第28話

 目の前にお茶の入ったグラスが置かれる。

 一言お礼を言って口をつけると冷たい烏龍茶だった。外もだいぶ暖かくなってきて、少し喉が乾いていたのでめちゃくちゃ美味しく感じる。


 しかし、これは思いもしない展開だ。

 まさか家に上げてもらえるとは。絢瀬とは相変わらず会えそうにないけど、絢瀬母とこうして会話の機会ができたのは大きいぞ。


「それで、あの」


 俺は口を開く。

 絢瀬母は向かいのイスに座っていて、口を開いた俺の方を見る。改めて見ると、本当に絢瀬がそのまま大人になったような容姿をしている。


「お母さんは絢……美園さんが塞ぎ込んでいる理由はご存知なんですか?」


 俺が訊くと、絢瀬母は表情を暗くする。


 ここからは話題によっては誰かを傷つける恐れがある。今だって、俺の身勝手で無神経な質問のせいで絢瀬母を困らせてしまった。けど、この機会を逃してはいけない。できるだけ多くの情報を手に入れないと。


「お恥ずかしい話、娘からは何も訊いてないの。あの子、部屋に閉じ籠もったまま出てこなくて、話もしてくれない」


 それを聞いて、俺と楓花は顔を見合わせる。


 どうしたものか、と一瞬考えるも、こちらだけが一方的に話を訊くわけにはいかないだろうと覚悟を決める。あとで絢瀬に怒られるかもしれないが、そのときはあいつの気が済むまで怒られてやろう。ただし、学校でだ。


「実は――」


 俺は先日あったことを話す。

 もちろん、伝える必要のないことや伏せるべきことは考慮し、絢瀬母にとって重要な部分だけをかいつまんで説明した。とどのつまりは絢瀬美園の過去が露見してしまったことだ。告白して振られた腹いせにばら撒かれたことや現在の学校の状況などは言わないでおいた。


 すべての話を聞き終えた絢瀬母は深い溜息をついた。

 俯いているので表情は確認できないが、明るいものとは思えない。


「そっか。




 そして、確かにそう呟いた。

 また?

 どういう意味だ?


「またっていうのは?」


 恐る恐る、割れ物を扱うような慎重さで尋ねたのは楓花だ。

 どうしたものかと眉をしかめた絢瀬母だったが、次第に諦めたように息を吐いてこちらを見る。まっすぐにこちらを見つめる瞳には覚悟と決意が浮かんでいた。


「あまり人様に話すようなことではないのだけれど」


 そう前置きをして、絢瀬母は話し始める。


「あなた達も見た通り、娘は中学を卒業するまでは今とはなにもかもが違っていたの。少し古い言葉を遣うなら、高校デビューというやつね」


 別に古くはないですよ。今でも遣いますもの。


「中学のときのあの子は友達と呼べるような子はいなくて、学校が終わるとすぐに家に帰ってきて、部屋で漫画を読んでいたわ。あの子にとって、その時間がなによりも幸せだったんだと思う。きっと、学校であった嫌なことも忘れることができたんでしょうね」


 当時のことを思い出してか、絢瀬母の表情はどこまでも優しいものだった。


「私達はそれでもいいと思っていたわ。もちろん友達がいて、いろんな人に愛されていた方がいいだろうけど、あの子が幸せだというのなら別に構わなかった。けれど、あの子はいろんな世界を覗き込むうち、その世界で生きるきらきらした人たちに憧れた。だから、変わることを決意したの」


 それはどこかで聞いたことのある話だった。


 どこかの誰かと同じ、夢のような世界を夢見ていたんだ。


 俺は胸にちくりと痛みを感じ、それをこらえるように一度絢瀬母から視線を逸らした。


「中学を卒業したあの子は自分を変えるために努力していたわ。体重を落とすために食事制限すると言い出して、毎日運動もして、お肌や髪の手入れも始めて、ずっとメガネだったのにコンタクトに変えたり。そんな努力の甲斐あって、高校に入学するときには見違えるほどに可愛くなっていた。娘としての贔屓目を抜きにしてもそう言えたわ」


 それはそうだろうな。

 それだけの努力の結果が、今の絢瀬美園なのだから。


 学校で見た絢瀬の過去の写真から今に変わるには一体どれだけの苦労をしたのだろう。きっと、俺よりもずっとしんどかったんだと思う。魔法で美しくなったわけじゃない。日々の努力の成果が今の彼女だと言うのに、まるでそれを否定するように周りから悪く言われている。そんなの間違っていると改めて思う。


「おかげで高校での娘は中学のときからは考えられないような日常を送っていたわ。いろんな友達ができて、帰りが遅くなることもあった。これまでは引きこもってばかりだった休日も遊びに行くことが増えて。時折、そんな娘の姿を目にして涙が流れてしまうくらいに、あの子は毎日笑っていたわ」


 けど、と絢瀬母は不穏な接続詞を口にする。


 そうなのだ。順風満帆に進んでいればこんなことにはなっていない。


 絢瀬母は暗い顔をすることなんてないのだ。


「高校一年の冬休みが終わった頃だったかしら。あの子が今と同じように突然塞ぎ込んだの。なにを訊いても答えてくれなかった。私は担任の先生と話をしたわ。そしたら先生はイジメが原因ではないかと言ったの。まだ原因がはっきりしていなくて、後日改めて全てを把握した先生に聞いた。あの子の中学時代を知られたのが原因だったそう」


 胸が痛む。

 けれど、そこから目を逸らしてはいけない気がして、俺は改めて絢瀬母の目を見た。


「あの子に味方はいなかった。だから、私は転校を勧めたの。時期的にも二年になったタイミングがいいのではないかって先生と相談してね。そして、今の学校に行くことになった」


 そこからは俺たちが知る絢瀬美園の物語が始まるわけか。


 そして、また同じことが起こってしまった。


「……あの、えと」


 楓花が何かを言おうとしているが気持ちを上手く言葉にできていないようだった。

 けど、何となく言いたいことは俺にも分かる。きっと同じ気持ちだろうから。


「きっと同じにはなりませんよ」


 だから、俺が代わりに届けてやる。

 立ち上がり、こちらを見上げる絢瀬母の目をまっすぐ見返す。


「今の学校には、こんな状況でも絶対にあいつを見捨てたりしない仲間がいますから」


 少しでも安心してほしい、そう思って俺は笑ってみせた。すると、絢瀬母はその気持ちが伝わったのか、少しだけ安心するように表情を綻ばせる。


「美園さんの部屋に行ってもいいですか?」


「え、ええ。階段を上がったところにあるわ。ドアにプレートが掛けてある」


「ありがとうございます」


 自分も行こうと立ち上がった楓花と一緒に俺たちは案内された二階へと上がる。絢瀬母の言った通り、すぐに『みその』と拙い字で書かれたプレートが掛けられたドアがあった。幼少期に作ったプレートだろうか、そう思うと微笑ましくてつい笑みがこぼれてしまう。


 ドアの前に立って、一度深呼吸をする。


 そして、コンコンとゆっくりノックした。


 しかし中からの返事はない。


「……」


 楓花と目を見合わせる。


 説得というか、話し合いをして彼女の気持ちが変わるとしたら俺の言葉ではなく楓花の言葉の方が届くだろう。そう思い、俺は彼女に発言を譲ると視線で伝える。


「みーちゃん?」


 俺の視線の意味を察した楓花が絢瀬の名前を呼ぶ。

 が、やはり中からの反応はない。まあ、ここで返事がくればここまで手こずってはいない。


「誰がなんと言おうと、わたしたちはみーちゃんの味方だよ。だから、部屋から出てきてくれないかな。こんな形でさよならするの嫌だよ」


 楓花は自分の中にある気持ちをそのまま言葉にする。

 ありふれたものだけれど、それ故に気持ちが伝わってくるようなあったかい言葉だ。


 けれど。


「……みーちゃん」


 予想はしていたが、絢瀬からの反応は最後までないままだった。

 俺は楓花の肩をぽんと叩く。


「急には無理だよ。けど、楓花の気持ちはきっと絢瀬に届いてる」


「うん。そうだといいな」


 しゅんと落ち込んだ様子を見せる。

 楓花の言葉で動かなかった以上、ここで俺が彼女になにを言っても変わらないだろう。だからとりあえずは次に繋げるために言葉だけを残そう。


「また来るよ。迷惑だって思われても仕方ないけど、瞬も楓花も他のみんなも、もちろん俺も、このまま終わりってのは絶対に嫌だから」


 じゃあ、と最後に一言添えて俺たちは絢瀬の部屋の前から退散する。


 それだけでいいの? という楓花の視線に俺は小さく頷いた。


 やはり絢瀬はまだ学校に来るつもりはなかった。そして、絢瀬の過去を絢瀬母から聞くことができた。今日の成果としては上々だろう。


 俺がやるべきことはやっぱり変わらない。


 あとはそのための準備をするだけだ。


「今日は帰ろう」


 絢瀬母に挨拶をして、俺たちは帰路についた。

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