第30話
泥道は深くて砲車が動かないので道に藁を敷き詰め、その上に板を持って来て敷き、敵が道を壊してある所は修理をするなど、遅々として前に進まない、その苦労は祖国の人が全く想像が及ばない程だ。
午前中、汗だくの行軍で良く見ても半道も来たろうかと思われふるくらいだ。
昼食後、石橋の裾が大きく壊されている、これをエンピで埋めていては日が暮れてしまうので、近所の住民の棺桶を以て埋めることになった。
支那の棺桶は分厚い材木で作ってあるので非常に堅牢なものだ。
この地方では棺桶が朽ちぬように地上で藁で覆ってあるので持って来るのは容易だったが、二十名ばかりで持ち上げたら死人の汁が底から出てきて、全く気持ちが悪くてならなかった、手には言い知れぬ悪臭が付いて取れない。
石橋の裾の道を掘り切って壊された所へ棺桶を入れると、道は忽ち修理が出来た。
こうして我々は寸尺と進んで行く。
通信班の者は各人、電話線を四巻づつ担っているので一策を案じ、水牛を引っ張って来て鞍は無いのでそのまま牛の背に電話線を載せれば、この地方の牛は背に物を載せた事が無いので、異様な物が背に現れたとでも思ったか後ろ足を蹴り上げて、とうてい始末におえず手綱を放せば、牛は稲田の中を跳ね回った為、電話線は稲田の中にばらまかれて捜すのに大変だった。
言葉を絶する悪路の中を終日行軍する。
こんな状態なので戦線へ急いでいる我々は路傍の農民を使用しようと集めに行くが逃げていていない。
自分は割合身軽だつたので戦友と二人で人を集めに行く。
二~三人集めたので部隊に遅れては一大事と先回りをして急げば、幾多のクリークに阻まれて軍服は汗まみれになる。
大きな町に出たが全く死の町で人一人通っていない、ところが図らずも出征前、我等の観測助教であった一中隊の江島軍曹に出会う。
聞けば、部隊もこの町に向けて来ているとのことにほっとし、民家の前にあった砂糖黍をしゃぶりつつ眼鏡橋に立っていると、向こうの方に汚れた衣服の苦力が一人ひらりと民家に身を隠す。
逃がすまいと走って行くと、おどおどして出てきて一片の紙片を差し出す、見れば日本軍の通信紙に某部隊の某中尉が書いた苦力の身分証明と言うべき物で「この者は日本軍の為に従事した者で、最早疲労の極みに達しているので帰宅させんとする」との意味が書いてあり、終わりに「皇軍勇士各位」と達筆な鉛筆の走り書きである。
何の怪しむ事も無いので、言葉を和らげ「行」と言えば喜んで脱兎の如く走り去った。
この町の各家には、まだお茶の暖かいのがあり住民が避難してまだ間がないのだ。
この町は支那軍が通らなかったので、我が友軍も通らなかったのだろう戦禍を被っている様子は無く、商店には整然と商品が並んでらる。
商店には支那に上陸して以来、見たことも無い蟹、海魚等があり珍しかった、蟹は生きていて触れば足を動かす。
中隊の到着を待っうちに太陽は西の端に傾いている。
夜に入って中隊の大部分は到着したが、第四分隊の砲車が未だ着かず、自分は疲れた足を引きづって迎えに行く。
途中、暗い街の中を出てクリークの側を通る時、大きな発動機の付いた鉄船が浮いているのがぼんやり見える。
鉄船が動かせたら山砲を乗せて楽に行けると思うと、何とか出来ないものかと漁船の発動機に経験のある中島と二人で行って見る。
ローソクを灯して機関を見たが駄目との事だ、もしかしたらと自分は胸を踊らせていたので残念でならない。
残念で惜しみつつ五~六丁行った所で、苦心惨憺して暗闇の泥沼の中を互いに励まし合って進ん来る第四分隊に出会う。
迎えに二人で来たのを非常に喜んでいた。
自分は観測手で砲車の事は余り解らないので皆の嚢を担い、後ろから砲車を押す、疲れと空腹の足は泥沼に引っ張られて体から抜けそうだ。
かくして中隊に着き戦友の炊いてくれてある南京米の飯を食べれば咽を鳴らして通ってゆく。
飯を食べていたら、突然火事とのことで、後ろを見れば火の手は迫っていて物凄い炎を上げている。
食べかけの飯を持って避難すれば、砲車が危ないとの事で砲車を危険区域外に運び、再び飯を食べる。
炎は天にも届きそうな勢いで燃えて、中天を焦がし凄い勢いの火事である。
我が身に直接被害の無い夜の火事は勇壮で、まさに絶景である。
しかしこの寒空に、この町の住民はどうなるかと思うと、敵国の民とはいえ心は重くなる。
この火事は敗残兵の仕業ではないかとの事だった。
再び出発、夜行軍となるが、昼の悪路にまさる泥沼で膝まで没せんとする、泥沼は機材を背負った足を一歩、また一歩進めるのに懸命の努力を必要とする。
真っ暗なので風で消えんとするローソクの火を互いに見せあって一尺、また一尺と進んで行く。
クリークに来れば、クリークに架かった石橋は狭く馬は疲れた足を踏み外し、弾薬を背負ったまま水中に落ちる、中支の十一月の夜風の寒い中に水中に入り弾薬を馬の背から外し道に上げ、馬はクリークの土手を上がれぬので鞍まで下ろしクリークから馬を引き上げ、また馬の背に弾薬を載せて行く。
後からも次々と落ちるのを、このように全部引き上げて、次のクリークでまた繰り返す。
辺りが泥沼状態なので疲れた体を休める所が無い。
夜半より氷のような冷たい小雨が降り始め、言葉を絶する昼、夜間行軍に泣こうとしても泣くことが出来ないとは、まさにこの事だろう。
明け方近い午前三時頃、某小部落の入口に夏田に水を揚げる為に作った小屋で藁を被り微睡む。
寒さで目覚めれば、小さい屋根だけの小屋なので寒風は吹き抜け、足は小雨でじゅぽり濡れている。
寒さで震えあがるが夜はまだ明けてないので近くの民家に入り焚き火をして暖まる、雨で濡れた軍服からは湯気立ちのぼる。
やがて夜が明けてみれば、昨夕出発した町は半里もしない向こうで、まだ火事の煙が上がっている。
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