第 30 話 手紙
「さあて、お手紙の続きを読むとしますか」
あちらに何も言うことはなくても、こちらは言いたいことでいっぱいだったが、香織の手紙をダシにされては文句も垂れづらい。
「えーと、どこまで話したか」と文面を冒頭から順番に眼を通すような動きを見せてから、彼は再び
それにしても、政治ってのは本当に面倒くさいよねえ。事の顛末は
よろしくも何も、これからも関係が続いていくという前提を信じて疑わない文脈に、リハナはまず驚いた。
「なあ、お風呂ってなんのことだ?」と問い掛けた神宮寺には、妙な下心があるようには見えなかった。
思えば、自分に応急処置を施すために服を捲ったときにも、目の前の怪我をどうにかしようと真剣に取り込んでいたはずで、やはり彼はデートに執着するような性格ではない、とリハナは確信に至った。
「少しお話しただけです」
「ふーん。ま、女は女同士で色々あるんだろうな」
まさか、神宮寺のことで仲が深まったなどと言えるはずもなく、リハナはお茶を濁すしかなかった。
――私も同じように誤魔化してるし、神宮寺さんも話したくなさそうだし、仕方がないか。
最強と言わしめる力を秘めた彼が、どうして自分にこうも構おうとするのか気になりはしたが、本人から話そうとする意思が微塵も感じず、リハナはしつこくするのも躊躇われ諦めることにした。
――でも、そっか。
――あのとき、香織さんにはそんな意図があっただなんて。
深夜近い時間帯にお風呂が偶々一緒になった、とはリハナも考えてはいなかったが、それは彼女が神宮寺についてこちらの真意を問い質そうと接触を図ったものだと思っていた。
――敵なんかじゃない、か。
リハナは香織が送ってきた手紙の内容を
自分なんかを庇ってくれる彼女の優しさ。律儀に過去の悔いた言動を告白する彼女の真摯さ。そして、自分に対する信頼の大きさ。それらが充分すぎるほど伝わり、この手紙には、ありがたいという素直な気持ちが浮かんだ。
しかし、だからこそ、そんなどこまでも澄んだような彼女の心の美しさが感じ取れる手紙に――リハナは自戒の念が絶えなかった。できることならば、今すぐにでもこの身を焼き尽くしてしまいたいぐらいに。
――すみません、香織さん。
――とても信頼してくれているのに。
――私は、クレハさん達に置いていかれたことにショックを受けてしまいました。
それは、リハナが抱える不純さと手紙の送り主が思い馳せる理想と現実の差。
純粋にこちらを気遣ってくれている香織は、当然ながら、リハナがついさっきまでどう考えていたなどと知る
なので、その点に不満はない。彼女にとっての一番の問題点は、私情と使命の間で揺れる非常に複雑な心境だった。
恐らく、香織は本当に、裏切り者ではない、と自分のことを信じてくれているのだろう。
しかし、事実がどうであれ、気持ちの天秤は確かに反対に傾こうとした瞬間があり、今も水平を保っているような状態と言える。それが彼女に対して申し訳なくて、リハナは犯してもいない罪の意識すら感じていた。
「んだよ、どうした?」そんなリハナの異変を察知したのか、神宮寺が神妙そうな顔で伺ってきた。「顔色が悪いぞ。やっぱり、まだ本調子というわけにはいかないか」
「いえ、そういうわけでは……ないんですけど」
「まあ、こんな部屋に籠りっぱなしだと、表情も明るくなりようがないよな。悪いな、こっちの勝手で。ホント、アイツらって臆病なクセして他人の行動を気軽に制限してくるよな」
「気軽、というわけではないと思いますけど」
「筋トレすんのもスポーツ始めんのもアイツらに許可もらわないといけないなんてホントおかしいだろ。国民はお前達の子供じゃねえんだ。一々、親の許しが必要になるお年頃でもねえっての」
不貞腐れるように言う神宮寺に、リハナは愛想笑いだけを送った。彼にも彼なりの悩みがあり、それは到底他者には理解されない彼にとっての痛みなのだろう。中には、その程度でと笑ってしまいそうなものだってある。しかし、決して自己の価値観で他者を推し量ることが正しいとは限らず、どれだけ小さな悩みでも、抱えている人にとっては耐え難いものであることは珍しくもなんともないのだ。
――クレハさん達も、私が知らないところで悩みを抱えていたのだろうか。
リハナは、思えば自分は彼女達のことを殆ど知らないことに
リハナは、そんな彼女に憧れて『
彼女のようになりたい、とまではいかないものの、クレハという看板に憧憬し、畏れ慕い、彼女と一緒に活動できる日々を夢見るほどでなくとも何度か思い馳せるぐらいには釘付けだったのだが――まさか新兵卒から幾ばくも経たずしてその念願に立ち会う瞬間が訪れるとは思いもよらなかった。
憧れた小隊に入隊することができた。それは確実に、リハナの心に多少なりとも緩慢を与えていたはずだ。
ミデアさんやアイーシャも優しく、自分はマーダー小隊の面子として認められているのだ、と勘違いしていたのかもしれない。
「……やっぱ、読み聞かせるだけじゃあんまり効果がねえか」
「はい?」
「なら。今度は自分の眼と声でも読んでみろよ。本ってのは自分の意思で読んだほうが身が入る。理解力も高まるし、中身が頭にちゃんと残るんだ」
神宮寺が何を言っているのか、少し考え事をしていたがためにその前の事柄が僅かに抜けてしまっていた。ほら、と差し出された一枚の紙を見て、手紙を今度は直接読め、と言われていることに気付いた。
「いえ、私は……」正直なところを言えば、今の状態で読んだところで、せっかくの励ましの手紙も、今は気が滅入るだけのような気がした。
「いいから、読め」
有無を言わさぬ断固とした調子だった。少し急かしているようにも見える神宮寺の態度に圧倒され、リハナはそれ以上の言葉を返せずに手紙を受け取った。
受け取ったものの、それをどうしたらいいのものか、手の中で行き場をなくした手紙に眼を落とす。二つ折りにされた切り取られたメモ帳の表面には、何も書かれていない。冴山香織が限られた時間の中で練り上げた文章は、その内側に書かれているのだろう。彼女の思いが詰まっている。
本来という定石や通例があるわけでもないが、とにかく本来であれば、友人から送られる励ましとは、唯一無二のものであり、それを契機に落ち込んでいた人物は再起するのかもしれない。
しかし、リハナにはその思いに応える自信がなかった。病状を治すことができる薬も、その治療対象に罹患していなければ、飲んでも何も効果を得られない。香織の手紙がありがたくないわけではない。ただ、一生懸命読めば読むほど、自分の心に穴が広がるような罪悪感に蝕まれるだけのように思えた。
それでも、開いて文面に眼を通そうと思ったのは、自らの罪科を意識するためか、それとも単に神宮寺に脅されたからか。
開いた瞬間、一文字ひともじが軒並み横になって寝ているので、あれと思ったのだが、単純に手紙の持ち方に問題があるだけだった。慌てて元の角度に戻す。紙を動かすたびに鳴るクシャッとした音が、妙にリハナの心をざわめかせた。
間隔的に整列した線と線の合間を走り書きしたような文字が視界に飛び込んでくる。時間がないと、急いで書いたのだろう。内容は、およそ神宮寺の口から聞いたものと同じだった。所々、彼の言うところと少し違う点があるなと思いもしたが、そういうことではなく、勝手に彼がオリジナリティを加えて脚色していただけだった。確かに、話を聞きながら、なんだか芝居がかった文脈だなと訝った部分があった。
なんだかんだと読み返してしまっているリハナが、知らない、彼から耳にしていない文章に突き当たったのは、そのときだった。
その文章も、彼がそのままに読み上げたのではなく、少し大袈裟にアレンジを加えて口から発したのだと解釈しそうになったのだが、それにしては聞かされた内容と違いすぎる。
その部分を読んだとき、リハナは息をするのも忘れそうになった。
クレハさん達のことだけど、初めて聞いたとき、正直に言えば「まあ、そうだろうなあ」って感じだったんだよね。だって、普通はそうだよ。海を挟むどころか、世界すら違うんだよね? そんな異国の地で、細胞から何まで作りも重ならない人達のために命を賭けないとならないなんて。宇宙人を守りなさいなんて言われても、ボクだって乗り気じゃないし。しかも、その守るべき対象が小言のうるさい日本人なんだから、なお悪いよねえ。守られてるのに文句を言ったり、何様なんだって話。クレハさん達が裏切りたくなる気持ちも解るよ。というか、裏切ってるのかな。そこもちょっとよく解らないところがあるよね。でもね、ひとつ解ることを挙げれば、クレハさん達はリハナちゃんを裏切ってなんかいない、ってこと。これだけは確実に解るよ。クレハさん達はリハナちゃんを今も大事に思ってる。なんて、リハナちゃんはもう解ってたかな? もし、リハナちゃんがクレハさん達の裏切りを、自分だけが取り残されたと思い悩んでいたらと思って、一応言ってみたけど、余計なお世話だったかな?
「神宮寺さん、これ……!」神宮寺の声を元に脳内構築した内容にはなかった、隠されたと言うには些か長文な文章を、時間をかけて読み上げた後、その真意を問い質そうとした。
「ん? どうした」彼はなんてこともないように応じた。「まるで、目の前に絶世の美男子が現れたような顔をしてんな」
「意味の解らない返事をしないでください」茶化さないでください、と手紙を無造作に神宮寺に見せた。「ここの部分に書かれていること、これは一体なんですか! なんで……」なんでここだけ読むのを省いたんですか、と言おうとした言葉は途切れた。
「あー、これな」驚くリハナを前に、
神宮寺はワザと読まなかった。そこに疑いようはなかった。問題は、何故、読まなかったのか。読み飛ばした文章の内容は、明らかに他の箇所と毛色が違っていた。まさに、リハナが悩み、頭の整理をさせてください、と尋問のときを先送りにしていた原因に抵触するものだった。つまり、彼はリハナの悩みに気付いていた。
「なんでお二人はクレハさん達のことをまだ信じていられるんですか」
「お二人、って俺も入ってるのか? 書いたのは香織だけだがな」
「でないと、こんな長文を読み飛ばすわけないですよね。素直に認めてください。そこを否定したって、話がややこしくなるだけなんですから」
「解ったわかった、そんな詰め寄んなよ」
言葉を畳みかけてくるリハナは、静かに見えて怒りを爆発させているような独特な威圧感を放っていた。
「なら、質問に答えてください。どうして、クレハさん達が裏切っていないと考えているのか」それは、リハナにとってとても重要な、放棄してはならない使命の行く末を訊ねるぐらいの迫力を伴っていた。
「……逆に訊きたいんだけどよ」神宮寺は肩を手で揉みながら、一言一句を噛み締めるように言った。「お前は、どうしてアイツらが裏切ったと考えているんだ?」
「え?」リハナは当惑の色を見せた。種火を見つけ、すぐに消化したところ、それを目撃した人物から、「どうして水をかけたんだ」と詰め寄られるような理不尽な質問にも思えた。「だって、あの人達は結託して首相を攫った大罪人なんじゃないんですか? 日本の王様を誘拐して、この国に混乱を招き、あまつさえ『
「それは客観的な事実を汲み取って出来た結論だ。俺が訊きたいのは、お前が歩んできた経緯だよ」
「経緯……」
「そこらへんは、まだ数日経っただけの俺達なんかより、よっぽどお前のほうが判断できるはずだろ。自分の感性を信じろ。お前は、アイツらが裏切りを企てるなんて信じられんのかよ」
「解りませんよ、そんなこと……」リハナは顔を俯かせた。「思い返してみればみるほど、思い知らされるんです。私は、あの人達のことを何一つ知らなかった。外界に流れ込んでくる確証もない伝記や噂話を聞いて、知った気になってただけなんです。そんな私に向けられていたものが本当だったかなんて、解るはずもないんですよ」
リハナの頭に過去の記憶が甦ってくる。
この世界に来て、初めてクレハ達と出会ったこと。
初めてあのメンバーで任務に出動したこと。そのときに自分が失敗してしまったこと。それを咎められたこと。そして、無事でよかったと抱きしめられたこと。
しかし、次の瞬間、彼女達と袂を別れたと言ってもいい、あの風景が降り注いでくる。自分は置いていかれた。力不足だったのか、始めから数に入れていなかったのか。とにかく、自分だけがマーダー小隊の輪から外された。
ああ、と感嘆の思いが底に落ちる。やっぱり私は――そこが一番、悔しくて悲しくて、もうどうにもならないんだ、と。
「そういう意味では、裏切ってはいないのかもしれませんね。だって、私はついていけなかった。ただ、それだけなんですから」
「……信じられないのか、アイツらが」
「…………」コクッ、とリハナは無言で頷いた。
「一緒に戦ってきた仲間じゃないのか?」
「…………」それには答えず、顔を俯かせるだけだった。
「信じたくねえのか、アイツらのことを」
「……っ!」ギリ、と歯を軋ませた。「そんなの信じたいに決まってますよ……!」と擦り合わせた歯同士が反響するかのように感情がリハナの鼓動を響かせた。「憧れだったんです! あの人のようになりたい。あの人達と一緒に戦いたい! それが叶って、やっとスタートに立てて、派手な活躍は無理だろうと思いながらもなんとか自分にできることをやれたつもりで、少しは心が通じ合えたかな、と思えたところだったんです!」
自分にとって、眩しいくらいだった情景が、黒々とした重量感のある液体に汚されていく。そんな絶望感が彼女を蝕んでいた。
「でも、そんなのは傲慢だったんですよ。三年です。私が『
一緒に戦っていたかった。
もっと話していたかった。
しかし、そんなものは幻想に過ぎなかった。すべてはリハナの独り相撲で、勝手に自滅しただけ。それならまだ、救いはあった。極めつけは、そこから先、立ち直る直らないの問題ではなく、立ち直る気がしなくなったこと。リハナは、全部を放棄しようとしていた。そして、それを無意識に選んでしまっていた。その事実が解り、彼女は己の不甲斐なさや無責任さ、そして、そんなもののせいでかつての仲間の信頼が薄れつつあることに、
「だからこそ、私はもう、他者に縋るしかないんです」と神宮寺を再び見つめる眼は、救いを求める羊そのものだった。「これで解ってくれましたか? だったら、教えてください。どうして、貴方たちは、二日や三日で、私よりそんなに早く、あの人達を信じることができるんですか?」
「…………」神宮寺は真っ直ぐ飛んでくる懇願を、
個室の外で誰かの足音が聞こえたような気がしたが、ただの聞き間違いのようにも思えた。今はとにかく、彼の答えに集中したい。
やがて、神宮寺が口を開いた。「そんなの聞いたって、お前は救われもしないし、その心の状態から解放されることもねえよ」
しかし、その答えは彼女の求めるものではなかった。
「大体な、そんなのは理屈じゃねえことぐらい解るだろ。どんだけ無実の証拠が揃おうが、一度被った汚名は二度と剥がれない。偏見と先入観だけで生きている日本人からの、おありがたい教訓だ」
「…………」
「俺も香織も、根っからの島国の住人なんでね、理屈抜きの考えしかできねえんだよ。良く言えばただの直感。悪く言えばただの押し付け。俺達はな、そうやって生きたほうがいい、って子供のときから教えられてきたんだ」
「そんな……」
求めてやまなかったものは、ただの感情論だった。論理的でも、ましてや理屈があるわけでもない。信じられるから信じられる。彼はまさに、そう言ったのだ。
リハナにも、その意味は解る。言ってしまえば、彼女もどちらかというとそっち側の性質だろう。人を助けたい。そこに理屈など入らない。それと同じで、仲間を信じるのに理屈はいらない。その思考放棄にも近い考え方は、いつでも彼女の味方だった。
しかし、今やその支柱が揺らぎ始め、新たな心の拠り所を探している。言ってしまえば、現実逃避のために理屈を求めている。今の状態の彼女に、信じたいから信じるというのは酷な話だった。
「だったら、私はどうすれば……」
「だから、確かめに行くしかねえだろ」
え、と顔を上げてリハナの眼に映ったのは、優しくも意地悪でもない、強者の余裕を湛えた不敵を笑みを浮かべる神宮寺の姿だった。
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