第23話

漸く出発となり前進してみれば、これは如何に立て板の如き山肌が四~五間ある。

人間一人でも這って登らねばならぬ程の所を砲を駄載した馬を登らせようというのだ。

自分の馬は乗馬であったので馬の背には鞍のみであったから、気合いもろとも引き上げれば馬は一気に飛び上がって来たので自分は一息ついたが、後の戦砲隊は如何にして来るであろうかと心配でならないが、やっと立て板の所を越えて来たので前進する。

一難去って又一難とはこの事だ、道の右側は一気にそそり立つ山肌で、左側は一歩踏み外せば千尋の谷で、谷底は何処にあるか暗闇で解らない。

この道は少し堀取って造ってあるので爪先上がりになっていて馬の蹄は滑る。

危険な箇所なので前の者と後ろの者とは互いに声を出して連絡を取り合って進む。

戦友の中島一等兵は馬の鞍が馬の尻から落ちたと後方から言ってくるけど、自分の馬を後ろに退げることは出来ない、さりとて手綱を放して自分が行けば馬は断崖を墜落するの、如何ともし難い。

山腹に吹く寒い夜風の中、乗馬でさえ困難きわまり無いのに、駄載した馬は如何にして登って来るであろう、今のところ駄載した馬が登ってきている様子は無い。

中島の後を来ていた川上に尋ねれば「今、数頭の馬が最初の崖を登って来た」とのことだ。

歴史上に名高いナポレオンのアルプス越えもこのようであったろう、暗闇で時計を見れば十時を少し過ぎている。

北支の秋の山肌を吹く風は内地の師走を思わせる、着ている軍服は未だに夏服だ、全く地獄の一丁目とはこの事だ。

切り割りになった頂上へ来れば、向かいから吹き上げる風は風雪の中を思わせる。

今、故郷の父母は安らかな眠りについているだろう、この苦しみ、この苦労は想像だにしていないだろうと思った。

登りは一方ならぬ困苦であったが、下りも足元は見えず相変わらず千尋の谷の崖の細道だ、危うく足を崖から踏み外しそうになり、心臓が止まる思いをした。

難路も難路も、かかる剣山を越えるのは初めてで、中隊の数頭の馬が谷底に消えた。

馬には砲を積んでいたので、砲が無ければ戦が出来ない、暗闇の中を落ちた砲は崖をったって持って上がらなければならない、決死の仕事だ。

我が小隊の馬も一頭が谷底に骨を埋めたとのことだ。

我が馬は無事に山を下って、前の舞台との連絡も終わり、自分は寒い畑の中で中隊の終結を待った。

再び出発したのは午前一時過ぎた頃だったろう、険阻な道を登ったり、下ったりして行く、寒さは寒し、暗さは暗し、ある部落に着き暖を得たのは明け方近い四時であった。

鞍を枕に微睡めば夜は白々と明け放たれ、出発準備を始めねばならず、昨夜の空腹を粟飯で満たす。

準備をしていると、極めて靴の状態が悪い者は地下足袋を下給するとの事で、数日前から靴は破れて小石が入り、痛くて我慢しかねていたので交換して貰う。

今日は平坦な道を行軍し、午前十一時には目指していた師団指令部のある霊邸に到着。

困難に耐えてはるばる援護に来てみれば、最早その必要は無くなり本隊に復帰すべしとの事である。

力が抜けてしまったが、その日は労をねぎらわれて休養する。

我らは久し振りに酒を下給され日本米を食べる、醤油などは出征以来で珍しくて舌鼓をうった。

二箱貰ったタバコは皆大事そうに吸っている。

霊邸の高い城壁の前には数十台の自動車が並び、食糧が山と積んであるのを見て、この山の中に良くもこんなに運んで来たなと思って感心したが今日、平静関の山岳地帯で霊邸に来る途中の百数十台の補給物資を積んだ自動車が襲撃され師団参謀が戦死したとの事で補給部隊も大変だなと思った。

二十八日の朝、まだ明けざる霊邸城を後にし、再び来た道を帰る。

昨夜の道ではなく他の道がありそうなものと思っていたら今日も又昨夜の道だ、溜め息が出るが登ってみると足元が明るいため昨夜程の困難は無く、無事に越すことが出来た。

太陽が西に傾く頃、昨夜大隊と会った所で炊飯、食事をして再出発、暗夜の石河原を一昨日来の疲れで足を石につまづかせつつ行軍する。

ふらり、ふらりと手綱を持って歩いていると、何時しか前の馬の尻にぶつかって驚き目覚める。

このようなことを繰り返しつつ一里、二里と重い足取りで夢うつつに行軍して行く。

道辺の木や石に、いやと言うほど頭を叩かれたのも二度、三度にあらず、夢うつつで馬鹿のようになって行軍し、ある町に着いたのは夜も明けんとする午前四時過ぎであった、馬の飼付けをして眠る。

目覚めれば入浴場があると言うので出掛ける、この町の唯一の浴場だ。

支那人が入浴すると言うことは農民階級においては滅多にない、贅沢に類するとの事である。

支那人が水をだいじにするのは解せぬ事だが、水が少ないからだろう。浴場に入ってみると天井が低く窓が無いため声が響いて話は出来ない。

湯が一尺ばかり溜まっていて五~六名の兵隊が入浴していたが、湯は薄黒くなっている。

入浴すると汚ないぬるぬるがベッタリと肌に付く、洗いに来たのか、汚れに来たのか解ったものではない。

疲れを癒す暇もなく出発、この度は山岳地帯を出て保定に向かうとの事で嬉しかった。

今日、再び万里の長城を越える。

延々たる城壁は今も尚、昔が偲ばれてさながら三國志な中にいるような気がする。

河岸の望楼が水に映っている、その美しい景色はさながら一幅の絵である。

望楼の入り口の所に可憐な幼児が路上に座っている。

多分、避難民の子供では、足遅きをもって捨てられたのであろう、何という悲しい事であろう。

誰も憐れみを感じて持っていた乾麺包などを与える、無心の童子は喜んで笑って食べる、この光景を見て勇士達の心は曇った。

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