第7話

全く三日二夜の食事も無く飢えはひしひしと迫ってくる、タバコも濡れて吸えない「濡れ果てて飢え迫る夜の寒さかな」の感が深かった。

遅れた兵隊が後方にいるので後方連絡の為、川のように水が流れている暗い道を出征の時に持ってきていた懐中電灯で照らして部落の外れ迄行った時、向こうから四~五人で機材を担いで歩いて来ていた。

これで集結が終わったので出発したが、道は益々行軍には困難な状況になってきた。

私は馬上で人の背嚢を背負ったまま、暗夜の高粱畑を腰に銃剣を有するのみで大隊本部へ連絡の為に再び出発した。

高粱が夜風に「さわ、さわ」と音を立てる、敵が高粱畑の中に隠れていて「ズドン」と一発みまわれると終わりと思うと、あまり良い気持ちはしなかった。

道は滑って危ないので馬を走らせることも出来ず、馬を急がせて一人で闇の高粱畑を行く。

全く知らない道を行けども行けども高粱畑で、一つの部落を通った時に友軍の自動車があったので、何だ友軍はこんな所にいるのかと思うと安心した。

そこから一里も行った頃、馬が突然くるりと回って今来た道を帰ろうとする、手綱を引き直しても何としても前に行かない。

暗闇を透かしてみると二~三十メートル前方に何かしら黒い物が動いている、敵があらわれたかと思って息を殺した。

困り果てていたところに一人の伝令が来たので二人で無理やり拍車を入れたら二頭でようやく前に進み始めた。

よく見ると前に通過した部隊が倒れて駄目になった馬を捨てたのだろう、泥の中で立てずにもがいている、高価な馬をどんどん捨ててゆくのを見ると随分勿体ないよぅな気もする。大隊本部との連絡も漸く取れて夜中の三時半頃、小さな部落について二人で雨の中を中隊が通るのを待っていると三十分ぐらいして中隊が到着、もう夜は明けようとしていて東の空は白み始めている。

何も食べずに夜中行軍さしたので腹は減るし、眠くてならない。

馬を急いで畑の中に繋いで、土ばかりで造ってある二~三間ぐらいの小さな家の中に三十名近い人がいるのでどうしょうもなく、とりあえずは小隊長を囲んで焚き火をして、装具を交互に置いて濡れた軍服を乾かし、軍服が乾くと間もなく皆は土間に寝転んだ。

夢うつつで明日十一時出発の命令を聞くと、安心して再び深い眠りに落ちる。

一睡したと思ったら夜は白々と明け渡っているけど空腹でならない。

朝起きてから初めて鶏の徴発に三人で出かける、二人は上海事変で徴発を経験しているので、その要領でやる。

三羽を料理したが調味料など無いので、携帯用の持っている食塩を入れてソップを作り皆に食べさせる。

食べなければ戦争は出来ない、米は一日分しか持たないのを朝二食分食べたので残りの食料は米一食分と乾麺包二袋のみだ。

出発命令は来た、飯盒の蓋で熱い湯を飲んで急いで準備する。

近くに井戸はあるが、一個大隊の兵隊が汲むのでなかなか順番が回ってこない、遠くにもう一つ井戸があると言うので戦友とあちこち馬の水嚢を持って探し回る。

初めて水のことを支那語で「良水」と言うことを覚える、「良水」も天津で駐屯したことのある兵隊が教えてくれた。

支那人を見る度に「良水、良水」と手真似でもって話すが珍しそうに眺めているだけで、女は我々の姿を見ると逃げて行く。

四十歳前後の破れた服を着た農民らしき支那人が親切にも水の入った桶を持って来てくれ、水を汲んでくれたので冷たい井戸水を満喫する。

此の辺りの井戸は非常に深いので日本での岩清水のように冷たいが、多量に飲むと必ず下痢をする。

水筒にも一杯入れ、持ってきた水嚢にも皆の水筒用として満々と入れて持ち帰った。

水を汲んで帰ると天津にいた後藤上等兵が「謝謝」を連発する、有難うとの意味だそぅだ。

夕べの雨が低い所に溜まっていて、道は小さな流れとなって水が流れていて丈の高い高粱畑の間からは雲間に青い空が見えている。

夕べの大雨の中で落伍していた中隊長殿の当番兵である特務兵の吉浜という男が青くなって到着する。

その男は途中で歩けなくなり暫くは道に寝ていたが、部隊とはぐれたら命の保証はないと思い、これではならじと歩けなくなれば足跡を頼りに這って来たとの事だった。

身は敵地であるので、内地の演習みたいな気楽な事は出来ぬ、命の有る限り動ける間は部隊について行かなければ誰も守ってくれる者はいないのだ。

正午頃に雨上がりの蒸し暑い中を出発、今日は暑いこと夥しい馬上にいても軍服が絞れるぐらい汗が出る。

相変わらず背の高い高粱畑の中だが、自分ら挺身班は中隊を離れて連隊本部へと行く。

途中、川の流れている林の中で大休止をして昼食をとる。

私を乗せ人の重い荷物を背負って何度も本部との連絡に行ったので、ついに私の馬が弱って倒れたので駄馬にやり、代わりに弱っていて良く歩けない馬を貰う。

貰った馬はふらふらしていて乗っていても気が気でないが作戦上、任務遂行の為には可哀想だが馬に乗らざるを得ない。

暑いので喉が渇いてならないが広い畑の中なので周囲に水はない。

遠くに緑の山が見える、そこまで行ったら清い冷たい水が木々の下を流れていることであろうと思って、四~五里向こうの山へと炎暑の中を楽しみに行軍する。

着いてみれば全くの禿山に近く、短い草が薄く生えているのみで期待が外れ、これには全く力が抜けてしまった。

夕刻には北営樹林という五~六十戸の小部落に着く、部落の中央に広い河原があるが水は少ししか流れていない。


支那人の家の庭に馬を繋いで伍長と二人で今日の宿舎を探して歩く。

北支の家は如何なる小さな家でも大きな土壁を以て家を囲んであるが、その土壁の中にどんどん負傷者を担架で運び入れているので行って見ると暑いのに天幕が張ってあり、そこが野戦病院になっている。

鮮血で軍服を血塗り、白い包帯を血に染めて勇士が横たわって唸っている。

砲声が「ドーン」と響きを立てて聞こえてくる、激戦が此処から四~五里前方の山岳地帯で行われていると言う。

しかし四~五里前方の戦場より此処までは朝に出発しても夕刻しか着かず、重傷者はほとんど助からないと聞き気の毒でならず、

負傷者には自然と頭がさがった。

明日は我々もかかる運命になるやも知れぬ身なのだ。

しかし我々は戦線が近い事が嬉しくて武者震いした。

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