第31話

十一月八日、昨日の朝からの行軍に続き夜行軍までした強行軍は、僅かに一里も進んでいないのだ、これでは戦線に益々遅れるばかりだ。

クリークは目的地まで続いているとの事で、陸上ではなく舟を徴発して水上を行けとの命令に、早速小舟を二隻徴発して山砲を分解し弾薬共に舟に乗せて前進する。

馬の十一頭は別動隊となって、我々は深川少尉の指揮の下で出発する。

我々、観測班は川を伝って中隊と共に行軍することとなり、雨の中を機材を担いで濡れ鼠になって行く。

ある部落で昼食をし、そこで小舟を見つけて五人で乗ることに決める。

たまたま干潮の時でクリークの水は急流となって進行方向と逆方向に海に向かって流れているので、船頭の経験のある中島が櫂を操れど舟は思うように進まない。

中島が「疲れた」と言うので自分が櫂を握って漕いでみたら、これは如何に舟は忽ち反対方向に向きを変えてクリーク中隊の舟とすれ違って流れ出した。

すれ違う舟から中隊の者が「やんや」と笑っているが、どうしょうもない。

中島が「どうせい、こうせい」と言っても舟は反対方向に行ってしまう。

中島の今までの苦労が無駄になってしまったので、怒って櫂を取りあげた。

自分も諦めて櫂を操るのは止めた。

中島以外に舟を漕げる者は一人もいないので考えた結果、中島が疲れたら半分づつ交代で舟に縄を付けて引っ張った。

クリークが分岐して横に出ている所が一~二丁毎にあるので、その場所は舟に乗り分岐して横に出ているクリークの所を過ぎれば、再び陸上から舟を引っ張った。

その夜は川岸に舟を繋ぎ、火を焚いて暖かい家の中で疲れた体を休め、一睡すれば出発準備にかかる、馬がいないので準備が楽である。

十一月九日 午前七時、今日は昨日の小舟を捨てて大きな船で、小隊全員が乗って出発する。

暫く行くと、煙を吐いている蒸気船がいて、兵隊を乗せた多くの小舟を引っ張ってまさに出発せんとしていた。

我々も漕ぐのに困っていたので、これ幸いと縄を投げて繋いだら、我が大隊と方向が逆だと解り汽船が動き出したので、急いで縄を切った。

全く惜しかった、鳶に油揚をさらわれた様な気持ちで唖然として黒煙を吐いて去り行く蒸気船を眺めた。

機械というものは実に有り難い物だと思いながら「ぎっこ、ぎっこ」と大きな櫂を三人で交代で漕いだ。

干潮になり流れが急で漕いだだけでは大きな木船は余り動かなくなるが、どうにかして漕いで大きなクリークに出る、その幅は二~三百メートルを越えるであろうか。

クリークの水は空の色と相映じて真っ青で四~五百トンもあろうかと思われる汽船が所々に浮いていて、

日章旗を掲げた船もあり日本兵が船上にいるのも頼もしい限りである。

この広いクリークに出てみてクリークに汽船が浮いているのかと、さすが大陸支那と思う。

干潮で流れは益々速い、船は遅々として進んでいると、クリークの真っ只中に絵や、写真で見る海賊船そのままの姿の船が二隻並んでらる。

両端が反り返っていて高い帆柱があり幾百本の綱が引っ張ってある。

こんな船に帆を張って東、南支那海を海賊して回っていたのではないかと思われる。

クリークの流れは愈々速くなり、昨日の如く再び引き船となる。

農民を五人ばかり集めて船の縄引きに加勢させる。

自分が監督をして農民と共に陸を歩くことになり、舟が岸に着きそうになったので岸に着かぬようにと飛び降りれば、泥の中にひっくり返り時計も銃剣も水浸しになるが、そのまま農民を指揮して舟をひかせる。

皆は舟の中で櫓を漕いだり、岸に舟が着かぬようにと土手に棒で突っ張ったりしている。

今進んでいる大クリークは枝水路が多い為、枝水路のある所で土手が切断されているので、水の中に半身浸かって枝水路を渡らねばならず、度々枝水路を渡るのは十一月の気候では寒くて楽じゃない。

このように行軍し、夕方近くに某部落に到着、宿営する。

敵はこの部落の前方にいるので、各部隊は警戒を厳しくして夜を徹せよとのことである。

所持する米は無くなっていたが、農家の中に虫くれの南京米を捜しだし、炊飯して腹を太めて小さな部屋で皆で寝る。

小便に出て、帰ってみると寝る所が無くなっているのには閉口した。

第一線では「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ」とけたたましく銃声を響かせている、上陸後ようやく第一線に着いた、待望んでいた第一線だ。

そう思って星のまばらな夜空を見上げれば、照明弾が美しく花火の様に上がり青い光を強く輝かせてゆっくり、ゆっくりと落ちてくる。

照明弾は絶え間なく三つ、四つと上がっては、ゆっくりと落ちている。敵は我等の襲撃を非常に恐れて警戒しているのだ。

十一月十日 夜の明けるのを待ち舟で出発、早朝より頭上を「ヒューン、ヒューン、 ヒューン」と敵小銃弾が掠めて通る。

敵、味方の機関銃、小銃の音は絶え間なく秋色深い広大な平野に、空をつんざかんばかりに響き渡っている。

四~五百メートル前進したと思ったら、クリークの両側の田んぼには銃弾が「プス、プス、プス」と突き刺さり、舟の周囲には水煙を上げて銃弾が落ちる。

舟に「カン」と銃弾が当たると、皆鉄兜に身を固め舟底に伏せる。

こんな状況で中隊長は五十歳も過ぎて白髪も多い人だが身を踊らせて陸に飛び上がる。

中隊長が「誰か一人来い」と言うので自分が続いて陸に上がる。

度胸の太い宮田曹長も後に続いて陸に上がって来た。

稲を刈り取って積んである小積の後ろに行き、眼鏡で敵情を見ている中隊長の後ろに我々は行った。

小積の後ろでは少々心細い、銃弾が来れば銃弾は小積を貫通するだろう。

陸に上がっている曹長は敵の方に向かって小便を始め「小便も命がけじゃわい」と笑って用を足している。

「曹長殿、危ないですよ」と言えば「ビシュー」と弾が流れてゆく「そら来た、曹長殿」と敵弾下にユーモアが飛ぶ。

ところが曹長の足元に「パン」と泥しぶきを上げて銃弾が一発落ちた。

小便を終わった曹長は名物の髭を撫でて、目をパチクリさせ「危ないところであったわい」と軍刀を手にして舟の中に戻ってゆく、舟に足を跨げた時「衛藤、用心しろ危ないぞ」と脅かされた。

「何、大丈夫ですよ、支那兵の弾なぞに当たってたまるものですか」と笑って返す。

見れば先頭を行っていた歩兵は陸に上がり、敵弾下を走って散開して銃撃戦になっている。

敵影は肉眼では見えないが、我が軍はクリークの右側にも歩兵が上陸して散開して行く。

全く映画のスクリーンそのままである、だが心は来る敵銃弾に緊張している。

中隊長が「山砲の大隊本部は何処に行ったろうか、向こうに見えるのは違うかな」と左前方四~五百まメートルの林の中に友軍の姿を見つけて指さされたので「では自分が行って確認してきましょう」と言って飛び出した。

敵に姿を見せまいとして刈り残されている稲の所をなるべく選んで走る。

畦道は狭い上に二~三日来の雨でぬかるんでいて、足を泥に取られて幾度か滑って倒れたが息の続く限り一目散に走った。

腰より丈の低い稲に身を隠す術もなく、敵の発見するところとなり銃弾がが身辺に落ちるは、落ちるは身近に来た銃弾は「ビュン」と耳をつんざいて通る。

ようやく林にいる友軍に声の届く距離になったので「山砲の大隊本部か」と叫んだが銃弾に気を取られて聞こえてそうも無いので、走りつつ二度、三度叫んだ。

「歩兵の二大隊本部」と言う声が聞こえて来た、確める為に今一度「その辺りに山砲はいないか」と叫べば、今度はすぐに返答が来た。

「山砲はいない」これを聞いて踵を返して、再び今来た道を走った。

敵は私に向かって機関銃弾を浴びせ「ピュー、ピュー、ピュー」と銃弾が足元付近に泥しぶき、水煙を上げて落ちるのを見ると、あまり気持ちは良くない。

息が切れそうなので低い畦に身を伏せて休み、息を整えてはまた走った。

中隊長に山砲の大隊本部ではない旨を報告すると、中隊長は「よし前進」と命令し敵弾下に舟を進める。


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