第25話

目覚めれば午前四時、時遅しと跳ね起きて戦友の川上、中島と皆の注文を受けて勇躍出発する。

一里半の道を歩いて着いた時は漸く明け始めていた。

出征以来、味わえなかった物を味わおうと通りには多くの兵隊が酒保が開くのを待っている、我々も辺りを歩き回って酒保の開くのを待っ。

暫くして店が開けば長い行列が出来る、長い長い行列に果たして我々に一箱のタバコでもよい、買い求める事が出来るであろうか、何とかして買って戦友を喜ばせてやりたいとの思いでいっぱいだ。

幸いにして一箱二十五個入り五円でタバコを三人で三箱買うことが出来た、皆の喜ぶ顔を思い浮かべて帰途につこうとしたが、汁粉屋も開店していて一杯の汁粉にありつく為に兵隊が長い行列をして待っている。

野戦の汁粉も良いかと、三人で長い行列に並んで待っ。

汁粉の器は近所の住民のを拾い集めてきているので同じ器は一つも無い。

順番がきて大枚十五銭を払って、水に色を付けた程の少し甘い汁粉を食べて帰る、全く阿保みたいな味だった。

十月十日、酒保で忘れられない思いでのある保定城を出発して、山一つ見えない高粱畑の中を行軍するが、支那兵の死体が散乱していて悪臭が鼻をつく。

十一日の夜だった、定県に向けて行軍中、川に出会うが深すぎて渡河困難とのことで鉄橋を馬が歩けるようにする為に、近所から戸板、その他全て橋渡しになりそうな物を集めて百メートル余りの鉄橋を馬が渡れるようにする。

鉄橋を渡ったのは夜もだいぶ深まった頃だった。

行軍途中に何処から来たのか自動車部隊と一緒になる。

狭い道で我々を追い越して行ったが追い越しつ、越されつしているので戦場では自動車部隊など全く役に立たないと皆でけなしている。

数十日来、雨なき大地に自動車が砂塵をもうもうと巻き上げ、鼻も、口も砂だらけになり癪にさわって仕方なかった。

自分の馬は病人が出たので病人を乗せ、自分は裸の支那馬に乗っていた自動車に馬が驚いて走り回り、そのあげく自動車の前に、どたりと地面に落とされた。

馬を鞭打っても致し方なく、全く泣くに泣けずにいた。

夜半に定県城に着く、城壁を見た時は、やれやれ助かったという感じだった。

「連帯は北京に返せ」との命令が来たとの事で、皆は凱旋だと言っていっぺんに元気が出る。

その夜は町の風呂屋に宿営するが、狭かったので翌朝、茶店に宿替えする。

茶店の主人と少し知っている支那語と、身振り手まねで話す。

主人が私の認識票に彫ってある「山砲三」を見て、名前と思い違えて私を「山砲三」と呼ぶ、それが面白くて皆笑う。

定県では、殆ど秩序が回復しているので支那人が肉、野菜、饅頭等を売りに来る。

一個五銭の梨をいっぱい買って、皆で珍しがって腹いっぱい食べた。

一日休養して疲れを癒す。

十月十三日、午後から宿舎を出て駅に着く、汽車への搭載開始は日も既に落ちてからだった。

暗い中で無事搭載が終わり出発を待っていると、搭載の時かいた汗は肌に冷え冷えと感じ、軍服の破れのところからは何の会釈もなく吹き込んで来る風は冬の寒さだが、軍服は未だに夏服なのだ、全く寒くていてもたってもおれない。

祖国の人は、この有り様を知るや、否や、我々はこれしきの寒さにびくともしないが、この有り様を祖国の人に知って貰いたいのだ。

汽車は汽笛一声ホームを離れ暗い広野の中をひた走る、我らが背嚢を背負って三日間、夜も寝ずに歩いた道を何の苦もなく引き返して行く。

今回は馬と同居だ、即ち馬の当番を仰せつかったのだ。

貨車の両端に馬を入れ、中程に鞍、干し草を積み重ねてある上に眠る、時々馬の前掻きにたたかれて眠っているのを起こされる。

目覚めれば汽車はゴトゴトと震動してレールの上を、ひた走りに走っている。

何という有難いものであろう、汽車の中に 座っていれば重い装備を着けて汗だくで歩かずにすむのだ、子供が初めて汽車に乗った時のように嬉しかった。

十月十四日、せんろの両側に並木になっているポプラの木の間より、地平線まで続いている高粱畑が見える。

北支の線路には必ずポプラの木が植えてある、何の為か知らない。

過日、線路の側で休んでいた時、汽車の通るのを見て汽車で移動出来たらなあと羨んだ所を通って行く。

今までのいろんな苦しみも何処かへ吹き飛んだようだ。

馬当番は短時間の汽車の停車中に水を汲み馬に飲ませ、走行中には飼付けもせねばならず、馬同士の噛みつき、蹴りあう馬の仲裁もせねばならず、馬との同居生活は全く楽ではない。

その上、皆の所に行けば馬糞臭いと言われる。

駅では支那の子供が「ナンキンマミ、タバコイリマセンカ」と変なアクセントで売りに来る。

羊羮を買って食べた、旨いこと話にならぬ。

夜の十一時に汽車は北京駅へ滑り込む、この前通った時に水を飲んだ懐かしいホームだ。

夜中で大変だろうとの隊長殿の心遣いで、そのまま汽車の中で夜を明かすことになる。

十月後半の北京の夜は、ひしひしと寒さが夏の軍服を通して、ガタガタと震えて眠れず夜明けを待っ。

午前六時頃に下車開始、北京城内の宿舎に向かう、城郭の如き朝陽門は初冬の空に、白壁が朝日を照り返して聳えている。

実に立派な楼門だ、北京城内に入れば平和な空気が流れていて賑やかである。

盛装した支那婦人、鞄を肩からかけた可憐な児童が通るのを見た時、我らには珍しく感じるより、何だか不思議な気がした。

人通りの多い街の中を、我らが戦場焼けした顔で行軍すれば支那人はポカンとした顔で我らを眺めている。

支那人から見られても何の感情も湧かないが、日本人が感謝の心を持って我等を見送ってくれる時は、我ながら勇士になったような気になる、これは同じ民族の間に通う血のせいだろう。

城内をだいぶ行った時、黄色い瓦が幾棟にも幾棟にも続いていて、折からの日差しを受けて松の間に見えている、これが幾人かの清の皇帝が栄華の夢をみた宮殿なのだ。

部隊は西海公園と紫金城内の博物館を皆に見学させるため、ここで大休止を取る。

お互いに馬を持ち合わせて西海公園に行く、池の蓮は今はうら枯れて見る影もないが、夏の盛りは見事だったろうなと思った。

公園は実に雄大で粋を極めた公園である、塔に登ると広い北京の町が見えたが、時間もなく戦友が自分の馬を持って待っているので急いで帰った。

次は博物館を見に行く、門は朱塗りの二~三階建ての見事な建築物であった。

館内の陳列品には支那の貴族文明を物語るいろんな物が並べてあった。

我々の宿舎は支那事変前の支那軍の兵舎である、この兵舎では薪に困った、民家で暖炉を借りて炊事をしたりもした。

十六日には北京市内見物をして、支那人が作った支那料理を食べた。

近所には市場もあり賑やかで、芝居小屋では我々を自由に入れてくれたので覗いて見る。

変な楽器を奏で、おどけた格好で台詞を言っている、白髪の老人と姫らしき人物が出ているので昔の王朝の物語であろう、変な声を出して支那歌を唄っている。

かかる声を聴いて快い感じがするのだろうかと思う、音楽というものは頗る客観性の少ないものなのだろう。

故郷の父と母からと東京の学校の友達から手紙がた来ていた、友達からは出征の知らせだった。

故郷からの手紙は嬉しくて二回も、三回も読んだ。

出征後に船からと、天津で汽車の中から葉書が着いたと書いてあった。

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