観光都市ミスドラス 5

 大きな岩石を並べて湯船とした、どこか東洋の異国情緒を感じる露天風呂だった。四方は竹垣に囲われていて、覗かれる心配もない。


「では早速」


「違う違う違いますステラ先輩。まず身体と髪を洗うんです公衆浴場初めての人ですか?」


「初めての人ですが」


「マジですか……」


 信じられない。王都には温泉こそ湧いていないが、公衆浴場はたくさんあるのに。


「はいそこ! そこの椅子に座ってください! わたしが洗うので!」


「自分で洗えますが」


「その手にあるものはなんですか?」


「ヘチマです。これで肌をゴシゴシとですね」


「はいアウトー! 全然、ぜんぜん駄目です先輩、おとなしく洗われてください!」


「え、なんで」


 本気で分かっていない目だ。よくその雑さでこの肌のきめ細かさを保っていられるものだと思う。いや、普段は風呂に入らず衛生魔法に頼り切りだと言っていたか。

 魔法頼りでは、たとえ衛生面がよくても心身の疲労が取れないだろうに。食事といい休養といい、この人は何かと自分自身を雑に扱うところがある。


「髪からいきますよー」


「はいはい、お好きにどうぞ」


 ステラの背後に立って、石鹸を丁寧に泡立てる。こうして見ると、うなじも肩も不安になるくらい華奢だ。

 艶やかな髪を一房手に取り、泡を塗していく。


「先輩の髪、綺麗ですよね」


「はあ」


「うわ興味なさそ」


「実際興味ないです」


「ですよねー。あ、そういえばわたし、友だちが出来たんですよ」


「ほう。仕事をサボってどこほっつき回っているかと思えば」


「ま、迷子だったって言ったじゃないですか。そのときに助けてもらったんですって」


 石鹸の泡を広げながら、メリアはクラウのことをかい摘んで伝えた。


「今どき、魔法石無しで暮らす人がいるんだなって思いました」


「まあ、王都の外では珍しい考え方でもありませんよ。魔法石否定派は」


 魔法石は極めて便利な道具だ。石の容量と人の能力。二つの限界こそあるが、それでも人々の生活を激変させ得るものだし、実際、市場流通が進んだこの十年で人々の暮らしぶりは大きく変わった。

 魔法石式のランタンは街の夜を明るく照らし、犯罪率の減少に交換した。

 汽車は石炭なしで動くようになり、運輸コストが大幅に削減。結果、王都の市場には大陸中の特産品が並ぶようになった。

 なにより、天災扱いだった竜の出現に対処できるようになった。かつては現れる度に数百人規模の被害者を生んだ上位竜にさえ、被害を抑えて立ち向かえるようになった。

 魔法石は世界を前に進める力だ。

 それでも、万人に受け入れられているわけではない。魔法石自体に反対する人はいる。その背景には、たとえば──


「先輩は、ミザクラ事件って知ってますか?」


 細い肩が、小さく震えた。


「……ミザクラ?」


「はい。あ、いや、ステラ先輩が知らないわけないですよね」


 魔法石のエラーによって三〇〇名を超える死傷者を出した、あまりにも有名な事故だ。この人が知らないはずがない。


「ミザクラが、どうかしましたか」


 髪の泡を手桶で洗い流しながら、メリアは答えた。


「わたし、あの事件が起きた街の出身なんですよ」


「え……?」


「だから魔法石に反対する人の気持ちも、ちょっとわかるっていうか──……ってちょっと、せ、先輩?」


 メリアは慌てた。

 ステラが、身体を捻ってこちらを見上げてきたからだ。髪と身体を覆っていた泡はすっかり流れ落ちて、白くなめらかな肌があらわになっている。つるりとしたお腹も、そこから繋がる控えめな膨らみも。

 痩せてはいるが、見惚れてしまいそうに綺麗な身体だ。

 けれど、メリアの視線を捉えたのはステラの裸身ではなかった。

 目だ。ラピスラズリのような藍色の瞳が、怯えたように揺れている。まるで叱られた子供みたいに。

 いやいや。

 怯え? 傍若無人を絵に描いたような、この人が?

 青ざめた唇が、わずかに震える。


「ごめんなさい。先に上がります」


「あ、はい、そうですね──え? まだ温泉入ってないですよ⁉︎」


「結構です。あなたはゆっくりしてきてください」

 

 唐突に立ち上がったステラは、乱暴な手つきで髪を絞りながら脱衣所へ向かう。


「え、ええー……」


 端的に言って意味がわからない。

 メリアは薄い背中と背後の温泉を天秤にかけ、結局は温泉を選んだ。ステラの背中は、明らかにこちらを拒んでいたから。

 熱めの湯に肩まで浸かりながら、二つの月が浮かぶ夜空を見上げる。

 ──そういえば、あの日もこんな月が出ていたな。そんなことを思った。


 †


 物心ついたときには、メリアドール・ウィスタリアには父親がいなかった。大工だったが、事故で早逝したのだそうだ。それを教えてくれた母は腕利きの薬師だったが病弱で、一日の半分はベッドで横になっている人だった。


「薬師の不養生ってやつね。情けないったら」


 そう笑う母は、肺の病に蝕まれてなお美しかった。


「ママ、摘んできたよ」


「ありがとう」


 病床の母に代わり、森で薬草を摘むのがメリアの仕事だった。母はベッドから起き上がり、メリアが置いた籠の中身を見て微笑んだ。


「うん、ばっちり。メリアは物覚えがよくて助かるわ」


 くすぐったい感情を押さえて、メリアは「当然だよ」と答えた。


「お手伝いは助かるけど、勉強は順調?」


「……。」


 あと七日で、メリアは十一歳になる。そうすれば、王立学院への入学資格を得ることができる。学院への入学はメリアの夢だ。どの学科を第一志望に選ぶかはまだ決めていないけれど、どこも学力的には問題ないそうだ。

 ただ、どうしても気掛かりなのは──母のこと。

 王都の学院に入学すれば、母をひとり置いていくことになる。

 思い切って、なるべく明るい調子でメリアは声を張った。


「わたし、やっぱり辞めようかな。受験」


 母の視線がこちらへ向く。目を逸らしながら、メリアは続けた。


「ほら、やっぱり王都って遠いし、知り合いもいないしさ。勉強ならこの街でだって、」


「受けなさい」


「でも、ママ……」


「あなたが本当に受けたくないなら、それでも構わない。でも、私を気遣う必要はないの」


「でも!」


 母はメリアを手招きした。メリアが近づくと、その頬を両手で挟む。


「子供が親の心配なんてしないの。それに、学院に行けば将来が広がるわ」


「将来なんて、わかんないよ……」


「そうね。でも、きっといつか、あなたも夢を見つける」

 

 そうなのだろうか。やっぱり、メリアにはわからない。


「ママもそうだったの?」


「もちろん。ママはね、ずっと薬師になりたかったの」


「うん」


「昔は、お母さんのお母さん──メリアのお祖母ちゃんに言われるまま、別の仕事をしてたんだけどね。途中で嫌になっちゃったのよ。誰も彼も古臭くて、自分たちの特権を守ることばっかり考えてたから」


「そうだったの?」


「そうよ。だから全部ぜーんぶ投げ出して、薬師を目指すことにしたの」


「うん」


「いつかはメリアも、働いて、お金を稼いで、生きていかなくちゃいけない。わかる?」


「うん、わかるよ」


「どんな仕事でもいいの。回り道でも、寄り道してもいい。でも、自分にだけは誇れる仕事をしなさい。誰も褒めてくれなくても、見てくれてさえなくてもいいから」


 乾いた指先が、メリアの前髪を丁寧に整えた。


 空に「それ」が現れたのは、翌日のことだった。

 母に頼まれた草を籠に集め、郊外にある我が家へと帰る途中のことだ。

 森を抜けて歩いていると、突然空が暗くなった。ブォン、ブォンと風を裂く音がして、メリアは空を見上げた。

 そこに竜がいた。

 青い鱗を持つ飛龍だった。かなり低い位置を飛んでいるのか、翼によって吹き下ろされた風が頬に当たる。メリアは咄嗟に、薬草が飛び散らないよう籠を抱きかかえた。

 街を囲む低い城壁の上に、古臭い大砲と投石器が並んでいるのが見えた。

 まもなく砲撃が始まった。鉄の塊と岩が竜に向かい飛んで行く。メリアは必死で走った。母の元へ。

 街は混乱の極致だった。

 逃げ惑う者、引き篭もる者、祈る者。火事場泥棒を働くものまでいた。

 どこかから、「竜避けの魔法石が破損してたんだ」という罵声が聞こえた。

 メリアは人並みを掻き分け、自宅へと飛び込んだ。


「お母さん! 竜だよ! はやく逃げようよ!」


 叫びながら寝室の扉を開けてすぐに、メリアは自身の提案が不可能であることを悟った。

 母の口から、真っ赤な血が垂れていたから。


「お母さん⁉︎」


「メリア」


 袖口で口元を拭った母が言った。「こっちへ来て」


 メリアは恐怖を押し殺して、母の元へ近づいた。


「だ、大丈夫……?」


「もちろん。メリアが帰ってきてくれたんだからね」


 痩せて骨張った手が、メリアの頭を撫でた。


「はんとに? 死んじゃわない?」


「死なない死なない。まだ、メリアの誕生日プレゼントを用意してる途中なんだから」


 シーツの上には、編みかけのネクタイが転がっていた。


「竜が来たのね」


 一瞬だけ、母が険しい顔をした。


「メリア。薬草を持ってきて頂戴。ミアナの球根とアロナの葉がまだ残っていたでしょう」


 ベッドから起き上がった母は、作業机に腰掛けた。陶製の乳鉢を乾いた布で磨いて、小さなすりこぎを手に取る。


「ママ、寝てなきゃ駄目だよ」


「きっと、怪我人が大勢出るわ。火傷を負う人も」


 だから薬を作らないと。

 母はそう言って、乳鉢に乾燥させた幾つかの草花を放り込んだ。ごりごりと、陶器同士が擦れる音がする。

 メリアの中に、苛立ちに似た感情が湧いた。


「そんなのどうでもいいよ!」


「よくないわ。怪我を負って、ここを訪ねてくる人がいるかもしれないもの」


 メリアが動かないことを悟り、母は自ら棚から薬草を取り出した。小さなナイフで葉を刻み、乳鉢で擦る。


「寝ててよ、ママ。もし動けるなら、私たちも逃げようよ」


「駄目よ。私は薬師だもの。今寝てたら、叱られちゃうわ」


「……誰に?」


 母に叱られたことはある。けれど、母を叱る誰かの姿は想像できなかった。母はいつも朗らかで、家を訪れる客は皆母のことが好きだった。少なくとも、メリアの目にはそう映っていた。


「私の師匠に」


「師匠?」


「私に、薬師の仕事を教えてくれた人よ。もう、すっごく厳しい人だったんだから」


「そうなの?」


「昔話に出てくる魔女みたいな人でね。なんでも知ってたけど、たくさん叱られたなあ。お前は要領も物覚えも悪すぎる、って」


「ええっ、ひどい!」


 もしもその場にわたしがいたら、そんな意地悪な人はやっつけてやるのに。

 母は手を止めずに、メリアを見て微笑んだ。


「でも、その人のお陰で私は一人前の薬師になれたの。今でも、心の中にあの人がいて、ときどき叱ってくるのよ」


「ママが?」


「そう。ママが楽をしようとすると、声が聞こえるの。『ちゃんと患者の話を聞け!』とか、『そんな雑な調合を教えた覚えはないぞ!』ってね」


 にわかには信じられない話だ。母は街一番の薬師だと、誰もが褒め称えるのに。

 怪訝な顔をするメリアに、母が微笑んだ。


「いつかメリアにも、きっとわかるわ。あなたが、心から尊敬できる人を見つけたときに」


 そういって、母は再び薬へと向き直った。メリアはその痩せ衰えた足を見て、ひとつの事実を悟った。

 この人はもう、歩くことすらままならないのだ。


「大砲が止んだら、あなたは逃げなさい。お母さんは大丈夫だから」


 母の声に、メリアは窓から空を見た。もうすぐ日が沈む。城壁の上で大砲を撃ち続けていた自警団たちが、撤退を始めていた。


「やだ。ママといっしょにいる」


「メリア」


「ママを一人になんて、できないよ」


 窓枠を掴む手に血が滲む。ささくれた木が皮膚に突き刺さっていた。

 悔しい。どうしてわたしは何もできないのだろう。

 竜をやっつけることも、母を蝕む病を治すことも。

 痩せた身体を背負って走ることさえできない。

 ままならない現実ばかりが押し寄せて、心をぺしゃんこに押し潰そうとする。

 ぼやけた視界に、竜の形をした絶望が映った。

 藍色に染まる空の下、煌々と輝く二つの月に照らされて、深く裂けた顎が大きく開いていた。

 メリアは一目で理解した。息吹ブレスが来る。街を火の海に変える業火が。

 ああ。ママの馬鹿。やっぱり、意味なんてなかったじゃないか。


 けれど。

 その炎が放たれることはなかった。


 代わりに──一条の光が、竜と街へ降り注ぐ。

 目に焼きついた光。

 その正体が、ミザクラ・ストレリチアが構築した魔法であることを、後にメリアは知ることになる。

 そのの奇跡が、何を引き起こしたのかも。

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