を描いて浮かび上がっていたからだ。

 いくら上着とタオルで隠していても、彼女の火照った顔を見て全く動揺しないほど、僕は出来た男じゃない。


 奥歯をぎゅっと噛む。

 自分の太ももをつねり、痛みで誤魔化しながら、できるだけ平穏を装うように声のトーンを無理やり、落とした。


「これで、いつも通りだね」

「え……」

「真正面で顔を合わせて話しをすると、うまく、話せない。僕も深沢さんもそう言って、チャットで話してたから……これなら、顔を合わせなくていいかな、って」


 いつも通り。

 そう、僕らはいつもの他人同士に戻った。

 自分に嘘を言い聞かせ、いつものように言葉を贈る。


「じゃあ、話をしようか、深沢さん。いつも通りの話を」

「……いつも、の?」

「同居を始めてから、僕と深沢さんは少しずつ、いろんなルールを決めてきた。ご飯は別。洗濯も別。電球の交換とか、困ったときはお互いに手伝う。そうやってお互い、いい時間を過ごそうって探してきた」


 僕らはただ漠然と、生活のルールを決めていたわけではない。

 ”普通”ではないけど、僕らにとって心地良い関係を模索してきたし、彼女にとってもそうであったはずだ。


「けど、今の深沢さんは、そうじゃないように思う」

「……っ、でも。これは本当に、葉山君に、お礼を」

「だとしても、深沢さんらしくないと思う。……自分でもそう思わない?」


 返事はない。

 僕は、深沢さんがいまどんな顔をしているかも分からない。

 それでも沈黙は雄弁な肯定だ。


 僕は同意を得たと判断して、先に進む。


「もし話しにくいなら、一回、自分の部屋に戻ってから、きちんとメッセージを送ってくれてもいい。……ただ出来るなら、いまだけは、この場で一緒に話したいなって思う」

「……そう、なの?」

「ごめんね。僕の勘違いかもしれないけど。いま深沢さんを部屋に返したら、危ない気がして」


 らしくない直感に頼った発言だったけど、なぜか、間違っていない気がした。

 何となく。

 本当に何となくだけど、今は、今だけはこの場で彼女の返事を聞くべきだ、と。


 再び訪れた沈黙に、ゆっくりと深呼吸を挟んだ。

 吸って、吐いて、……できるだけ沢山の息を肺に送り込んで、自分をクールダウンさせていく。


「別に、どんな話であっても、怒らないから。僕に対する恨み辛みでも、怒らないから」

「ち、違う。そういうのじゃないの.本当にちがくて……」

「じゃあ、教えて」

「っ……」

「誰にも言わないから」


 椅子がきしむ音がして、深沢さんが揺らいだのを背に感じた。

 返事を待つと、僅かな衣擦れの音がして、沈黙。


 しばらく、待った。

 相手が考え、一生懸命に答えるその時まで、じっと。


「……ごめんなさい。言いたく、なくて」

「うん。じゃあ、適当に嘘をついてもいい」

「え」

「相手に無理を押しつけないのが、僕と、深沢さんの関係だからさ。……確かに僕はいま、深沢さんの話を聞きたいって、お願いした。けど深沢さんにとって、それが辛いなら止めておくよ」

「……ぅ……」

「ただ、もし同じことを繰り返すなら、その時は聞かせて欲しい。単純に、同居人として心配だから。……困った時は、ちょっとくらい手伝う。でしょ?」


 彼女が揺れた、そんな気がした。

 構わず、僕は続ける。


「僕と深沢さんは、さ。一日中ずっと顔を合わせないこともあるけど。……でも、それって仲が悪いわけじゃないと、僕は思ってて。風邪を引いたら心配して、お礼に味噌汁を作って貰えるくらいには、いい関係だと思うんだ。そんな相手が泣きそうな顔してたら、心配するのは普通だよ」


 壁に向かって話すと、遅れて、ぐすっ、と鼻をすする音が聞こえた。

 それが何の音かは考えないようにしつつ、スマホにメッセージを入力する。


『机にティッシュがあるので、鼻をかむのに使ってください』


 あえて口にせず、送信する。

 そえから少し、鼻をすするような声が聞こえたけれど、僕は何も聞こえないフリをした。


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