第9話

再び行軍、馬を引き這って登るがごとき山道を登り始めた、非常に道は狭くて落ちれば麓までいっぺに落ちる。

この狭い道の途中で負傷兵を運んでいる担架と出会う、全く抜き差しならぬとはこの事であろう。

我々は道が狭いので、馬を方向転換させて引き返す事が出来ぬ、衛生兵の者達もこの険悪な道をせっかくやって来たのに、気の毒であったが少し引き返して貰う。

衛生兵達は不承不承、引き返してくれたので感謝した。

八つの担架には黒くなった血を軍服に、仮包帯に滲ませて顔色も悪くよこたわっている。

野戦病院まで後五~六里もこの重傷者達は行かなければならないのかと思うと、気の毒で頭がさがった。

この時衛生兵達は退ってくれたが、此の狭い崖の細道は坂があまりにも急勾配なので、自分の馬の鞍が尻の方へずり落ちて、見る間に鞍が尻にはまって動けなくなったのでうまは驚いて暴れだした。

太陽は山の端に落ち、夕暮れで空はあかくそまっているので皆急いでいて私の前の者達はどんどん先に行き、担架に乗せられた重傷者達もこの先でまってくれている。

この時、自分は全く泣きたいほどだった、しかし泣いてもどうにもならない。

馬が暴れるので気が気でない、一歩誤れば千尋の谷へと転落してゆくのだ。

自分は一生懸命に馬の手綱を片足で押さえて腹帯を解いた。

幸い鞍は取れた、早く鞍を馬の背に乗せようとしたが、鞍には装具が載っているので大変重い、さらに馬は一頭だけになったので前の馬の後を追おうとしてもがく。

どうにかして鞍を馬の背に乗せ、今度は鞍がずらないよう腹帯を強く締めて後を追った。

ずっと待ってくれていた重傷者を乗せた担架も、やっと通ることが出来て私はほっとした。

中隊は頂上で待ってくれていた。

狭い急勾配の坂道を登り終わったら、急に喉の渇きをかんじだした、我々はすでに飢えと、渇きと、疲労でくたくたになっているのだ。

頂上にも別の担架の一隊が休んでいたので「水は此下の谷間にありませんか」と尋ねたら「此下には井戸がありますよ」と一人が答えて言う。

此れを聞いて皆、急に元気が出た「よし、下りよう」と立ち上がって馬の手綱を取り、重い足を引きずって歩き始めた。

東から西へと向かい、向かいの山との間に広い河原があるが一滴の水もながれていない。

その向かいの山の麓に灰白色の支那人の家が四~五十軒ある、屋根まで土の家だ。

周囲の山はどの山も禿げ山で一本も木はえてないが、その部落の周囲には僅かに緑の柳の木がある、その僅かの木を見た時に水はたぶんあるだろうと思った。

これだけの家があるからは水は絶対必要なのだ、必ず水はあると思った。

今までとは反対に急な下り坂を下りる途中で、また担架の一隊と出会って困ったが中腹の所まで下りた時、岩から時たま水滴が落ちている、その一滴を舐めてみたが一滴ではどうしょうもなく諦めた。

次第に足下は暗くなってゆく、麓に着いた時は日は落ちてしまっていた。

四~五名の兵隊に会ったので、井戸のことを尋ねたら「そんなものは、この近所に無い」と聞いた時は本当にがっかりして、全身から力が抜けてしまった。

やがて山を下り終わって河原に出た機関銃、小銃の音は四方から聞こえるが何処に敵がいるか、味方がいるか解らない。

辺りは真っ暗になってきたので全員乗馬して河原を上の方へと進んだ。

ところが戦友の川上が夜間になり、目が見えなくなったとのことで困った、自分は一案を考えて自分の背に白い旗をつけて自分のうしろを歩かせた。

行けども行けども、ただの河原で猫の一匹も出て来そうにない、だんだん不安になってきた、小隊長も少し心配し始めた。

馬に乗っていても、馬にも一日ろくに水を飲ませてないのを思うと、馬が可哀想でならなかった。

幸いに十名ばかりの歩兵に会ったので尋ねたら「ここから千メートルばかり行った所に小部落があり、そこに歩兵の大体本部がいる」とのことで「我々が探しているのは山砲の連隊本部である」と言うと「知らない」とのこと。

歩兵と別れて、再び我々は敵が何処にいるのか解らない殺気を含んだ暗闇の中を前進した。

半道ほど行った頃、友軍の歩哨から質問を受ける「山砲からの連絡だ」と小隊長が答え、小隊長は馬上から歩哨に状況を聞いていた「この先が部落への入口」とのことなので、我々は部落の中へと入って行った。

夜目でよく解らないが、どの家も頑丈な土壁の塀でもつて囲んである。

土壁の塀の中には土ばかりで造った小さな家がある、両側が土塀になってる道を曲がって十字路の所に出た。

全く知らない土地で水が何処にあるか知らないで、ひとまず水のある所を尋ねることにして、馬の水を汲んでくることにしたが、井戸は無いとのことで尋ね尋ねて部落の外れまで行くと溜め池がある。

懐中電灯でよく見ると黒ずんだ泥水だ、水の表面には油を水に浮かしたようなキラキラと光るやつが浮いている。

溜め池には多くの兵隊が水を汲みに来ていて、歩兵は濾過器を使って綺麗な水にしていたが、みずの出が少ないので二十名くらい列をなしてまっている。

自分は夜道では日は暮れないと思って列の最後について待った。

戦友の中島は待ちきれずに濁水に口をつけて「ぐう、ぐう」と飲んでるではないか、慌てて止めたが聞く耳を持たず「ぐう、ぐう」と飲んで、飲み終わって「まてるもんか」と満足そうにすましている。

自分は順番を待つけど容易に順番は来ない、小隊長を長く待たしては申し訳ないと思ったので水嚢に水を入を汲んで飲まずに帰った。

今日の昼のボーフラ水の一件があったので濁水は飲む気にならず、つくづく思ったのは内地の綺麗に透き通った清水を飲みたくてならなかった。

馬に水を飲ませれば、いくらでも飲むので疲れきった体で何度も溜め池まで往復した。

この部落は夕刻通ったばかりで銃声がしていたが、溜め池の上の方には敵がいるとのことで、池に行く道を歩兵が堅固な土壁を築き、機関銃を据えてものものしく警戒している。

警戒陣地を水飼の水を両手に持って通るのは一苦労だったが、やっとのことで水飼は終わった、だが餌がないので腹をすかした馬はじっとしていない。支那の家屋には馬の繋ぎ場所が無いので、自分は馬の手綱を持っていると昼の疲れが一気に出て睡魔が襲ってくる、何時かふらりとした時に手綱が手を離れて、馬が咬みついたり、蹴ったりしている油断は出来ない。

歩兵は今夜半、夜襲をするとのことで忙しく準備している、此処其処で飯盒で炊飯している。歩兵が炊飯してる所に水があると聞いたので、戦友と交代で馬を持ち合って炊飯に行った。

濾過した水を大きな釜で沸かしていて、歩兵は夜襲準備のために水筒に水を補充している。

自分も順番を待って水筒に水を詰めて持ち帰り皆と一緒に飲んだ、その水の味は甘露そのものだった。

我々は前方に敵がいて前進不能とのことで、明日には大隊本部が此処に来ると解り、夜の明けるのを待つことにした。

午前二時頃、通信下士が連絡に出て帰ってこないので迎えに行けとの命令で、戦友の中島と探しに行ったが見つからず、むなしく帰ってきた時には東の空が白み始めていた。

我々はまず馬を飼わなければならない。

部落を出ると、青々とした広い玉蜀黍畑がある、しめたと思い腰の銃剣で玉蜀黍を切って持ち帰り馬に与えた。

玉蜀黍には実が付いていたので、食糧を持たない我々は実を焼いて食べた、これが朝食だ。

夏の夜は明けやすい、六時頃に連隊副官が来たので早速出発する、広い河原を横切って昨日通った山の方向へと進む。

急勾配の細道を馬から下りて登り始めた。

皆はたいした荷物は無いが、自分は重たい砲隊鏡を背負っているので今朝食べた玉蜀黍ではあまり力がついてなくて一苦労だ。

我々観測は約七百メートル位の山頂に着いた、砲車は山の中腹に砲列を敷いている、眼下には昨夜いた部落が見える。

向こうの山は僅かに緑をとどめている、眼鏡で見るとその山の中腹には小さな姿が動めいている、我が中隊は一斉に初陣の砲弾を敵に向かって砲撃する。

「シュル、シュル、シュル」と砲弾は唸りを上げて飛んで行き、敵陣で爆発し真っ黒い土煙が打ち上がる、敵兵が走り慌てて逃げているのが眼鏡から手に取るように見える、続けて数十発を撃った。

ところが何処から来たのか「ヒュル、ヒュル、ヒュル」と音を立てて我が軍の砲車の後方に敵砲弾が二発落ちた、初めて経験で自分の側に落ちたのでなくても気持ちの良いものではない。

敵の砲兵を血眼で探したが見つからず、砲車らしいのが見つかったので中隊長に報告した。

その方向を皆が一斉に見たが、敵らしき砲車は一向に発射せず、動かないので中隊長が「おかしい」と言い出した。

よく見れば砲車ではなく岩だったので、全く自分の面目丸つぶれで申し訳なかった、初陣での初失敗だつた。

中隊の砲手以外の者は頂上の観測班の所に燕が電線に止まっ様に並んで腰を下ろして見ていたので、恥ずかしかった。

今朝、連隊副官の宮地少佐が来たが面白いことを言い出した「今朝、屁をしたら身が出て、今までビチャ、ビチャして気持ちが悪くてならなかったが漸く乾いた」と言ったので皆、苦笑せざるを得なかった。

綺麗な水が有れば、当然綺麗な水を飲むが無いので数日来、泥水ばかり飲んでるので皆ひどい下痢になっている、誰でも皆経験していることなのだ。

泥水は飲めないと言っていれば命を失うことになる、泥水なんか飲みたくはないけど、生きるためにしかたなしに飲んでいるのだ。

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