第 42 話 人工知能感情部門開発研究班 ―弐―


 強烈な破裂音と共に頭上の空間に見えない亀裂を生み出した拳銃。その引き金をひいたミデア・アルファムがまず照準を移したのは、彼女にとって最も鼻についた人物――――


「うおアブな! なんか飛んできた!」井上いのうえ部長は目の前を通り過ぎていった銃弾に肝を冷やした。ミデアのいる位置からコンテナの上に立つ彼を狙うには角度的に難しかったようだが、その脅威は心にヒットしたようだった。「なんやその銃ホンモノかいな! それやったら最初に言ってえな!」


「この銃ホンモノだから気を付けてねぇ」


「今言うても遅いわ!」


 ミデアは構えた拳銃の角度を調整。銃声。躊躇いもなく、一度目の発砲から一分も経たずして、井上部長を執拗に狙い打つ。井上部長は咄嗟に、というよりは腰を抜かして、姿勢を低くすることで弾道上から逃れた。しかし、その拍子にコンテナから滑り落ちてしまう。


「あ痛!」受け身を取る暇もなく、背中から叩きつけられる部長。


 もちろん痛みはあったが、想像よりも大したダメージはなく、なんだったらここで虫のようにのたうちまわったほうがウケるかな、と考えが及んだものの――自身を追いかけてくる銃痕がそのお気楽な脳みそを黙らせる。


「ちっ」ミデアは何度も銃撃を外したことに舌打ちする。「んー、私ってやっぱり銃の才能ないのかなぁ。ここまで当たってくれないと流石にヘコむなあ」

「なんで僕が悪いみたいな言い方やねん」

「銃を撃つときはちゃんと慎重にしないとダメよ」

「なんで矢戸戸やこべ佳那かな研究員は敵にアドバイスしてんねん!?」


 人を殺める道具も持ち出されたシリアスな状況にはそぐわない弛緩したやり取りではあったが、とにかくミデアは駆け付けた『人工知能感情部門開発研究班』の面々を攻撃することに躊躇いがないようだった。

 限りある弾を無駄にしたくないのか、それとも矢戸戸副部長の助言を取り入れたのか、落ちて尻もちを着く井上部長との距離を縮めてから、確実に銃弾が当たるという確証のある距離に歩を進めてから、彼女は引き金をひこうとした。


「させない!」そんな彼女の背後にいた冴山さえやま香織かおるは、勢いよく跳び蹴りをかまして妨害を図った。


 しかし、そこは戦闘のプロ。死角から近付いてきていたことに気付いていたミデアはそれをさっと避ける。「へー、跳び蹴りだなんてやる気がみなぎってるねぇ。やっぱり君、そこらへんの『獣人デュミオン』よりも運動神経いいと思うよぉ?」


 撃てるタイミングを失ったというのに悔しさも滲ませないミデアは、前に出てきた香織の振り向き様の蹴りを拳銃の持っていない手の甲で受け止めるようにすると、少量の魔力マナで流れを起こし、彼女の攻撃が外側に勢いよく飛び出すようにベクトルを操作。遠心力に振り回されたような香織は、それでも片足で立つ今のバランスを崩すことなく、落ち着いて蹴りに出した足を畳むと後ろに飛び退いた。


「井上部長」そして、丁度後ろにいた尻もち状態の我らが部長に話しかけた。


「ん? は、はい!」


「ボクがミデアさんの気を引き付けます。その間に、部長は他の先輩方と逃げてください」


「……ん? ち、ちょっと待ってや、冴山香織研究員。君は何を言うとるんや? 逃げてください言うても、そもそもここに僕らを集めたのは君やないか?」


 井上部長は周囲を見渡し、それぞれの研究員の様子をうかがう。皆一様にこちらの交戦を気を揉んでいるようだったが、拳銃のこともあり、なかなか助太刀に向かうことまで決心がつかない様子だった。


「そうです、ボクが呼びました」香織を正面を見ながら頷いた。自分一人では敵わないことを悟り、ハクにあらかじめ頼んでおいた連絡先にSOSのメッセージを送った。


「せや。やのに、冴山香織研究員を置いて僕らだけで帰ったら、本当の意味で僕らただのガヤで終わるで?」


 お喋りしていただけの自覚はあるんだ、と苦笑する香織。「ちゃんと説明もせずに助けを呼んだボクも悪いです。急いでいたとはいえ、ミデアさんのことを話さずに連絡してしまいましたし」


「まあ、確かにいきなり、『この倉庫に来いや変態研究員マッドサイエンティスト』なんてなんやと思うたけど」


「え、ハクってそんなメッセージ送ったの?」


【アタシ知らなーい】当惑する香織のポケットから、少女風の電子音声の楽しそうな声が上がった。


「ねえ、こっちも無視しないでほしいんだけどぉ」とミデアが会話にのめり込みそうになっている香織に掴みかかろうとする。

「もう!」香織はそれを避けながら、もう一度彼女と距離を取ろうと跳び退く。「だから、ボクは信じてるんです」と井上部長と会話を続ける。


「信じてる? 何をや?」


「ボクが憧れる先輩方を! ボクが彼女を引き付けている間に、この状況を収める策を考えることを、です!」


「…………!」


 好戦的な雰囲気を醸し出すミデアを警戒して視線を外せない香織だったが、後ろにいた井上部長が説得の末に動き出した気配を感じ取り、僅かに安堵した。

 先の発言はもちろん嘘ではない。しかし、こうして行動を起こすに至った根本的な理由は、襲われる彼らを見て、自分の問題に巻き込んでしまったという自責の念に駆られたのが正直なところだった。


 ――先輩達なら、本当に良いアイデアを思いつくかもしれない。

 ――けど、できることなら無茶をしないでほしい。


 自分で呼びつけておきながら勝手なことだ、と苦笑する。


「結局、最初の状態に逆戻りだねぇ」


「そうだね」


むしろ、足手まといが増えちゃって、状況が悪くなったと言ってもいいよねぇ。あんな人達を召集したところでなんの足しにもならないし、敵ながら同情しちゃうよ」


「それは違うよ」


「ん……?」


「あの人達は、ボクの事情もまともに言わなかった卑怯なメッセージに応じてくれた。この非常事態に、危険を顧みずに助けに来てくれた。それだけで充分なんだよ」香織は穏やかな笑みを浮かべていた。


「気持ちだけで充分、ってことぉ?」ミデアも同じような笑みでありながら、互いに一歩も戦意をそぐわない。「まあ、理屈は解るけどねぇ。でも、それって自己満足でしかないよねぇ。ここが戦地なら、背負い切れないハンデを背負おうとしているのは明らかなんだから」


「……ハンデなんかじゃないよ。だって――信じてるから」

「信じたところで、今が一人なことには変わらないよねぇ」


 互いに減らず口を叩き合い、互いに武器も持たず拳を握るも、そこに宿るは闘志に満たぬ不完全な技量。

 さりとて、決して他に屈しない譲れぬ思いを胸に秘めているのは確かなようで、交差する二つの双眸は猛々しい鏡像のようだった。

 二人の隙間を縫うように沈黙が走ったのち――――


 それらを覆い隠すかのように赤い煙霧が広がった。


『…………!』二人の顔が驚愕に染まる。


 灰色と赤色が混じったような薄靄のような霧だった。空を割るサイレンのように、モクモクと育ち、滲むように広く広く二人を取り囲んでいく。


 やがて、二人の視界はその刺激的な色合いで何も見えなくなってしまう。


「なにこれ……?」香織は煙を吸い込まないように咄嗟に口を塞いだ。


「これは……」ミデアは取り乱すこともなく煙の正体について考える。「……発煙筒?」


「フハハハ!!」燃え上がるように燻らす煙の向こう側で、井上部長のこれ見よがしな哄笑が放たれた。「その通りや! この発煙筒は防災グッズが仕舞ってあるコンテナに入ってたもんで、さっきコッソリと二つ三つ借りてきたんや!」


「借りてきた、じゃなくてパクってきたんでしょ」

「借りてきても返しようがないですからね…………」

「うむ。森川くんの言う通り」

「僕達は関係ないこれは部長の無断行動だから」


 仲間の研究員達からの心ない野次を気にも止めず、ふははと腹の底から笑いを上げる井上部長。


 どうやら、倉庫の備蓄品を勝手に拝借してきたらしい。


「僕らがなんの策もなしにあんな登場の仕方をすると思ったんか? それやったらとんだお間抜けさんやで。ここに行くことが解ってから、色んなパターンを計算に入れて幾つかの対処を考案してたに決まってるやろ。あんま地球人ナメとんとちゃうぞ?」


「いや、ただ煙幕を蒔いただけでしょ」

「殆ど無策と変わりませんけどね」

「うむ。森川くんの言う通り」

「これを人類の叡智みたいに言われても寧ろナメてるでしょ」


 やはり心も親しみもない大バッシングにもへこたれず、彼は煙幕にていよく姿を隠し調子の良い言葉を響かせる。


「ほら、どうや? この赤い煙の底知れなさ。なんも見えんやろ。まるであの世の光景や。ちなみに、煙の危険性は知っとるやろ? 多く吸い込めば命の危機に瀕するんやから、下手に酸素を奪う激しい行動は止めといたほうがええで?」


「…………」発煙筒の燃焼で排出される煙はロウソクと同じく有害性はない。それを井上部長が知らないはずがない。


 ――つまり、これは井上部長のハッタリ……!


 異世界人であるミデアであっても火の煙が危険なことぐらいは知っているはず。その原理が、人体にどう及び、どんな悪影響をもたらして、火炎よりも恐ろしいとされる代物と成り得るのか。そして、発煙筒から排出される煙のパラフィンが、安全性の高い成分であることは知らないはず――――


 ――いや、流石に馬鹿にしすぎだと思うけど!?


「フハハハハハハハハはアッヴッヴォハッハヴォバッハッ……!?」煙の吸い込みで噎せる井上部長。


 ――……本当に作戦なのかな?


 それすら疑わしくなってくる間抜けっぷりに、香織は赤色に染まった景色の中で呆れた表情を作る。


 そのとき――身体を何かが掴んできた。




 一方、ミデアは倉庫に反響する男の声に耳を傾けることなく、冷静に状況の分析を頭の中で行っていた。

 全身を覆い、こちらの油断が確認できた暁には一斉に貪ろうと画策するかのように浮流する赤き煙霧。

 井上部長の言う通り、彼女は煙の成分の区別がつかなかった。拳銃に代わり、ハンカチを持ち、口元を押さえて煙の吸引を防ぎ、心根は揺らぎのない水面のような穏やかさで戦況を思案していた。


 ――発煙筒の煙……。

 ――確かに、ここまで赤いと不気味だねぇ。

 ――眼に染みそうだし、耳に入ってきそうだし。

 ――ある意味では厄介だねぇ。


 外界に繋ぐ人としての機能のいずれもが奪われたといってもいいこの状況。それはミデアにとっても同じことで、この赤い景色の中では『獣人デュミオン』の五感を以てしても立ち回りを改めざるを得ない。


 ――けど、結局はそれだけなんだよねぇ。


 ミデアは意識を研ぎ澄まし、魔力の気配を捜索する。

 冴山香織に付着させた『縁』はまだ生きていた。これがあれば、視界や聴覚に頼らずとも目的を達成することができる。

 魔力マナを持たない彼女の仲間達が気がかりではあるものの、言動を鑑みても明らかに戦闘慣れしているような面子ではなく、苦し紛れの不意打ちをされたところで問題はないという判断だった。


 ――寧ろ、この煙の中で各々とコンタクトを取れないあっちのほうが不利な気もするけど。


 何か確証があっての行動なのか、それとも追い込まれた末の自棄やけっぱちなのか、肝心な部分が判然としないまま不気味なことこの上なかったが、その懸念もすぐに流れることとなった。


 文字通り、この煙と共に洗い流される形で――――


 最初に起こったのは音だった。立ち昇る赤色煙に天井に設置されたセンサーが感知し、鈴を大量に付けたウナギが激しくのたうちまわるような耳障りの悪い音を鳴り響かせる。そして、火災報知器に連動したスプリンクラーから大量の水が散水された。

 突然の室内に降り注ぐスコールに、発煙筒に発生した煙は瞬く間にその輪郭のない身体を窶し始めた。

 水に溶け、ミデアの視界を徐々に元の風景へと導いていく。


「あーあ、びしょ濡れになっちゃったよぉ」せっかくオシャレしてきたのに、とミデアはデパートから拝借した洋服を摘まむようにした。「せっかく気に入ってたのになぁ。ったくぅ、ただ一人の女の子の身柄を確保するだけだったのに散々な目に遭いっぱなしだよ。厄日だね、厄日。なんでこうなるかなぁ」


 服もそうだが、彼女は濡れた耳や髪のほうが気になるようで、全身に水を浴びた犬のようにブンブンと顔を振り乱すと――不意にある一点に鋭い視線を投げた。


「君らにとってこの驟雨しゅううは、厄日なのか、それとも研究者がよく言う『計算通り』ってヤツなのかなぁ?」


 ミデアの挑むような眼差し。その視線の終着点にいた兵藤ひょうどう寛太かんたと矢戸戸副部長は僅かに身体を強張らせた。


 霧の晴れた倉庫。そこに現れたのはその二人だけだった。さっきまでいた冴山香織の姿はない。他の面子、それこそあのやかましい男も見つからなかった。


「発煙筒の煙に紛れて隠れたか。あの子自身にそんな逃げるなんて発想はないと思うし、これがあの変な言葉遣いの人の言う『策』ってヤツぅ?」


 だとすれば、これは悪手以外の何物でもなかった。逃げの姿勢では、いつまでも『縁』の魔の手からは逃れられない。


「それで、君達は逃げ遅れたってわけじゃあなさそうだねぇ」


 こちらの進路を塞ぐように佇む二人の男女は、表情こそ平常を保っているようだが、身体の表面を走る緊張と意欲が戦う者としての現し身を見出せた。


 覚悟、と呼ぶにはあまりに不出来。


 しかし、二人は先刻と打って変わって装備を固めていた。どちらもこの倉庫に置いてあったのだろう。兵藤寛太は1メートルほどの防弾シールドを構え、矢戸戸副部長の手にはゴム手袋が嵌まり、その指が握る棒状のものはスタンロッドだった。


「戦う気満々だねぇ」


「……はあ。あのクソ部長め。こんな役割を押し付けてくれて」矢戸戸副部長は、ため息というよりは怨嗟の氾濫と言うべき息が洩れた。「何がとっておきよ。こんなドンキで買い揃えられるような防犯グッズだけ預けて」


「やはり、矢戸戸副部長殿も今から避難すべきです」


「兵藤くん……?」


「あのメンバーの中で一番動けるのは、冴山くんを除けば自分です。彼女は自分が押さえますから、矢戸戸副部長も退いてください」


 そう言う彼に様子の変化などは見られない。つまり、これは彼が普段から持っている心に従って吐かれた言葉ということだ。


「……ふっ、バカね。後輩を置いて逃げるなんてするわけないでしょ」矢戸戸副部長は持たされたスタンロッドを掴み直した。


 その矛先を向けられたミデアは不敵な笑みを浮かべ、「はいはい、素敵な茶番おつかれさま。けどねぇ、そんなものでどうにかなる私じゃあないんだよねぇ」


「でしょうね」麗美な容姿には似合わぬゴム手袋をつけた彼女は、それでも負ける気などさらさらない様子だった。「イオンを含んだ水は電気を通しやすいけれど、そもそも貴方は当たってさえしてくれないだろうし。けどね――さっきは言わなかったけど、本当の『とっておき』はコレじゃないのよ」と手袋を嵌めていないほうの手でスマホを取り出した。


「へえ、それはそれは。楽しみだねぇ」ミデアから余裕は消えない。


 己と相手の実力を推し量ったからこその余裕だった。

 しかし、水で濡れた冷たい身体に明確なリーチが不明な電撃武器が油断ならないのも事実。

 そして、肝心の冴山香織が目の前から消えているというのに、焦りのひとつも見せない。

 ミデアは解っていた。


 彼女がまだ、倉庫を脱していないということに。




 立ち込める煙の中で、突如として腕を掴まれた香織は、それでも強く抵抗の意思を示すようなことはしなかった。

 不意に飛び出した何かの正体――それが、酷く小さく、振り払うのも申し訳なくなるようなあどけない手の形をしていたからだ。


「まさか、あの何も見えない視界の中で、森川先輩がボクを見つけてくれるとは思いませんでしたよ」


「うぅ……すみません」


「なんで謝るの?」


 森川もりかわ彩也あやに連れられてやってきたのは、先ほど変わらず倉庫内だった。ただ、ミデアと距離を取るために幾つかのコンテナとコンテナの間を走り抜け、目視による発見が遅れるような位置関係に整えた。スプリンクラーによって視界は晴れたものの、彼女に手を引っ張られぱなしだった香織にはイマイチ距離感が馴染めなかった。


 ぶぇっくしょん、ととなりで豪快にくしゃみを発したのは、恐らく発煙筒の煙で垂れ幕を作ることを提案した張本人、井上部長だった。「森川彩也研究員が言いたいんことは、多分こういうことやろ。この追い詰められた境地の最中、助けに来たのが愛しくてしゃあない神宮寺じんぐうじくんやなくて、自分みたいな若輩者ですみません、 な感じやろしらんけど」


「え、そうなの?」香織は井上部長の適当発言を真に受ける。「そんなこと全然気にしなくていいんだよ? 元々、みんなに助けを呼ぶことを決めたのはボクなんだから。寧ろ、みんなを危険な目に遭わせてごめんなさいなのはボクのほうだよ」


「そ、それこそ、そんなことっ、き、気にしないでください……!」森川彩也は言葉に詰まりながらも必死に紡ごうとしていた。


「せやな。兵藤寛太研究員やないけど、森川彩也研究員の言う通りやな。僕らは好きでここに立ってるんやで。それに冴山香織研究員が罪悪感を覚えるのはお門違いや。なあ、隅多すみたデニス研究員?」


「え? まあ、はい」突然話題を振られたことにビックリしたのだろう、隅多デニスは愛想もなく返事した。「まあそこは別にそれでいいんですし概ね同意なんですけど。それよりも僕は確かにと思ったことがあるんですけど」


「なんや?」


「いやね部長が冗談なのか本気なのか解らず言ってました本当の彼女の救世主のことですよ。まあ、神宮寺玲旺れおのことなんですけどよく考えたら冴山さんを助けるべき人はどう考えてもあの人だと思うんですけどというかあの人はこのピンチに今どこをほっつき歩いているんですかということを僕はずっと言いたいわけだったんです」


 息継ぎもせずに最後まで言いたいことを言いのけた隅多デニスは、ここにいるべきなのにいないその男に対する不快感を隠そうともしなかった。

 神宮寺とは、香織が研究仲間となった後で知り合い、対面する機会もこの創明大学研究棟に設けられた『人工知能感情部門開発研究班』の研究室内に限られていた。また、彼がこの場を訪れる理由にしたって、研究に没頭する香織を心配して食事に連れ出したりと、井上達との接点が数えるぐらいしかない。

 にも拘らず、『人工知能感情部門開発研究班』の面々の彼に対する評価はほぼほぼ一致していた。


「私……あんまりあの人……好きじゃないです……」森川彩也が申し訳無さそうに言う。「なんというか……自分の行為が絶対に正しいと思っているような、自信満々とは違う傲りが常にあって…………」


「凄いやん、森川彩也研究員。想い人の前でおっぴろげに言うやん」井上部長が眼を丸くする。


「うわー遠慮もなくズケズケと僕には絶対できないね」


「隅多先輩も大して変わりませんからね」いけしゃあしゃあ責める側に立つ細目で睨む香織。


「い、いやっ……わ、私はそんなつもりじゃ……!」三人の反応を聞いて、森川彩也はそこでようやく自分の言葉を恥ずかしがるようにした。そんなつもり、がどんなつもりかも解らない様子だった。


「解ってますよ、森川先輩」そんな小動物が慌てるような可愛い彼女に、香織はくすりと笑った。「先輩が相手を貶めるようなことを好む人じゃないことは解ってますよ。それに、ボクは玲旺がどう言われようと気にしないよ。それでボクの気持ちが変わったりはしないもん。寧ろ、玲旺の魅力がボクしか知らないなんて、そんなのもう運命としか言いようがないよね! もう! 早く玲旺もそのことに気付いてくれればいいのに」


「凄いな。恋は盲目、を地でいってるやん」

「聞いてるこっちが恥ずかしくなるんだけど」

「わ、解ります冴山さん……! その気持ち、凄く解ります……!」


 眼にハートマークが浮かんでいそうな勢いでテンションが上がっている香織に、それを見て三者三様な反応を示す先輩達。


 そこで不意に、またしても井上部長が豪快なくしゃみで大量の唾を吐き散らかした。「あ、あかん。いくら適温からちょっと低いだけとはいえ、このびしょ濡れ状態やと風邪ひいてまう」とプルプルと震わす身体を包み込むように両腕を交差させる。


「そういえば、さっきのスプリンクラーはなんの意味があったんですか?」幸か不幸か、そのくしゃみを契機に空想から帰ってきた香織は浮かんだ疑問を口にした。


 煙を感知した火災報知器。それに連動したスプリンクラーから排出された水を最初から最後まで受けた香織はもちろんのこと、その彼女を連れてきた森川彩也、くしゃみをしている井上部長も上から下まで液体を吸った白衣を身に着けている状態だった。髪も滴る良い女、とは言うが、せっかくツヤのある金髪をツインテールにしている森川彩也は力なく項垂れる七夕笹のようになっているし、井上部長の眼鏡は水滴だらけでオマケに鼻水も出てそうな雰囲気だった。


 例外なのは、濡れたコンテナや他人の身体にぶつけた際に服に染み込んだ被害にしか遭っていなさそうな隅多デニスだった。彼は三人と異なり、全身がずぶ濡れになってたりはしていなかった。恐らく、スプリンクラーが作動している間はコンテナの中に避難していたのだろう。「一応言っとくけど僕が濡れてないのはパソコンを持ってるからで副部長も同じように濡れてないからね」と言ってきた。


「矢戸戸副部長もですか? どうして……」というより、矢戸戸副部長と兵藤寛太の姿が見えず、香織はそのことに不安を覚えた。


「矢戸戸佳那研究員と兵藤寛太研究員の二人には、あの『獣人デュミオン』を足止めしてもらわんとアカンかったからな。特に水に濡れた相手をスタンロッドで仕留めてもらう彼女を不用意に濡らすわけにはアカンかったんや」


 とはいえ、スプリンクラーが切れ、煙の晴れた直後に誰もいないようでは彼女を引き止めることは難しいかもしれない。そのために、兵藤寛太には拳銃防止のシールドで矢戸戸副部長を濡らさないようにするための傘役をしてもらった、と彼は続けた。この手順は、香織にSOSのメッセージを受け取ってから予め計画していたようだった。


「ち、ちょっと待ってください」しかし、香織にはそれよりも気になることがあった。「それじゃあ、あの二人はまだあそこで戦ってるの!?」


 敬語も忘れるぐらいの衝撃が彼女を襲った。


「現状、足止めできるぐらいの体力を持っとるのがあの二人やからな」こうするしかなかったんや、と肩を竦める井上部長。


「ぼ、ボクがいるじゃないか!」


「アホか。誰が助けなアカン奴を敵の前に置いとくねん。冴山香織研究員は最初から候補外や」


「だからって、二人を置いて逃げるだなんて」香織は身を乗り出しそうな勢いで反発した。助けを呼んだのは、自分が安全な領域まで逃げるためではない。一人ではどうにもならないことを悟ったからだ。それなのに、自分の問題を他人に押し付けるなどあってはならない、と彼女は考えていた。「それに、井上部長は知らないかもですけど、彼女はボクの位置を特定する魔法が使えるから、逃げても意味なんて」


「あーあー、待たんかい待たんかい」ちょっとはこっちの話も聞きいや、と井上部長は今にも二人の元に駆け出しそうな雰囲気の彼女を制するように言った。「あのなあ、そんなことはな、僕がオカンのお腹から出てきたときからスッカリずっぽりと最初から最後まで想定済みなんや」


「そ、そうなんですか」


 オカンのくだりは総スカンかいな、と言いたげな視線をしながらも井上部長は咳払いをし、「安心しいや。現状、ここまでは全部『計算通り』や。このままいけば、漫画の連載で言うところの残り一話で決着が着くで。もちろん、僕らの勝利でな」

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