第27話

十一月四日、大船団は東シナ海を二列縦隊で杭州へ杭州湾へと進む、我等は敵前上陸の準備万端が整う。

刻々と迫る敵地に緊張感が現れてくる。

夜に入り明日の戦闘の為に皆、深い眠りに入るが船は休まず進行している。

午後十一時、愈々よ船は目指す杭州湾に着いた。

ガラ、ガラ、ガラと錨は降ろされ、甲板上に出て見れば四面は濁水で、海の上は天祐か深い、深い霧が流れていて数十メートル前方は全く見えないのだ、大船団は微光だに漏らさず静かに敵前で錨を降ろした。

船員は起重機をガラ、ガラと動かし始める、工兵は船の準備を開始する。

敵は果たしてこの大軍の来襲を知るや、否や。

十一月五日の午前二時には歩兵は起床し、天幕には絶対必要な物のみを入れて背負い、その上に浮き袋を着け鉄兜に身を固めて一人、また一人と舷の縄梯子を伝って降りてゆく。敵前上陸の先遣隊として大分県の柳川師団の国東支隊が先陣を受け給っているのだ、重大な任務である。

我等、山砲も上陸準備を終わり武装に身を固めて先遣隊に「元気でやってくださいよ」と言葉をかけて見送り、先遣隊の成功をひたすら祈る。

歩兵の移乗が終るや大発はエンジンをかけて静かに本船を離れ白波を蹴立てて、敵地に向け濃霧の中に消えてゆく。

本船に残った者は大発の後を見送り、先遣隊の「武運長久なれ」と神に祈る。

誰も語らないが、ひたすら先遣隊の成功を祈っていると暗夜の霧をついて「ダダダー、ダダダー」と機関銃の音が聞こえてくる、皆耳を傾ける。

遂に敵に遭遇したのだ、友軍に不利でなければ良いがと歯をくいしばりながら心配する、気がつけば手には汗をいっぱいかいている。

軍艦からの砲撃も開始され、駆逐艦に依って煙幕は張られてゆく、夜は次第に明け始めて霧も段々にはれてくる。

彼方の陸ではピカッと光る、砲弾が炸裂しているのが眼鏡で見える、隣の御用船からも船上射撃を始める。

軍艦から撃ち出す大砲の音は杭州湾を圧し、この海上に浮かぶ百数隻が一夜にして不意に湧いた襲撃に、敵はどんな気持ちでいるのだろうか。

我等は甲板上で歩兵部隊を上陸させた後の大発の帰りを待っ。

機関銃の音に、ずっと先遣隊安否を気遣っていたら、漸くして先遣隊を送った大発が帰ってきた。

「敵は暫し抵抗したけれど、敗したので無事上陸した」と大発の船員からの報告で、苦戦が予想されていたので心の中の重荷が下りた様な気がした。 

戦場に於いては友軍の誰をも自分の体の一部であるように心配しているのだ、隊長の部下に対する心配はいかばかりかと思う。

我等、山砲も漸くの事で大発上の人となり、濁水の海に浮かび本船を離れて敵地に向かう。

大発は陸に近い腰ぐらいの深さの所に止まる、そこからは大砲も弾も全部、人間の力で陸に運ぶ。

浜に上がって見れば幅二間、深さ一間もある塹壕が掘られ海岸線に沿って、何処までも続いているのだ、塹壕には点々とトーチカが築いてある。

敵が、この堅牢な陣地をすげなく捨てたのは不意の襲撃をくったからであろう、辺りには上陸後に捨てられた浮き袋が散乱している。

大発からの重い機材を下ろし、道の傍らの石に腰をかける。

故郷を思わせる稲穂、珍しい南国の家を眺めていると担架に一人、他に三~四人も手や足に包帯を巻いた者が来る、負傷者が退却して来ているのだ。近寄って見れば一昨夜、演芸会で数え歌を唄って一同を笑わせた勇士もいる、痛そうな手を我慢して挨拶をする。

「やられたですか、残念でしたね」と言えば「いや、なんの軽症ですからねタバコを持ちませんか」と言う。

勇士達は暗い内からの進撃でタバコの事を考える暇も無かったのだろう、船上で知り合った人達には何の遠慮も無くなっていた。

後方に退って安心し急にタバコが欲しくなったのだろう。

我等は先刻、タバコを充分徴発したので各人に四~五本づつ皆、出して与えた。

早朝来の必死の戦闘で苦闘、負傷の後で吸うタバコは何とも言えぬ味がするらしく、実に旨そうに吸っている。

担架の勇士を見れば、軍服は脱いで上から着せてあるが胸に厚く巻いた包帯は鮮血にそまっている。

顔も、手も青ざめ、口からは血の泡をふいていて息をする度に「ぶす、ぶす」と音をたてている。

胸部の貫通で肺からの出血だ、あまり長くもてそうにない、胸に乗せてある軍服には伍長の肩章が光っている。

担架が道に下ろされた気付き静かに目を開けたのを見れば一昨夜、我々の向かい側の所にいた班長さんだ。

一昨夜の元気な姿が、今日はこのようなことになろうとは戦場の常とは言え、あまりの激変に胸は塞がれ熱いものが胸に込み上げてくる。

定まらぬ目で我等を眺め、微かに「水、水」と言う。

あまり飲ませるといけないとの事で、自分の水筒を口につけて少し注ぐと、苦しそうに「ごくり」と一口飲んで静かに目を閉じる。

我等は傷ついた戦友に神助あらんことを祈りつつ前線へと急ぐ。

浜には舟が帆を下ろしたまま、寄せる波に船底を洗わしている。

昨日は漁で沖に出たであろうが、今日は戦禍で人影も無く舟は主待ち顔で淋しくよこたわっている。

浜の土手に登れば、十一月というのに生暖かい風が頬を撫でて通り過ぎてゆく。

九月以来、北支の山中で震えて凍死者まで出たのに、この地方では外套も要らないので嬉しい。

土手の上から見渡せば一面の水田には稲が黄金色に色づき朝風になびいていて南国情緒豊かな眺めである。

田園の中の家は瓦葺きであるが棟の両端が反り返っていて壁は白壁で、北支の土ばかりで造ってある家を見てきた我々には、この中支の風光は珍しくてならなかった。

家の後ろには北支では見かけなかった竹が繁っており、家の前にはクリークがあり、家の周囲には数十羽の鶏、家鴨が群れて餌をついばんでいる和やかな眺めだ。

この時、偶然に高木先生の姿を見つける、戦焼けした顔は黒いが昔と変わっていない身軽な姿だ、軍刀を背負った大佐の肩章を付けた連隊長殿と歩いて行かれているので、自分は「高木少佐殿」と大きな声を出して呼んだ。

元教官は振り返り自分を見て立ち止まられ、頭のてっぺんから、つま先まで見てから「衛藤か」と言われた。

農学校を出てから足かけ六年になるのに、良く覚えてくれてくれたものだと思って嬉しかった。

六年後の今日、中支の戦場で会うとは夢にも思ったことは無いが、運命のはかり知ることの出来ない出来事に驚く。

「元気だね」と笑って言われて、自分の肩章の二つ星をちょっと見て「何時、入営した」と昔の聞きなれた声で尋ねる。

「本年、一月です」と二言、三言交わして先生も連隊副官で忙しく、自分も中隊が前進を始めたので、名残惜しんで「では高木先生、お元気で」とお別れの言葉を簡単に述べれば「おっ、気をつけて元気で行けよ」と慈愛の言葉をかけてくれた。

再会の日、有るや否や知らず、中隊の後を追う。

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