第23話
翌朝。
どうにも寝付きの悪かった俺はいつもよりも少し早い時間に家を出た。けれど、昨日のことを考えていたせいでいつもより歩くスピードがゆっくりになっていたのか、学校に到着した時間はいつもとさして変わらなかった。
ガラガラと教室のドアを開いて中に入る。
そのとき、異様な空気感に俺は思わず足を止めた。
「……」
なんだ。
この感じは。
俺は込み上げてくる嫌な予感を必死に押し殺しながら教室の中を見渡すと、不安げな表情の楓花と目が合った。彼女は俺の視線を誘導するように黒板の方を向いた。
向きたくなかった。
けれど、向かないわけにはいかない。
俺は恐る恐る黒板の方に視線を移す。
「これ、は」
黒板にはチョークで大きく『絢瀬美園は高校デビュー。中学時代はぼっちの陰キャ』と書かれており、その文字の下に一枚の写真が貼られていた。そこには一人の少女が映っていた。長い黒髪を二つ括りで縛る眼鏡の女子。お世辞にもかわいいとは言えない地味な女の子だ。
もちろん、黒板の文字からそれが絢瀬美園の中学時代の写真であることは予想がつく。
「影山ァ!」
俺は自分の声が想像よりも荒ぶっていることに驚いた。
周りも同じなんだろう。俺は常日頃からあまり感情を表に出すことはしないでいた。だからこそ、俺の豹変っぷりにクラスメイトは引いてさえいるかもしれない。
けど、そんなのは関係ない。そんなことを気にしてなんていられない。
俺は影山の元へと向かい、彼の胸ぐらを掴む。
「放せよ、間宮。珍しいな、そんな感情的になってさ」
「お前、なんでこんなことをッ」
犯人がこいつなのは間違いない。
これが昨日言っていた絢瀬の過去のことだ。
相応しい場所というのは教室の、しかもクラスメイトの前ってことだったらしい。
「よせよ、濡れ衣だ。俺がやったっていう証拠はあるのか?」
「お前ッ」
「ダメだよ、謙也くん!」
ふつふつと込み上げてくる怒りを抑えられないでいた俺に後ろから抱きついてきて、影山から引き離したのは楓香だった。どうやら俺のすぐあとに登校してきたようで、彼女もこの光景を見ておおよそのことを察したんだと思う。
「……」
「そんな目で見るなよ。お前は騙されてたんだぞ? あんなに可愛い容姿をしていた彼女は昔はご覧の通り地味でどうしようもないブサイクだったわけ。仮にもカーストトップのグループにいるんだから、仲良くする相手くらいは選べよ」
俺に乱された襟元を正しながら影山が言う。
よくもまあそんなことが言えたもんだ。さっきまでの俺ならば思わず手が出ていたかもしれない。そこまでいかなかったにしても今よりももっと激しく怒りをぶつけていたのは確かだ。
しかし、楓花が一度止めてくれたおかげで少しだけ冷静になれた。
「ありがとう、楓花」
俺が今しなければならないのは影山に怒りをぶつけることじゃない。
「う、うん」
俺は黒板に向かい、でかでかと書かれた文字を黒板消しで消していく。
とにかく、絢瀬が来る前にこの状況を変えておかないと。あいつがまだ登校していなかったのが不幸中の幸いだった。
しかし。
「……」
どさっと。
荷物が床に落ちる音がしてそちらを向くと、絢瀬が最悪のタイミングで登校してきていた。
青ざめた表情は昨日の彼女を思い出させる。あのあともひたすらに絶望の淵にいるような顔をしていた彼女。家に帰ってなにをどれだけ考えたのだろう。そして、いったいどれだけの覚悟を持って今日ここにやってきたのだろう。
そんな彼女の覚悟が一瞬にしてぽきっと折れてしまった瞬間を目の当たりにした。
俺は慌てて黒板の残りの文字を消し、貼ってある写真を剥がしてビリビリに破いた。
俺がそうしている一方で、楓花がいち早く絢瀬のもとへと駆け寄っていた。
きっと俺が行くよりも上手くやってくれるだろう。そんなことよりもなんとかしたいのはクラスメイトのどこまでも無責任でどこまでも冷たい視線だ。絢瀬の過去の写真を見たことで明らかに彼女を見る目が変わっている。
男子も。
女子もだ。
空気感で分かる。今ここに味方は俺たち以外に一人もいないんだということが。
「みん――」
なにかを言おうとしたけど、なにも言葉が出なかった。
俺が今ここでなにを言おうとクラスメイトの気持ちは変わらない。むしろ逆効果になる可能性すらある。
俺はきゅっと唇を噛み締めて、顔を伏せた。
もっと言えば。
そもそも俺はどの面下げて何を言おうとしていたんだ。
偽物の仮面を被った俺にここで何かを言う権利なんてあるのだろうか。
「なにかあったのか?」
朝練組が少し遅れて教室にやってくる。
教室の異様な空気にいち早く気づいたのは瞬だ。
瞬は男子も女子も関係なくクラスメイト全員からそれなりの信頼を集めている。もちろん男子の中には瞬をよく思わないやつもいるだろうが、それさえも瞬のカリスマ性は捻じ伏せてしまうのだ。
そんな瞬の言葉により、教室内の空気は少しだけ変わる。
さっきまで明らかに絢瀬をじろじろと見ていたクラスメイトは各々自分の席へと散っていった。
「……謙也?」
「あとで話す」
楓花は絢瀬を保健室へと連れて行った。
その間に俺は遅れてやってきた鉄平と奈緒、そして瞬に栞を加えたいつものメンバーに今朝の出来事を話した。絢瀬の過去のことは伏せるべきか悩んだが、そこを隠したままでうまく説明できる気がしなかったので、絢瀬には申し訳ないが隠さずに伝えた。
もちろん、そんなことを知ったところでなにも変わらないと信じているからこそ話したのだ。
「そんなことが」
深刻そうにつぶやく瞬。
「別に今が可愛けりゃそれでいいのにな。なに言ってんだ?」
鉄平がバカっぽいくせに妙に的を射たことを言う。
そう。
過去はどうあっても消せはしないが、大事なのは今この瞬間なのだ。それを分かっていてもきっと納得はできないのだろうけど。
その日、絢瀬は二時間目から授業に参加した。
授業が終わるたびに逃げるように教室から出ていき、授業が始まるぎりぎりのタイミングで戻ってくる。それを繰り返し、昼休みもそそくさと姿を消した。本当ならば一刻も早くこの場から立ち去りたいに違いないが、彼女の真面目さがそれをさせなかった。
楓花や奈緒は話しかけようとしていたけど、タイミングが合わずに、結局その日はそのまま終わってしまった。もちろん、帰りも誰かに声をかけられる前に教室を出て行ってしまった。
そして。
その翌日、絢瀬美園は体調不良で学校を休んだ。
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