反撃と魔女の要件 6
廃坑を飛び出ると、空は藍色に染まっていた。二つの月が浮かぶ夜空を見上げ、三人はそれぞれ魔法石を起動する。
「【
直後、各々の身体が重力から解き放たれて、ふわりと浮いた。ナッシュが青ざめた顔で呟く。
「飛翔魔法……はは、分かっていても、正直少し恐ろしいな」
「これが最短で確実な脱出方法ですから」
中空へ浮かぶ闖入者を見つけて、鉄鎧竜が憤怒の咆哮を上げた。びりびりと空気が振動する。
しかし、それだけだ。飛行能力を持たない鉄鎧竜は上空に手出しできないし、すでに
「やっぱり、逃げませんでしたね」
「まさか」
ステラの揶揄うような言葉に、ナッシュが苦笑いを返す。
「きちんと罰を受けるよ。俺は今、そうしたいんだ」
そのとき、咆哮さえ吹き消すほどの轟音が鳴り響いた。切り立った斜面の岩盤が崩れ、大気を揺さぶりながら崩れ落ちていく。
鉄鎧竜は身を起こして事態を確認しようとしたが、もはや手遅れなのは明らかだった。
大量の土砂が、その巨躯を飲み込んでいく。
「やった! やりましたよ、ねえ先輩っ!!」
全員の内心を代表するかのように、メリアは快哉を叫んだ。紛れもない成功だった。綱渡りのような賭けだったが、自分たちは勝利したのだ。
当然のように、誰もが足下を見つめていた。雪崩のように降り注ぐ土砂と、それに埋もれていく竜の姿を。
だから。
当然、誰も気がつかない。
空に浮かぶステラの背後が、夜天に浮かぶ星々の光景が、歪にひび割れたことなんて。
そこから、ナイフを持った手が現れたことなんて。
「もうステラ先輩、聞いてます──か……?」
メリアが背後を振り返る。
そこには。
蜂蜜色の髪を靡かせて微笑む、古めかしい三角帽子を被った女と。
自らの腹から突き出した赤い刃を呆然と見つめる、ステラの姿があった。
「は、え……?」
「あはぁ」
女が嗤う。
ステラの身体が前傾し、その手から飛翔魔法を宿した魔法石が零れ落ちた。華奢な肉体が、真っ逆さまに堕ちていく。
女が、手にした杖をメリアたちに向けた。正確には、その背後にある土砂の山を。
「あは、あは、あははぁ」
何かひどく重たいものが、地面に落ちる音がした。
耳をつんざくような怒号が鼓膜を揺らす。メリアは背後を振り返り、自らの目を疑った。
生き埋めになったはずの鉄鎧竜が、その全身をあらわにしている。幾つかの鱗は剥がれ落ち、赤い鮮血を垂れ流してはいるが、それは致命傷からはほど遠く、むしろ怒りと暴虐の呼び水でしかなかった。
長大な尾が闇雲に石壁を打ち据え、さらに山肌を削り落とす。
「あ、あ……?」
メリアたちの身体が移動を始めた。石に宿るすべての魔法は、設定されたとおりに振る舞う。ステラの飛翔魔法は、距離を置いた安全な場所へ着陸するようプログラムされていた。
「待って、待ってよ、まだ先輩が、」
メリアが伸ばした手は、どこへも届かない。
三角帽子の女だけがその場に残る。
遠ざかる二人を見遣り、後を追うでもなく、つまらなそうに地面を見下ろして。
女は、赤い唇を釣り上げた。
「……あは」
何もない空間から箒を取り出して、腰掛ける。
「なんだ。あの子、まだ生きてるわ?」
†
ナッシュのスーツケース爆弾から回収した結界魔法が、紙一重でステラの命を救った。
元より対爆発、対衝撃用に最適化した魔法だ。落下の衝撃に対して、完璧な防御を行えるはずもない。それでも最低限の効果はあった。本当は、腹を刺される前に【稼働】するべきではあったが。
「……っつぁ、」
ステラはポシェットに手を入れ、常備している市販の外傷治療用魔法石を発動した。応急処置用の魔法で完治は望めない。なんとか失血死は免れるだろう、という程度だ。
魔法石とは、かくも不自由なものでしかない。
それでもステラはどうにか地面を踏み締め、周囲を見回した。
土砂から解放され怒り狂う竜と、そして。
二つの月を背景に、箒に乗った三角帽子の女。そして──鐘楼の竜忌岩を壊した女。
女の両目は、炯々と青く輝いていた。至上の宝石のごとく。
古書に曰く、魔女は石ではなく、その両目に刻まれた術式を用いるのだという。
邪眼、あるいは魔眼と呼ばれるもの。生まれながらに術式を抱く瞳。それこそが、魔女の魔女たる証だ。
もはや間違いはなかった。光る瞳を持ち、空間を操り、自在に空を飛ぶ。石の
──あれは。
本物の、魔女だ。
女が、泥と共に流れてきた岩に腰掛けた。
「こんにちは、ミザクラの弟子」
「……生憎、他人の顔を覚えいられない性質でして。どこかでお会いしましたっけ」
「初対面だわ? でも、あなたのことはよぅく知ってる」
「ストーカー」
「あはぁ」
「……自分だけ相手のことを知ってるのは、不公平だと思いません?」
「そうね。初めまして、ステラさん。私は魔女。魔女のグリザリアです」
女は平然と言った。予想通りの回答とはいえ、ステラの心臓が跳ねる。
石革命が起きる前、魔女とは神の類義語だった。奇跡の専有権を失い、いずこかへ隠れたはずの神だ。
「今更、現世になんのご用ですか、魔女様」
「私、魔法石が嫌いなの」
「……は?」
「石革命は、アニマ姐様が勝手にやったことよ。おかげさまで、奇跡の力だった魔法は、子供でも使える玩具に堕した。気に食わないと思わない?」
「その玩具職人に聞かないでくださいよ」
「不満があるのは、私だけじゃないわ? あの石コロは、あらゆるものを変えてしまった。街からは馬車のいななきが消え、石炭は不要になり、多くの人が失業した。【黒曜会】はね、それに不満を持つ人たちの集まりなの。古き良き、過ぎ去りし日々を愛する人々のね」
それは、予想はしていたことだ。ナッシュもその一員か、それに近しい立場だったのだろう。
「懐古主義でもなんでも好きにしてください。魔法石を否定するのも、使わないのも個人の自由です」
「若さって傲慢よね。いやなら使うな、なんて。使いたくても使えない、時代に取り残された人だっているのよ」
「そうだとしても、あなたはそういう人をいいように利用しているだけでしょう」
ナッシュのように。
ステラの言葉に、グリザリアは無言で微笑んだ。天使のように甘く。
「そうかもしれないわ? でも今回は、それはおまけ」
「……?」
「本命はあなたよ。ステラ・ディーヴァ」
「なにを……」
「時間停止魔法」
ステラの顔色が変わった。
「あなたとミザクラのどちらが編み出したかはわからないけれど。あれは駄目。時間と空間は魔女だけの領分よ。踏み込んだから危険と分かっているから、あなたも公表していないのよね」
ステラは、時間停止魔法の存在を公的に発表するつもりがない。今回使ったのも、人命がかかち掛かった非常事態だったからだ。
もし然るべき場所で発表すれば、剥奪された魔石技師資格を取り返すだけでなく、巨万の富と百年先まで残る名誉を得るだろう。
でも、それをするつもりはなかった。
この魔法は、あまりにも早すぎる。
法が、倫理が、制度が──なにもかもが整っていないこの世界で、人が扱い切れる技術ではない。けして術式の詳細を公開しないこと。それが、ミザクラとの約束だ。
「だから私はあなたとミザクラの首がほしい。あなたたちのどちらかが、金や名誉に目が眩まないうちに」
だが、それを伝えたところで、この女が信じるわけがない。
「……どうしてこんな回りくどいことをするんです。あなたが自在に空間を操れるなら、いくらでも──」
「馬鹿おっしゃいな。時間を止められる相手に無策で挑むほど、私は自惚れていないわ? それに、あなたの切り札はまだあるでしょう? だってミザクラは収監中なのだから、あなたが持っていないとおかしいわ?」
「……。」
ステラはポシェットに手を入れ、一際大きく輝く金剛石を取り出した。グリザリアが目を細める。
「やっぱり、あなたが持っていたのね。ミザクラ事件で飛竜を撃った、出来損ないの対竜魔法」
「出来損ないか、試してみますか? とっくに不具合は修正しています。設定ミスも、考慮漏れもありません」
「嘘つきだわ?」
杖の一振りによって飛来した礫が、ステラの腹部をしたたかに打ち据えた。
「かはっ……」
「あなた、撃てないのよね。怖くて」
かがみ込んで腹部を押さえるステラの顔から、血の気が引いた。
「だって撃てるなら、この子を倒すのにこんな回りくどいことするはずないもの。それ一発で解決じゃない。でも、あなたはそうしなかった。できなかったのよね?」
着弾。
「だって怖いものね。また失敗して、また誰かを巻き込んで殺しちゃうのは」
着弾。
「前は三百人。次に事故が起きたら、何人殺してしまうかしら」
着弾。
「だからあなたはその石を使えない。今の地滑りを見て、ようやく確信が持てたの、私」
激痛にボヤけた思考のなかで、ステラは理解した。この魔女は、とびきり慎重なのだ。
空間を操る魔女とはいえ、あらゆる竜を屠る大魔法、対竜魔法は恐ろしいのだろう。対竜魔法とは、ただの砲撃魔法ではない。概念、そして存在そのものを打ち抜く現代魔法技術の極地だ。
だから、それをステラが使えないと確信するまで、自ら手を下そうとはしなかった。万が一の反抗を警戒して。
逆にいえば。
そんな考えの主が、あえて表に出てきたということは──
「……はっ。この私が本当に、撃てないとでも、」
「思っているわ?」
グリザリアと鉄鎧竜の姿が消えた。一瞬の後に現れた彼女たちは、背後にミスドラスの街を背負っている。
自身の身に何が起きたか悟ったのか、竜は恭順するかのようにグリザリアの背後に伏した。
「自信があるなら撃ってごらんなさい。街を巻き込む覚悟があるなら」
ステラは痛みを堪えて腕を伸ばし、宝石を構えた。術式に自信はある。幾度も検証し、幾重にも試験した。この魔法は、間違いなく竜を撃ち貫き、けして暴走しない。確信している。
「……っ、」
けれど、撃てない。
崖上から見下ろした焼ける街の記憶が、瞼にこびりついて離れない。
マリアンヌの依頼を受けた時、この石を渡せなかった理由がそれだ。放置すれば鉄鎧竜は街へ降りてしまう。今しかない。分かっている。でも。
また失敗するかもしれない。
致命的な考慮漏れが、埋もれていた術式のミスが、どこかに眠っているかもしれない。改修が、
ステラが自分の魔法を完璧だと嘯くのは、結局のところ、そうでもしないと怖くて魔法を作れないからだ。
いつだって、ステラは自分に言い聞かせている。お前の魔法は完璧だと。だから、大丈夫だと。
でも。
「あはぁ」
月明かりを浴びて、魔女が笑う。
「安心して。じきにミザクラも、同じ場所へ送ってあげるわ?」
「……う、く、」
「ここまで言われて撃てないのだから、本物ね」
指先の震えが止まらない。
心の中で、ミザクラ先生が怖い顔をしている。それでも、あと一歩が踏み出せない。結局、私は──
「ここまでだわ」
グリザリアが近づいてくる。その手には、刃の形をした殺意がある。怜悧な面差しには、嗜虐的な表情が浮かんでいて──
そのときだった。
彼我の間に丸い球が三つ、ころころと転がった。
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