第 43 話 人工知能感情部門開発研究班 ―参―


 ――うん、結構厄介だなぁ。


 迫りくる極小の稲妻を掻い潜りながら、ミデアは数分前に見積った分析を改める。

 足元はスプリンクラーの降雨により思いの外移動を制限されていた。軽快に動こうとすればツルッと滑ってしまいそうで、意識がその分削がれてしまう。

 そして、濡れていると言えば自分もそうだ。青い電気を発する棒状の武器は、簡単な目視だけでは攻撃が当たる範囲を確定できない。オマケに水を吸収した洋服も重く、身体能力のアドバンテージは着実になくなろうとしていた。

 素人丸出しの攻撃は見てからの回避は可能だが、どうにも思った通りにいかない。


 ――それに、私の真骨頂が機能してくれない。


 魔力マナを見極めることによって過去から未来を見通す獣人デュミオンならではの能力の天敵が、能力的に劣っていると言ってもいい地球人になろうとは皮肉な話だ。ミデアは内心で苦笑する。


 バチチッ、とスタンロッドの先端から火花が散り、それを手に持つ矢戸戸やこべ副部長がフェンシングのように一気に突き出してくる。選手との違いは、その動作の速度があまりにも遅いことだろう。

 今の状態では、掠れただけでも身が痺れ、戦闘の続行は厳しくなる。そんな予感を本能的に察し、ミデアは大きく半回転しながらステップを踏む。バシャバシャ、と水を踏みしだく音が自分を揶揄からかっているようで耳障りだった。


 キルドリエ流柔術には、もちろん武器に対する護身術も数多に含まれており、そのいくつかは実践に実行できるぐらい修練してきたつもりではいた。


 しかし、いざ攻撃に転じようと彼女の腕に掴みかかろうとすると――毎回触れる直前に透明な分厚い板がこちらの進行を阻んでくる。

 兵藤ひょうどう寛太かんたは必要以上にミデアに接触しようとせず、矢戸戸副部長を脅かす魔の手のみを確実に防ぐだけに留まっていた。守りに徹していた。自分の役割を理解している。


 ならば、と今度は兵藤寛太のほうを先にぎょして一対一に持っていってやろうと画策してみる。通常、こういった連携の取れた矛と盾には付け入る隙がなく、ないからこそひとつの戦法として成り立つわけだが、そこは戦闘経験の足りない二人だ、付け入る隙はどこにでもあった。

 シールドは防弾性、高さは自分の身長を大きく上回っている。

 だが、その程度の弊害は攻めあぐねる理由にはならない。言ってしまえば、日々、倍の体長はある敵から地球を守ってきた彼女である。シールドの縁を掴み、剥ぎ取ってやろうと腕を伸ばす。


【カンタろ、右から来てるヨ】


「了解した!」


 相手の死角を突いた、意識の外からの一撃。

 にも拘らず、彼はミデアが触れる直前に、意地悪するようにシールドを手前に引いて距離を取る。


 これが何度も行われていた。


 攻撃の方向をアドバイスする声は、彼の厚い胸板に引っ付く白衣のポケットから聞こえていた。酷く可愛らしい、という言葉がよく似合う高音域の女性声。ミデアはそれに聞き覚えがあった。


「ハクちゃん……だっけ……?」


【ハイハイ、ハクちゃんですよ?】


 直接やり取りをするのはこれが初めてだった。首相官邸奪還作戦に同行していたとはいえ、彼女が搭載されているスマホはリハナがずっと管理していたし、その上ミデアは本隊から外れ別行動していたので、詳しいことは知らなかったが、作戦後のクレハからの報告によると、『頭脳ブレイン』を倒すのに一役買ったという。


 ――クレハによれば、『頭脳ブレイン』の機微の感情を読み取った、というけれどぉ…………。


「……私の動きを予想してさっきから伝えてるの、君だよねぇ」


【えー、にゃんのハナシィ?】


 白衣のポケットから覗くスマホは上部分だけ顔を出し、そこに付いているカメラからこちらの様子を窺い、戦闘に慣れていない兵藤寛太に指示を送っているようだった。


「ホントやってくれるよねぇ。動きを読まれるのがこんなにも厄介だとは」やられる側にもなってみるもんだねぇ、とミデアは肩を竦める。「ちぇっ。こっちは『天賦の五感ヱトスティ』が使えないってのに。それが君らの言う『とっておき』ってヤツぅ?」


「その通りよ」


 うおっ、と声を上げたミデアの真横に矢戸戸副部長の突き出したスタンロッドが掠めた。


「『ハク』は先進国の科学技術も取り得た近代の集結。世界的な研究組織、『innovasion』の協力の下、費用も惜しみなく詰め込んだ代物よ。貴方たち『異神世界』に対する研究成果も利用させてもらってるわ」


「えー、そんな勝手にぃ? いいのかなー? 平和条約違反じゃないのぉ?」


「安心しなさい。当用した異世界技術の大部分が無償提供してくれる『フーバ皇国』だから。ヘルミナスは飽くまで参考程度。魔法もロクに使わない脳ミソまで筋肉たっぷりの『獣人デュミオン』と科学はちょっと相性が悪いみたい」


「わあ、丸腰の相手にスタンガン振り回してるお姉さんに言われちゃったぁ」


 そんな軽口を叩きながらも、二人は休むことなく鋭い攻防を繰り広げていた。矢戸戸副部長が柄のスイッチを押し続けることで、無機質な黒光りする棒先から稲妻がひび割れるように走り、ミデアはその有効範囲を勘で予想し、そこに入らない立ち回りを刻む。


 そして、ミデアが攻撃の合間を見つけて反撃に出ようものなら――――


【左! 左! 後ろ下がって! 今度は右に!】


 守護霊のように立ち、時々邪魔をしてくる大男の懐から漏れるアニメキャラのような声が素人の隙をフォローしてくる。


 とはいえ、あちらも一度も攻撃をヒットさせていない。膠着状態。これでは互いに煩悶とさせるだけだ。


 ――いや、にしては妙だな。


 副部長が無鉄砲に振り回すスタンロッドを躱しながら、ミデアは思う。


 ――この攻防、客観的には一方的な有利不利が浮き出ているように見えるけど、その実このやり取りを続けていて有利なのは私だ。

 ――私とこの子達の体力差を考えれば、先に疲れ切るのはあっちなんだから。

 ――それを解らない子達じゃないと思うんだよなぁ。


 『天賦の五感ヱトスティ』による魔力マナの行動の先読みができないとはいえ、武術の心得ひとつない彼女達の攻撃に食らうような生半可な鍛え方はしていない。ただ、武器を振り回すだけでは、なんの意味も持たないことを。十二分に理解するに充分な時間は経ったはずだ。


 ――ということは、この戦闘はただの時間稼ぎ。

 ――私をここに縛り付けるための、勝つことを目的としてない戦闘。

 ――けど、なんの時間稼ぎだろぉ?


 単純に考えれば、冴山さえやま香織かおるを逃がすための時間だろうが――――


 ――でも、『縁』でマーキングした魔力マナの気配はずっと倉庫の中からしてるしぃ……。


 伸ばされた矢戸戸副部長の腕を掻い潜り、懐に入り込むように身体を捻り、バランスを崩させようと蹴りを放つ。

 しかし、その隙間を埋めるように防弾シールドを割り込み、ミデアのつま先は彼女の身体まで届かない。


 その反動が全身を駆け巡る間に、矢戸戸副部長が稲妻を迸らせたスタンロッドを振るってくる。ミデアは上体を反り返すようにそれを躱し、その勢いに乗じて転がりながら後退していく。


 ――いずれにしても、やっぱり動きを読まれるとやりづらいなぁ。


 攻撃を避けるために強引な動きをしてしまったミデアの硬直を、矢戸戸副部長は見逃さず、この瞬間をチャンスと見抜き、走って突っ込んでくる。


 これを回避する余裕はない、と判断したミデアはすかさず腰のホルスターから拳銃を取り出した。

 それを目撃した副部長が突貫を中止する。

 その後ろから兵藤寛太が慌てて彼女を庇おうとしているのが見えた。


 しかし、兵藤青年の頑張りには申し訳ないが、ミデアが取り出した拳銃は彼らに向けられることはなかった。


 乾いた音と火花を噴出させた鉄砲の向く先は、天井。ミデアは拳銃を持つ手を真上に真っ直ぐ伸ばし切っていた。


 ビクリ、と銃声に身を強張らせる二人。

 二人がまともな神経をしてくれて助かる、とミデアは内心で苦笑する。


 なんとか追撃を免れたミデアは、近くのコンテナの角を曲がり、兵藤寛太や矢戸戸副部長の視界から姿を消した。


「……! 逃げた……?」


 慌てて彼女の後を追う。【角で待ち伏せしているかもだから、気を付けて】というハクの助言に従い、彼女の消えた角に差し掛かる直前に歩みを止め、顔だけ出して様子を窺うが、そこには既に人の姿はなかった。


 ――もしかして、こっちの狙いに気付かれた……?


 矢戸戸副部長の心に焦りが募る。時間稼ぎを目的としている副部長達にとって、ミデアを倒せるかどうかは問題ではない。それに気付いたから、自分達を放置して冴山香織を捕らえに向かった。運動神経に天と地ほどの差があるこの状況で、あちらが逃げに徹してしまえば、こちらに打つ手はなかった。


 ――もっと、喧嘩腰な言葉を使えばよかったかしら。

 ――私はデニスくんみたいに減らず口じゃないし、彩也あやちゃんみたいに語彙が豊富でもないんだけれど。


「……ひとまず、井上いのうえくんに連絡するしかなさそうね」


 疲れた身体が酸素を求める。そんな状態で戦い続けた彼女の頭は、摩りきれた服のように薄っぺらい思考力にまで落ちていた。

 そのクセして、頭の中は役目を果たせなかった焦りと後輩を守りたい気持ちを撹拌されたようで、気分が悪くなりそうだった。


 ピチャピチャ、と足元で飛び散るのはスプリンクラーから排出されている水で、倉庫を覆うほどの大量だったものが、今や雨後の水たまりほどの残量もない。


「……時間稼ぎも充分かもしれないし、後は彼らに任せても問題ないかもしれないわね。せっかくだし、寛太くんもちょっと一休みしていかな――――」


佳那かな! 急いで距離を取って!!】


 疲弊とはやる気持ちに塗れた矢戸戸副部長が話しかけながら後ろにいるはずの兵藤寛太に振り向いたそのとき、ハクの警鐘を鳴らした声が響き渡った。


 その警告の意味、彼女が叫んだその意図を理解する前に、矢戸戸副部長の眼前には異常事態が既に広がっていた。


 後ろにいるはずの兵藤寛太。その彼の顔面に蹴りを放つミデア・アルファムの姿。

 コンテナ群の合間を走り抜け、戦闘役を担った二人の妨害から脱出したと思われたイヌ耳の少女が、50センチ以上も身長差のある大男に襲いかかっていた。


【コイツ! アタシの見えない方向から奇襲を仕掛けて――――】


「はいはーい、お喋りはそこまでにしようねぇ」


 倒した兵藤寛太の胸ポケットからハクのいるスマホを盗み取ったミデアは、これ以上ハクが戦闘のサポートができないようにと電源をシャットダウン状態に移行させる。

 スマホの操作も自由自在な彼女でも、コンピューターシステムそのものを停止させられては外へのアプローチはかけられない。

 もっとも、ミデアにそこまでの計算はなかったが。


「うん。やっぱり、この場で一番厄介だったのはあの機械ちゃんだよねぇ。この子の未来予知さえなければ早々に決着ついてたんだから」


「…………」


「どうやって裏を掻いたか、不思議そうな顔してるねぇ」ミデアは呆然としている矢戸戸副部長に話しかけた。「といっても、そんな難しい話じゃないよぉ? ハクちゃんが見てこっちの動きを予想できないように、君達の後ろから攻撃した。たったそれだけぇ」


「それだけ、って……。コンテナをぐるりと一周するだけでも一分以上はかかるはずよ? けど、貴方が姿を消してから一分どころか30秒もかかっていないはずだけど」


「あれぇ? 君達のリーダーもやってたじゃない?」


「…………?」混乱で頭が散らかっているのだろう、矢戸戸副部長は相手の言わんとしていることをなかなか理解できない。


「上だよ、上」そんな彼女にミデアは答えを呈した。「コンテナを登って、上から奇襲を仕掛けた。それだけだよぉ」


 角を曲がり、二人の視界から外れたミデアは、即座に両側のコンテナの壁面を利用して天井へと登り、井上部長が現れたときと同じように上から二人を視認したのち、ハクを所持している兵藤寛太の撃破に取り掛かった。


「一周して背後にまわりこもうとしても、私を追いかけてどこか遠くに行っちゃってたら意味ないからねぇ。だったら、全体を見渡せる上のほうが何かと都合がよかったんだよぉ」


「……なるほどね。飛び出すように走り出したのも、私達から逃げたと思わせるための演出だったわけね」


「君達が時間稼ぎのために戦っていることはなんとなく解ったから放っておいてもよかったんだけど、後々に合流されてまたハクちゃんに活躍されちゃったら面倒なことになるし、できるなら今のうちに戦闘不能にしておきたかったんだよねぇ」


 こっちの大男くんを一撃で仕留められたのは幸運だけどぉ、とミデアは興味もなさそうに蹴りを入れた兵藤寛太に一瞥くれる。

 コンテナから飛び降りる勢いも加わった膝を顔面から受け取った彼は、衝撃に耐えきれず転倒したまま起き上がらない。鼻先から眉毛も辺りまで赤い痕はついているが出血は見られない。腹筋が上下していることからも、命に別状はなさそうだった。


 ひとまず後輩が無事なことに安堵したい気持ちはあったが、ミデアが何も言わずに構えてくる拳銃に、全身が逆立つような怖気が走り、高鳴る緊張を一向に緩ませてくれない。


「大丈夫だいじょうぶ」と暢気とも言えるミデアの口調は確かに安心感が得られるような長閑のどかさがあったが、それから放たれる言葉は決して安心できなかった。「命まで取るつもりはないからさぁ。ただ、もうそのスタンガンを握って私に太刀打ちできないよう、ちょっと手足を使えなくさせてもらうだけだよぉ?」


 真っ直ぐに見据える拳銃。その凶弾が発射される発射口はどこまでも光がなく、見つめているだけで意識がぐちゃぐちゃにされるような薄気味悪さがあった。


「地球の医療技術が凄いから、きっとちょっと休んだだけですぐに元通りだよぉ」


 矢戸戸副部長は手元のスタンロッドに眼を落とす。今動いたところで、とてもではないが銃弾の速さに追いつけない。

 一秒後の未来が容易に想像つくこの事態に目眩がする。足元から徐々に体温が奪われていくような冷たい感覚が駆け巡るような錯覚を受けた。

 死の予感とはこういうものなのか、なんていう冷静な思考ができるはずもなく、彼女は目の前の現実から逃げたくて眼を瞑った。


 垂れ下がる暗幕。

 一秒経つも、痛みはおろか凶弾が発射された音もなし。


 組み上げた理論が崩されたような当惑の後、「ッッッ!」とまるで歯と歯の間から空気を吐き出すような、声というよりは音に似た声が耳朶じだに触れた。


 恐るおそる瞼を開く。


「なに……これ……?」とそこには苦悶に顔を歪めるミデアの姿があった。


 その付近には彼女が先ほどまで差し向け、恐怖の象徴とも言えた拳銃が転がっている。彼女はそれを拾うことも忘れ、拳銃を持っていた手をもう片方の手で覆うように押さえていた。掌を下側にし、そこに添えるようにしていた。彼女の視線はその反対側、手の甲を食い入るように見つめていた。


「そう」事態の把握に追い付いていないミデアに対し、矢戸戸副部長は冷静を取り戻したようだった。「


 直後、副部長の意味深な呟きにも突っ込む余裕のないミデアに、とても活発な印象のある朗らかな声が届いた。

 もっとも、朗らかといってもハキハキとした口調なだけで、言葉を紡ぐスピードはまるで聞き手のことを考慮に入れていなかったが。


「そこまでだ名も知らぬ獣人デュミオンくん!」少々芝居がかった台詞で、コンテナの影から隅多すみたデニスは現れた。「おっと無駄な抵抗はよしたまえよその整った顔に『こいつ』を浴びせるなんて非道なことはしたくないのでね」


 スプリンクラーの作動前に見せたボソボソと文句を垂れる暗い雰囲気とは打って変わり、昆虫の新種を発見したかのように興奮する彼の手には、地面に落ちたミデアの所持物と同じ形状をした代物が収まっていた。ただ、同じなのは形状だけで、色合いは自然を象徴するグリーンで、銃身はガラスのように透明、奥で握る右手の手相まで見えた。

 撃鉄やスライド、内部のパーツに至るまで本物とはまるで異なり、再現されているのは見た目と形状だけと判断できた。デザインも子供じみていて、銃弾はおろか空砲を撃つことすらできないだろう。

 そして、透明なガワと銃弾の代わりに入っているのは――――


「水鉄砲などと子供の玩具と一緒にしてくれるなよ『こいつ』に入っているのはただの水じゃあないんだからなそれは身を持って体験したお前が一番解っているとは思うがね」


「水鉄砲……? もしかして、毒が仕込んであるとかじゃ――――」


「――塩酸や」


 何がなんだか解らないといったミデアの言葉を遮り、コンテナの上から見下ろすように言葉を吐いた井上部長は、白衣のポケットに両手を入れたまま倉庫の照明が眼鏡に反射していた。


 塩酸、という単語に馴染みのないミデアは口に入れた食べ物がなかなか噛みちぎれないような顔をして次の言葉を待ったのだが、「塩酸!? そんな危険なモノを人に向けていいわけないでしょ!」と矢戸戸副部長が声を荒げて返事した。


 首を傾げたくなる。時間稼ぎをしていた二人と後に現れた二人の意図は共有されているのではないのか。


「P.Hの低い水素に漂白剤を混ぜただけで、塩酸なんて作れるわけないでしょ。精々が過酸化水素が皮膚についた程度よ」


「ふふ、その通りやな。まあ、塩酸が作れへんわけではないんやがな。酸性タイプの洗剤と塩素タイプの洗剤を混ぜれば簡単に戦争兵器なんて作れるし。それしたら近くでガス吸う僕らのほうが先にお陀仏やけど」


「ふむ不思議なものですね。ただの死水に洗剤を混ぜるだけでこんな劇物に変身するとは」


「死水……?」耳馴染みのない単語ばかりが飛び交うミデアにも解る不穏な単語だった。


「別に、毒ってわけやないで」そんな彼女に、井上部長はしてやったりと言わんばかりに笑みを放ち、彼女の肌を焼いた液体の正体を口にする。「それは、ただのスプリンクラーの水なんやからな」




 10分前


 時は僅かに遡る。


 矢戸戸副部長と兵藤寛太の二人がミデアを引き付けることで難を逃れた香織は、井上部長に連れられてとある場所へ向かっていた。


 二人にはスタンロッドと防弾シールドを持たせてある。


 そう井上部長は言い、だから安心するといい笑ったが、全くもって安心できないのが正直なところだった。歴戦の戦士たる彼女に、ただの護身用道具が通用するとは思えない。


 フーバ皇国が開発した『縁』の効果によりこちらの場所はどこまでも特定される。こうしている今もこちらの情報は筒抜けかもしれない。やはり、自分もあの二人に加わるべきなのでは?


「大丈夫やって。この選出もちゃんと考えてのことやから」


「でも、みんなの中で一番動けるのはボクだし…………」


「そもそもな、冴山香織研究員は重大な勘違いをしてるで」


「勘違い?」


「僕らとあちらさんの勝利条件、それはどっちも勝負に勝つことやない。あちらさんが冴山香織研究員の誘拐、僕らはそれを防ぐこと。せやろ?」


「う、うん」


「やから、君を前線に出すわけにはいかへん。僕らは君を守りながら戦えるほどの術を知らへんから。そうなると、あの中でも比較的動けるあの二人が適任っちゅーわけや」


「部長はいつも通り後輩を囮にしてドヤ顔キメてますっと」


「隅多デニス研究員は何を呟いてスマホぽちってるんや?」


「副部長に言いつける用の井上部長観察日記」


 ボソボソと陰鬱そうにスマホを凝視する隅多デニスを横目で睨みながらも、井上部長は迷いのない歩調で倉庫の中を歩みゆく。


 雨後の倉庫の空気はどこか冷たく、スプリンクラーの水を全身に浴びた香織の身体にも寒気が走る。

 壁際に、ホコリ防止用の袋がかけられたフォークリフトが設置されていた。スプリンクラーが放出されることを考慮しているのか、運転席を密閉するように覆っていた。


「つまり、僕らの勝利条件は、あちらさんにもう君を拐えへんと思わせることなんや」井上部長は話の続きを説明した。「そう思わせる武器を取りに行ってるのが、今や」


 戦線離脱してからの香織一行は壁沿いに倉庫の中を歩き続けていた。幾つも並んだコンテナの向こうでは戦闘が繰り広げられている、とは思えないほどの静けさで、それがこの倉庫の広さを如実に物語っていた。


「お、あったわ」と部長。何かを見つけたような声は活気を溢れさせ、彼の歩みを速くさせた。


 それに隅多デニスと香織も続く。


 2メートルほど進んだところだろうか。足元から鳴るビチャビチャという音が増したような気がして、ふと顔を下に向けると、明らかに水深がこれまでと違っていて、香織の足首にまで届きそうだった。


「これは、排水溝ですか?」香織は井上部長の探していたものが何か解ったような気がした。


「そうや」彼は肯定した。「この倉庫は僅かな勾配ができててな、スプリンクラーが作動したときのための、水を逃がす穴が設けられてるんや。まあ、非常食品とかが保管されてるこの場所を水浸しにするわけにもアカンからな。しかも、重要な施設であるこの場は水の排出量が多めに設定されてるし。大概の水はこうやって脱出用の出口から流れて下水まで落ちていく仕様になってんねん」


「その排水溝に蓋をしてたんですか」


「どうしてもこの水が欲しくてな」


 排水溝の周りはテープでコーティングされたビニール袋が仕掛けられており、それに堰き止められたスプリンクラーの水が流れることも許されぬまま集まってきているため大きな水たまりのようになっていた。


「水なんて、わざわざこれで集めなくても」


「冴山香織研究員はプログラム一筋やったっけ?」


「はい」


「一応言っとくけど僕もですよ!」隅多デニスが得意げに便乗してきた。


「やったら知らんかもやけど、スプリンクラーに使われる水ってのは『死水』言うてな、その殆どが腐った水なんや」


「そ、それは聞いたことがありますけど」香織もそのことは知っていた。足元の水は透明ではなく、泥が混ざったような濁りが渦巻いていた。水道水は塩素が含まれており、それが水中に漂う病原菌を消毒してくれているのだが、それにだってどうしても寿命はある。放置し、塩素が死んだ水は腐る。スプリンクラーの水とは、配管の中で放置された水なのだ。


「それを一旦捨てるためにも半年に一度は消防点検するねんけど――『地下シェルターここ』の場合はちょいと特殊でな、構造上の問題でなかなか水の点検ができひんのや」


「できひんのや、なんですか」


「やから、ここのスプリンクラー水は他と違うて、ちょいとP.Hが低い。そこに、予め持ってきといた塩素タイプの漂白剤を混ぜると、肌に被れやすい化合液体の出来上がり、って寸法や」


 言うや否や、井上部長は白衣のポケットから並よりサイズの小さい漂白剤の蓋を開け、すべてを入れる勢いでドバドバと行き場を失くした水たまりに掻き込んでいく。


「後はこの水鉄砲にこの水を装填すれば準備万端。さあ、僕らの勝利を刻みに行くで」




 現在


「あんま抵抗せえへんほうがええよ」井上部長は言った。「死水武器転用の提唱者が僕本人とはいえ、できれば使いたくはないねん。せっかくの可愛い顔を火傷で台無しにしてまうのは可哀想やし、美人が消えちゃうのは世界の損やからな」


「どこに出ても恥ずかしくない容姿差別ね」矢戸戸副部長が冷めた眼でコンテナの上の部長を睨む。


 そんな世論は知らないとばかりに持論を展開する政治家のように聞く耳持たずな彼は、拳銃を落として丸腰となったミデアに向けて似た形状の武器を差し向けた。


「っ! それは……」それを見たミデアは、反射的に隅多デニスのほうに眼をやった。


 白衣のポケットに突っ込んでいたままの手に握られていたのは、自分を襲った焼けるような水の入った鉄砲と同じ玩具だった。


「それだけやないで」


「香織ちゃん……」ミデアは、香織が自分の視界に入る前からこちらに向かって来ているのが解っていた。ただ、予想外だったのは、彼女の手にも忌々しい水鉄砲が握られていたことだった。


「ミデアさん、降伏して」彼女は銃口をこちらに向けながら言った。「この水は本当に危険だよ。出来れば、貴方にこんな汚いものをかけたくない」


「それって、スプリンクラーの水でしょぉ?」だったら散々かかってるよ、と肩を竦めてから、「それに」と今度は隅多デニスに眼をやる。「危険なのはもう、あの子のおかげで実感した後だからさぁ」


「なかなかの狙撃っぷりであったろう? 伊達にガンシューに暇を見つけては通い詰めていないということさ」


「言ってる意味は相変わらず解らないけどさぁ」胸を張って誇らしげに喋る隅多デニス。その彼が命中させた右手の調子を確かめるように動かすミデアからは、既に水がかかった直後に見せた焦りは消えていた。「正直、この程度の痛みならどれだけ食らっても問題ないかなぁ。最初はちょっとビックリしたけど、眼とかにかからない限りは数日で回復しそうだし」


「でも、痛いの嫌やろ」


「そりゃ嫌だよぉ? 『マキナ』と戦っているときなんて、どれだけ痛くてどれだけ帰りたいと思ったか」おちゃらけたように言う彼女が本心を喋っているのか判然としない。「けどねぇ、これって戦争だからさぁ。擦りむいたり、ちょっと表面を切ったぐらいで蹲ってたら死んじゃうもんで。この程度で諦めるわけにもいかないんだよねぇ」


 ミデアの言葉を聞き、香織はそっと小さく唇を噛む。その通りだ。ミデア――彼女達は地球を裏切ったと見られてもおかしくないことを仕出かし、故郷である『ヘルミナス王国』からも見放され、それでもやり遂げようとしていることが、地球の切り札と呼ばれる『禁忌の人物史アカシックエラー』、神宮寺じんぐうじ玲旺れおの抹殺なのだ。割りに合う合わないは個人の裁量にしても、やり遂げたいこともそれに降りかかる枷も、たった三人が背負うには重すぎる。


 そこには命を賭す覚悟があって然るべきなのだ。


「嘘です」


 そんなとき――いよいよ脅しで済ませたかった銃の引き金をひかなければならない決断に迫られる香織を叩くような力強い少女の声が。


「あなたにそこまでの覚悟はないはずです」と森川もりかわ彩也は言いながら、井上部長の乗るコンテナの横側からゆっくりと歩を勧めた。


「……それは、どういうことかなぁ」眉間に皺を寄せるミデアは、聞き捨てならない、と暗に突然現れた彼女に敵意を向けた。


 しかし、そんな鋭い視線から逃げることなく、「私は……小さいときから人の顔色ばかり窺っていたような臆病者だから、解るんです……。なんとなく……あなたは今回のことに乗り気じゃない、と」


「なんとなく、ねえ」


「もちろん、私は詳しいことは知りませんけど……何故あなたが冴山さんを狙っているのかも知りませんけどっ! ――ミデアさんの言動は本気で彼女を捕まえようとしている感じではない気がしたんです」


「言動はそもそも、私ってこんな性格だからさぁ」


「そ、そうじゃなくて……!」森川彩也は辿々しいながらも、微塵も引く姿勢を見せない。「冴山さんを本気で捕まえようとするなら、私達が合流する前に遣り様が幾らでもあったと思うんです! 合流した後だって、私達素人を一気にやっつけるぐらい簡単なんじゃないか、って……!」


「実力不足を他人に指摘されるなんて久しぶりだねぇ」


「ミデアさん、さっき言ってたよね」と言ったのは香織だった。「自分は漫画の読者みたいなものだ、って」


「……ああ、そういえばそんな話したねぇ」


 自分が二人に比べて熱意がない理由を、漫画に例えて話したことを思い出すミデア。クレハやアイーシャという推しの望む世界を作ってやりたい。彼女はそう言った。


「でも、それなら、推しの負ける姿だって見たくはないんじゃないの?」


「どういうことかな?」


「ミデアさんは知ってるよね。クレハさん達が今回の計画で、命を捨てる覚悟もあるってこと」


「…………」


「推しの夢は叶えたい。確かにそうかもしれない。けど――死ぬことすらも肯定できるわけじゃないでしょ」


「いやいや、推しってのは飽くまで例えの話であってね? これは現実に関わることなんだよ?」暴走しそうになる頭を冷ますように、ミデアは諭す口調で言葉を返す。「第一、死ぬしぬなんて簡単に言うけどさぁ。それって――君の想い人が二人を殺す、って認識でいいんだよね? そんな残酷なことをする、という確信が君にはあるのかなぁ?」


「玲旺はどんなことがあっても相手の命を奪ったりはしない」香織で即答で断言した。「でも、玲旺はそうでも他の人達は解らない。玲旺に勝っても負けても、クレハさん達は地球人にとっては敵になる。それどころか、『ヘルミナス王国』の人達にだってどう思われるか解らないよ。『マキナ』のように、本当に全世界の敵になっちゃってもおかしくない。ミデアさんは、そんな二人を見たいの?」


「さあ、どうだろうねぇ?」言動に動揺はなし。しかし、香織は見逃さなかった。彼女の瞳は一瞬ではあるが揺らいだ。


 心理的な知恵や心得のない自分ですら気付けたのだから、その専門家――コミュニケーション心理学を学び、ハクの感情学習プログラムに大きな成長性を見出したという森川彩也の分析はもっと多くの情報を引き出せたことだろう。


「よかったら、話してくれない?」ここだ、という確信があったわけではないが、香織は最後の一押しとばかりに直球勝負に出た。「二人がみんなから嫌われないように解決できる方法を思いついてみせるから!」


「…………」ミデアは貼り付けたような笑みをそのままに、無言を貫いた。恐らく、頭の中では整理が追いつかないほどの迷いと葛藤が渦巻いているはずだ。


「ボクらに任せてよ!」香織も、そんな彼女の上辺に負けないぐらいの笑顔を作ってみせた。「ボクらは世界の叡智を集めた、あの『Innovasion』からも支援を受けている天才達の集まりなんだからさ!」


「まあ、僕が職権乱用してるだけやけど」余計なことを言う井上の口に、矢戸戸佳那がスタンロッドの柄を刺すように突っ込んだ。


 ミデアは笑みを崩さぬまま、「ナイアガラの滝まで連れて行ってくれるなら」と両手を挙げた。

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