第32話

大隊本部から「第三中隊前へ」との連絡が来たので、連れてきた農夫三人と櫓を漕いだ、農夫は背を腰の低さまで屈めて額には脂汗を出して一弾、一弾にビクビクして櫓をこいでいる。

我々は敵前強行通過で遮二無二敵前を漕いで進む。

弾除けになる大きな家の蔭に来て「やれ、やれ」と安心する暇も無く、大きな家を通過すれば、また敵弾下に出る。

数十隻の小舟はクリークを我先にと漕いで行くが、櫓で進む舟足の遅いこと話にならぬ。

敵前強行通過で続々死傷者が出始めた、幸いにして我が舟には

出ず。

舟の中で皆は「あそこに落ちた」「そら、此処に落ちた」と銃弾が水煙を上げて落ちるのを調べている。

「ビシュー」と耳を掠めて通れば「今のは俺の頭の一尺上を通った」などと、今にも終わりそうな命のことなど忘れて馬鹿を言っている。

農民に櫓を漕がせ自分は舵を取る、舟の上で立って舵を取れば敵に丸見えなので弾は来る、来る。

曹長は相変わらず面白い事を言う「今の弾は衛藤の鼻先を通ったぞ」「あ、危ない、今のはお前の服のすれすれを通ったぞ」と言って戦場焼けした顔で皆を笑わせる。

自分も銃弾に掠められて風圧で耳が「キュン」という時は、はっと思うが負けずに「支那兵の弾も、やっぱり銃の向いた方に出てくるわい」と言って皆を笑わせる。

こうして敵前を前進するが、幸いにして此の舟には負傷者も無く、蒸気船が「山砲は速やかに前へ」と言ってきて、曳航してくれたので自分は舟の舵を取らずにすみ嬉しかった。

我々は鉄橋のある所で上陸、高い線路の土手には歩兵が展開を開始しようと待機している。

我々は右側の高い土手に上がる、そこには血に染まり、今なお生けるが如き皮膚の色をした五~六名の支那兵が死んで倒れている。

展開しようとする歩兵部隊からは「「援護射撃を頼む、迫撃砲がいるから制圧してくれ」との連絡があった。

そう言っている間に向こうの方に「ドカン」と迫撃砲弾が落ちた。

土手に本田測遠技手が測遠機を担いで上がって来る。

敵との距離を測ろうとするが、支那兵の死体が散乱していて測遠機を据える場所がない。

本田技手は「衛藤よい頼む」と名前の語尾に「よい」を常に付けて呼ぶ。

死体を片付けるのは余り良い気持ちはしないが、測遠機を据える場所を得るには死体を土手から落とさなくては、他に良い方法が無いので一人で支那兵の死体の手を握って土手から引き落とした。

ぐにゃぐにゃした手には、まだ温かみが残っていて一層気持ちが悪かったが、倒れている支那兵を三人ぐらい土手から放り落とした。

自分も線路上に砲隊鏡を設置しようとしたところ、今度観測小隊長になられた野中少尉が自分の後ろに立って敵情を眼鏡で見ていた。

中隊長に「中隊長殿、観測手一名を連れて先方に行きます」と小隊長が言うと、中隊長が頭を縦に振るのを見て「衛藤、行くぞ」と言う。

自分が再び砲大鏡をしまい背負って立ち上がるのを見て、小隊長は右手に軍刀を握って、敵弾が不気味な音を立てて乱れ飛んで来る線路上を一目散に走り出した、自分も後に続く。

小隊長は軽い装具の身だけど、自分は背の砲隊鏡が踊って思うように走れなかったが一生懸命に走った。

しかし敵弾は前から、右から、左から「ヒューン、ヒューン、ヒューン」と唸って通るのもあれば「パン」と足元に落ちる弾がある、敵銃弾は物凄く跳んで来る。

小隊長が「危ない、下りよう」と言って土手を下りて走る。

ちょつと茂みのある所を乗り越える時、先刻まで我々を銃撃していた敵兵は、我々の味方の銃弾に傷つき斃れている。

暫く走っているうちに、小隊長のすぐ後ろを走っていたので小隊長が倒れている兵士を飛び越して行ったのに気づかず、躓きかけたので振り返って見れば、戦場で汚れてはいるが日本兵の軍服で友軍の歩兵ではないか首、胸部に数弾受け、口から鼻から鮮血の泡を出して今にも息絶えんばかりだ。

その姿を見た時、思わず目頭が熱くなる、躓いたことに「すまぬ、許せよ」と詫びて続いて走った。

一抱え程ある大きな木が一本ある陰で、二人の歩兵が腹這いになってエンピで穴を掘っている。

小隊長が二人に「敵情はどうだ」と聞くと「どうか知りませんが、弾だけはよく来ます」と答える。

自分も「来ますね」と言えば「来ますよ、この先が狙われてますから危ないですよ」と答える。

よく見れば二人は傷ついていての動けぬのだ、一人は大腿部を、もう一人は手首を三角巾で吊るし鮮血が滲み出して布を染めている。

自分は驚いて「やられましたか」と言えば「畜生からやられたです」と顔をしかめて笑っている。

全く気の毒だ、この負傷者に対して初期の手当てのみで塹壕を掘らねばならないとは。

「気をつけてやれよ」と言い残して二人で走って前進した。

 

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