近づかない距離でいてくれる、君がいい(1)

「葉山君。昨日あの後、ひまりと何かあった?」


 翌朝、いつものように学校へ行く準備をしてると薬池さんに声をかけられた。

 向日葵柄のやたら目立つTシャツにジーパンという、なかなか不思議な格好をしてるのを見つつ朝どうするか聞き、トーストで良いというので一緒に用意する。


 彼女の好みが分からないので苺ジャムとマーガリンを並べつつ、牛乳とお茶どちらが良いか聞くと、ヨーグルトと言われた。

 昨晩のアイスに続いて深沢さんの私物を拝借しつつ、スライスハムを小皿に添える。


「特にありませんけど……何かありましたか?」

「や。なにもないんだけど、起きて来ないなあって」

「深沢さんは朝いつも起きませんよ」

「知ってるけど、ひまりって律儀だから、なんだかんだ起きてくるかなーって思ってたんだけどなぁ」


 気のせいかなと首を傾げつつ、二人で朝食を取った。

 トーストをかりっと囓る薬池さんを見つつ、深沢さんと朝食を共にした覚えはないのに、彼女と朝ご飯を取ってるのは不思議だなあと思う。

 まあそれが、僕と深沢らしくもあるが。


「ま、いっか。じゃあ葉山君。あたし、ひまりに挨拶したらもう帰るね」

「え、もう帰るんですか」

「あんまし長く居ても邪魔だし、別の用事もあるしね。ごちそうさまでしたっ」


 手を合わせ、礼儀正しく挨拶する薬池さん。

 この人、態度は明るくていかにもだけど基本的にきっちりしてる子だなと感心してると、彼女はにひっと笑って手を振った。


「葉山君。ひまりのこと、よろしくね。あの子たまに、思い詰めてすごい勘違いすることあるから」

「そう言われましても、僕に出来ることなんて無いと思いますけど」

「ふつーに話聞いてあげるだけで大丈夫だよ。ひまり、地頭はいいから話したら間違いにはすぐ気がつくし」


 そうして、彼女とは僕が学校に行くのを機に、別れた。

 嵐のように力強い人だなというのが、僕の感想だ。




 とはいえ正直なところ、僕はとくに深沢さんの心配をしていなかった。

 昨晩は楽しそうだったし、彼女が朝起きて来ないのは元々だ。

 一応、昼前に、


『薬池さんが朝起きてこないの、気にしてましたよ』


 とだけ送ってみたが、彼女の返事はいつも通り。


『大丈夫。挨拶したから。何となく朝起きたくなかっただけ』

『了解です』


 それ以上の追求は、余計なお世話だろうと考えた。


 誰だって、何となく気分が乗らないときや、人と会いたくないときはある。

 それに一々心配したり、執拗に尋ねられるのが煩わしい気持ちは僕もわかるので、それ以上は問わない。用事があったら連絡が来るだろう。


 なので僕はその日、予兆めいたものを特に感じることなく過ごしていた。


*


『葉山君。すこし、話をしたいのだけど』


 けれど、夜半前に届いたメッセージにはさすがに眉を寄せた。

 そろそろ寝ようかな、と横になっていたベッドから起き上がりつつ、違和感の正体について考える。


 僕と深沢さんがチャットアプリでやり取りを始めて少し経つが、言いにくいことは大体まず、お伺いを立ててきた。

 あのね、とか。

 葉山君、とか、そういう様子をうかがうジャブのような一言が最初にあったと思う。

 なのに最初から『話をしたい』とは……?


 勉強机に腰掛け、スマホスタンドに乗せつつ了承の返事を飛ばす。

 もしかしたら、真面目な話かもしれない。

 姿勢を正して聞こう、と返事を待ち――けれど深沢さんの返答は、僕の意識の外からいきなり飛んできた。


 コンコン、と。

 戸をノックする音にびくんと震えたのは、自然な反応だったと思う。


 ……え。対面?


 僕が知る限り、深沢さんが僕の部屋を訪れたことは一度もない。

 ドアのノックすら、初めてだ。

 相手の部屋の戸を突然叩くという行為が、いかに圧があり恐ろしいかを彼女は理解していたと思うし、対面での会話がどれだけ怖いかも僕らは共有していたと思うけれど。


 その彼女が、初の、対面を望む……?


 普通の人なら、普通の出来事だろう。

 けど僕はここに至り、ようやくこれが異常な事態だと察しつつ、そっとドアを開ける。


「……深沢さん?」


 訝しむ。

 ドアの先に立つ深沢さんは、いつもの軽快な水色のパジャマではなく。

 上から下まで紺に染めた、重たげな、けれどどこか艶のある寝間着姿。


 お風呂から上がったばかりなのだろう。ふわりと柔らかい香りが鼻をくすぐり、誘われる。

 今し方ドライヤーで乾かしたばかりの、まだ僅かに艶の残る黒髪を揺らし、うっすらと濡れそぼった瞳で僕を見上げてくる彼女に、僕はどうにも言葉にし難い雰囲気を覚えて足を止める。


 視線が交わる。

 ……思えば、深沢さんの顔をここまで間近で見たのは、初めてかもしれない。


 普段は重たげな黒髪に隠れているものの、彼女の瞳をよく見れば宝石のようにぱっちりと明るく、眩しい。

 透き通るような白い頬といい、うっすらと丸みを帯びた形のよい鼻梁といい薄く結ばれた唇といい、しっかり顔を合わせると可愛らしい子なのだということを、なぜか今さらになって理解させられた気がして、僕はそっと目をそらす。


 気の迷いを振り払う。

 彼女は真面目な話をしに来たのだ、と、なぜか妙に高ぶりはじめた熱を抑え、逃げるようにリビングに向かおうとした。


「あっちで話そうか。ここだと、話しにくいだろうし」


 当然の話だ。

 夜分に、深沢さんを自室に招く。そんな愚行を犯すほど、僕も彼女も抜けてはいない。


「あ、……待っ、て」


 にも関わらず、ドアを開けた手を掴まれた。


 明確な拒絶と触れた指先の熱に、僕の思考が固まる。

 え。どうして、なんで? と頭が回らないうちに、深沢さんが躊躇いがちに、……僕を押しのけるように、一歩前へ。

 気圧される形で、彼女の侵入を許してしまう。


 カチャン、と、ドアの閉じる音。

 妙に響いた効果音をもって、僕はようやく密室に閉じ込められたと、悟る。


「……深沢、さん?」


 おかしい、変だ、と意識が囁いた。

 付き合いが決して長いとはいえないが、……あの深沢さんに限って。

 他人同士として関与せず、ましてや男と女の関係など絶対にあり得ないであろう彼女が、そもそも僕にこういう態度で関わってくるなんて、その時点で何かがおかしい――


 という理解は、……彼女の寝間着。

 その一番上に添えられた黒いボタンに指先が伸びた時点で、さらに、狂う。


「……あ、あのね。葉山君。……私、前から、あなたにお礼をしなきゃいけないって、ずっと思って、て」


 ぎこちない半笑いを浮かべながら、深沢さんの両手が、ぷつり、と第一ボタンを解く。


 どうしようもなく混乱し、固まってしまった僕を前に。

 彼女はゆっくりと手を滑らせながら第二ボタンへ手をかけ、自らの手で紐解きながら。


「だから、その。……こ。こういうの……好き、でしょ?」


 隠しようのない震え声を前に、僕は、彼女をまじまじと見つめる。

 まるで人形のような半笑いを浮かべつつ、うっすらと僅かに涙ぐんでるような顔を見て、これは――


 何かが、大きく間違っているなと、今度こそハッキリと理解した。

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