第 26 話 首相官邸奪還作戦 ―陸―


 自律型AI『ハク』。

 香織が所属している『人工知能感情部門開発研究班』が開発した、シーサーの姿をした人工知能。対話型生成AIとも呼ばれており、自然言語理解、適応性、応答性、を用いて臨機応変に会話に応じ、質問や指示に適切な反応を返す、という機能性は、あたかも人が操作しているような自然さが備えられていたが、それもAI自身によって、ネットなどの知識を理解し、応用して出来上がったものである。


 ただ、ハクに関してはその通例に習わない側面もあった。それは、たった今の一幕からも解る通り。


 彼女は、自ら己を操作する者に対してアプローチをかけることができた。


【はあ!? 忘れてた、ですってェ!? このアタシを? この、スーパーインテリジェンスAIハクちゃんを、言うに事欠いて、忘れてたですって!】


「う、うぅー……だから、すみません、と言っているじゃないですか……」


 首相官邸に突入してからというもの、リハナ達は連戦続きだった。立ちはだかる『マキナ』、襲いかかるピンチ、その対処に追われていて、とてもではないがその他の事柄に考えが及ぶような余裕がなかったのだ。


 だが、そんなことは知らないと言わんばかりの憤りを、このシーサーAIは、状況も弁えず、発散させていた。【あのね】と口を開く。【リハナっちは地球こっちの事情にあんまり詳しくないだろうから、今回は大目に見てあげるけど。アタシ達みたいな存在はね、使われなくなったらそれでおしまいなんだよ。使い物にならなくなるとか、壊れたとかそういうのじゃないカンネ。長く愛用された結果、捨てられるならまだイイよ。けどネ、忘れてたから使わなくなったとか、古いのより新しいほうがいいとか、そういうナメた発言をされたら文句のひとつも言いたくなるもんなんだよ!】


「べ、別にナメてるつもりは――――」


【なくても、こっちはそう受け止めざるを得ないってこと!】


 こちらの発言を予測して発言を被せてくる。リハナは、相手が本当に機械なのかと混乱しそうになった。


 対話型生成AIは、相手がいることによって初めて存在が確立される。相手が、質問や言葉を投げかけ、自己解析で得た言語術を用いて応答するのが通例なのだが、『ハク』の場合は異なる。自らスマホを通してその持ち主に話しかけることができる、感情を持ったAI。それが、『人工知能感情部門開発研究班』の研究課題でもあった。


 もっとも、生物の数だけあると言ってもいい感情を再現するなどという技術力は、心理学や感情神経学といったそれら固有を突き詰めるための部門が生み出された現代でも、どうにかなるような範疇を優に越えていた。ここで言う『感情』とは、外部の刺激によって身体が反応して生み出される条件反射の類に近い。怒り、喜び、悲しみ、恐れ、驚き、などの『分離感情』は顔や言動に出やすい。そこからその者の感情を予測することは難しくない。ハクには、それを分析する機能が備わっており、そこから適応して言語を生成させるプロセスが設定されていた。


 ただ、これに関しては、積極的に絡んでくるコミュ力高い系女子生徒みたいでウザったい、と感想を述べる研究員も少なくなかったが。


【と・に・か・く! リハナっちがもし今後もアタシを頼るなら、絶対にNG三原則は言わないこと!】


「エヌジー三原則?」


【忘れてた、使えない、可愛くない、の三つ!】


「わ、解りました」


 結局、何が言いたいのかをはっきりと理解できなかったリハナだったが、根が真面目ではあるので、彼女の私的な指南は心に刻んでおくことにした。


「オイ、なに遊んでんだ」そんな気の緩んだやり取りをする二人――というよりは、一人と一機、というべきか――に、アイーシャの鋭い声色が突っ込みを入れた。「こっちは休めない作業の真っ最中だってのに、なにスマホなんかいじってんだ?」


 嫌味や説教にも聞こえるものの、単に身体を動かしながら喋っているので、言い方に気を遣う余裕がないのだろう。


 そこでリハナははっとした。そうだった。今は、人工知能と暢気に漫才をしている場合ではない。


 分身体、そしてこの中のどこかに潜む本体の『頭脳ブレイン』は、変わらず魔力弾を生み出しては放出する循環を繰り返していた。その脅威を、クレハとアイーシャは負けじと払い除けている。つまり、先ほどと同様の応酬が再開されていた。


 ただ、今回は打って変わって、二人の身体が傷つき、溜まった疲労もそのままにこれまでと遜色ない動きをしなければならない負担が大きくのしかかっていた。このままではいずれ、この均衡は崩れてしまうだろう。

 反撃に出たいのはやまやまだが、相手が複製した分身体は、確認できるだけでも十は下らない。この分厚い弾幕の壁に対処しながら、一機ずつ各撃破するのは至難の業と言ってよかった。


「クソ。こんな雑魚、本物さえ解れば一瞬で片が付くってのに」


「こういう追い込まれたときになるといつも思うんだけど」


「ん?」


 背中合わせに合流したクレハが、アイーシャに言葉をかけた。


「こんなことになるなら、私達も魔法を覚えておけばよかった」


「……フッ。ちげえねえな」


「やっぱり、『癒』ぐらいは使えたほうが便利かな?」


「オレはあんま性に合わねえけどな、魔法なんて」


 軽口を言い合っているのは、痛みを訴えている身体を激励するためか。二人は背中合わせで、自分の見える範囲を警戒している。見えない箇所は、己の相棒がどうにかしてくれると信じ合った力強い佇まいだった。


 ――二人とも、非常に頼もしいけど、このままだと、結局はあの防戦一方を繰り返すだけ。

 ――一体、どうしたら……。


【ネエネエ、リハナっち】


「あ、はい。なんですか?」


 考え事をしている途中で、手中にあったスマホに話しかけられ、リハナは上擦った声を出した。


【リハナっちはあの教祖モドキを倒したいんだよね?】


 教祖モドキ、という呼び方がすぐに『頭脳ブレイン』とは直結しなかった。言われてみれば、円錐状の帽子を被り、胡座を掻いているようにも見えるその姿は、胡散臭い新興宗教が雰囲気作りのためにしそうな出で立ちではあった。だが、宗教の出自も地球とは全く異なるヘルミナス王国出身者には、その呼び方はしっくりこなかった。


「はい。教祖モドキ……えっと、『頭脳ブレイン』を倒したいです」


【けど、偽者が多すぎて手も足も出ない。そういう状況なんデショ】


「そうですね」こうして話している間も、先輩の二人が身を粉にしてこちらに被害が及ばないようにしてくれている。なのに、こんな話を続けている自分がもどかしかった。


【ホラ、じゃあさ】


「ジャアサ?」


【ホラ、出かける前に一回やったでしょ。あのときみたいに、アタシに声をかけてみてよ。し・つ・も・ん】


 あのときみたいに質問、とリハナの頭に過ぎったのは、ひとつしかなかった。「え……アレをやるんですか?」


【アレをしないと、アタシのアタシたる所以がなくなっちゃうでショー】


「そもそも……え? もしかして――あるんですか! あいつの倒し方が!?」


 今日一番、素っ頓狂な声を出したことだろう。己の成長速度、先輩方の強さ、『頭脳ブレイン』の厄介さ、どれも驚愕に値する。しかし、それを越える彼女を襲った。

 なんといっても、シーサーなのだ。

 それも、本物のシーサーではない。

 ただの板状の機械が、本物の人間のように喋り、本物の人間のように文句を垂れ、本物の人間のように関係を築こうと愛称を命名し――本物の人間よりも早く攻略法を掴んでみせた。


【訊いてみたら解るんじゃない?】ハクは挑発的に笑うのみ。


「……はい!」ただ、驚きに染まったリハナがその後に感じたのは、機械に負けた屈辱感などではなく、頼もしい仲間ができた安堵と燃え上がる熱意だった。「ハクさん、『頭脳ブレイン』の倒し方を教えてください」


【よしキタ! つっても、アタシがやるわけじゃないんだけどネェ。リハナっち、ちょっと耳ミミ】「耳?」【スマホについてるマイクに近づけて】


 ハクの真意がイマイチ要領を得ないリハナは、戸惑いながらも彼女の言う通りに、マイクの場所が解らないので教えてもらいながら、スマホにネコのような大きな耳をピタッとひっつけた。


 スマホは便宜上、政府のほうからの計らいで、『派遣ビーファ』の面々は持たされることになっているものの、他は知らないが、少なくともリハナはお世辞にも使いこなせているとは言い難かった。契約初日に行う初期設定の段階で白旗を上げてしまうくらいには機械音痴だったが、ミデアや、意外にもアイーシャが常用しているようで、簡単な連絡だけなら利用しているような状態だった。


 なので、感覚としてはその電話時と似たようなものだったが、やはり何度やっても慣れないものだった。スマホから聞こえてくる声は、明らかに見知った者の声ではなかった。電話の音声とは、何万とあるパターンで最も声の主に似ている合成音声が使われるが、卓逸した聞き分け能力を持つリハナには、その誤魔化しは気味が悪く感じられた。

 また、単純に耳元で喋られることもあまり好きではなかった。


「…………え?」ゴニョゴニョとハクから言われた言葉に、リハナの当惑はさらに広がった。「それを、言わないといけないんですか……?」


【言わなかったら今までのやり取りなんだったのよ】


「……本気ですか?」


【アタシ、本気と書いてマジなんて寒いことは言わないわよ】


「…………」思うところはあった。しかし、今は藁にもすがりたい気分。果たしてそのような方法で上手くいくのか判断がつかないが、リハナは言おうと息を吸い込んだ。


【あ、ピッチはうんと低くね。男のじゃないよ。目の前の上品とはとても言えない猥談をしてる男達を見下した女、みたいな感じをイメージして。後、表情もそれっぽくして、瞳にちょっと影を落とすような感じにしてくれたらもう文句なしだわ】


 あれやこれやと色々なオプションまで指導を施す彼女に、本当に思うところはあったが、それでもリハナはもう一度息を吸い込み、次の台詞を吐き出した。


「死ね」


 リハナは、ハクの指導に沿った言い方と表情を必死に作った。心の芯から底冷えするような声に、目の前にいる『マキナ』に向けた憎悪を上乗せして、本気度が高まり、演技という域を凌駕してしまったところもあるが、やりのけた。


 ただ、その完全無欠な一言に、戦っていた先輩方はぎょっとした。温厚で丁寧な可愛い後輩が、そんなことを口にするとは毛頭思わなかったのだろう。それもそうだ。ハクに言われなければ、絶対に言うことはなかった。現に、本人も驚いている。それは、赤道にも氷河期が来るような絶対にあり得ない組み合わせだった。


 そして、さらに絶大な影響を受けた者がもう一人いた。いたのだが、なんといっても同じ見た目をしている個体が数十はいたために、三人ともが見逃してしまった。


【見つけた!】スマホに住まう、このシーサーを除いては。【リハナっちのいる場所から11時の方向だよ!】


「クレハさん、アイーシャさん!」リハナはすかさず二人に声をかけた。「お二人から左前方、先に進む通路の前にいる個体が本物です!」


 リハナはハクの示す方向と、二人が前に出て戦っている場所との差異を計算して、彼女が発見した本物の『頭脳ブレイン』の居場所を突き止めた。奴は、リハナ達が通ってきた通路の続き、外へと脱出口に近い位置を陣取っていた。なるほど、と思う。正体を暴かれても、いつでも逃げられるようにクラウチングスタートをかけていたわけだ。


 だが、ひとつ勘違いしてはいけないのが、何故に彼女達がこうした酷い膠着状態にあったかというと、魔力マナの節約を度外視した分身体の複製とそいつらが出す攻撃の嵐である。本物を特定できた今、ターゲットを一体に絞りさえすれば、二人が逃してしまうなどということは万にひとつも有り得ない。


 居場所を聞き届けた二人に、会話はいらなかった。迫る弾幕を大振りの攻撃で一気に振り払うと、その居場所目掛けて全力で突っ込んで行った。


 その行動に気付いた本体が、何かを手繰るような動作をした。すると、奴の背後から五匹の『ソルジャー』がぞろぞろと湧き出した。

 彼らは、司令塔に命じられるままに命を投げ出してまで強者に挑む捨て駒のようなものだろう。


「させません!」リハナはアサルトライフルを素早く拾い上げ、時間稼ぎのために蒔いてきた肉壁を一匹ずつ撃墜していく。温度を下げて出番を待っていた新しい相棒は、リハナの高ぶる衝動が乗り移ったかのように勢いよく硝煙を燻らせていた。


 ならば、と『頭脳ブレイン』は分身体の魔力弾を激化させた。放出する量を多くし、速度を上げ、もはや分身体そのものを弾丸とさせるような暴挙でこちらの接近を阻もうとしている。


「ハッ! どうした、しなびてんじゃねえか。よかったら話でも訊くぜ?」


 器に染み込んだ分を絞り出すまで詰め込んだ大きな魔力マナの塊を前にして、そう猛々しく言い放ったのはアイーシャだった。

 彼女は地面を強く踏み込み、折り曲げた膝に力を込め、一気に得た直進力で、先頭を走るクレハを抜いて、その巨大な魔力弾に突っ込んだ。


 アイーシャは『獣人デュミオン』の主たる長所を底上げさせた、武力に特化した格闘家である。

 クレハのように、全身を巡る魔力マナを武器に通したり、外部に放出させて魔法に変換させたりはできない。

 しかし、魔力マナが全身に伝う速度が他者よりも優れていた。魔力マナとは、熱エネルギーと同じだ。何か外部からの刺激でもない限りは、使った分は取り戻せないし、いずれは衰えていく。魔力マナのメカニズムは、その分野を得意とする地球の人々が知覚できないがために、研究の進行が難航している。なので、現在は現存する物質と同一視アイデンティファイせざるを得ない状態だった。

 魔力マナの循環速度とは、頭の回転が速いのとよく似ている。筋肉の伸縮、力の方向性ベクトル、重心とバランス、最大威力を引き出すための動きを魔力マナが自動的に理解している。


「オラアっ!!!」


 分身体をも巻き込んだ魔力の塊、その奔流をすべて呑み込んでしまうかの如く放たれた回し蹴りは、それに伴い発生した突風すら風刃と化して広範囲に広がった。舗装された地下の床を巻き込みながら、一陣の竜巻を聳え立ち、迫りくる魔力弾を軒並み吸い上げてしまった。


 そして、余韻を残しながらも影響を失くしていく竜巻の奥。


 求めて止まなかった大将のお尻が見えた。

 既に、戦闘を繰り広げた空間から先の通路へ渡っている。


 絶対に逃しはしない。

 そう心が叫んだのは、リハナだけではなかっただろう。「クレハさん!」


 颯爽と。

 まさにその表現に違わぬ俊敏さで、呼ばれた彼女が加速する。


「二人が開けてくれた道、絶対に無駄にしない……!」


 標的まで一直線の道のりを走る、走る、走る。

 逃げる本体のスピードを優に越えたスピードで。

 その手に少し武骨な勇者の剣を携えて――――


「電光石火『菊花パラスティール』」


 鬼の首を取った。




 戻ってきた首相官邸の内部は静かなものだった。

 逃げた『頭脳ブレイン』を追いかけて通ってきた地下通路を引き返し、首相や官僚が壇上に上がる際には大弾幕のように背後に広がるカーテンを潜り、記者会見室に戻ってきたとき、リハナは自身の耳が『ソルジャー』の『魂』を聞き分けてこなかったことを深く安堵する。

 『頭脳ブレイン』を倒せば、奴が操っていた『ソルジャー』が総じて機能停止する。その前情報を知っていて尚、この瞬間を確信するまでは、この部屋に『ソルジャー』の群れが待ち伏せしているのではないか、という疑心は消えなかった。


 終わった。リハナの胸にその言葉がすんと落ちてきた。


 ――終わり?

 ――何を言ってるんだ。

 ――まだこれは、ほんの序章に過ぎないじゃないか。


 緩めようとしたネジを再び強く締める。垂れていた背筋を伸ばす。終わった気になろうとした自分の頬をパチンと叩いた。


 襲いくる『マキナ』は全滅したわけではない。地球は未だ脅威に晒されている。その事実はまだ変わっていないのだから。


 結局、『フィクサー』に相当する人語を介するあの二機は現れなかった。今回の作戦で仕留められたのは、くまでも下っ端でしかないのだ。奴らの言う『任務』も不明のまま。奴らを倒した瞬間こそが、この再起動Reactivationの終戦を意味するだろう、とリハナは確信していた。


【ふふ、どうよ】そのとき、声がした。自分の手元からだった。【アタシの作戦、上手くいったでしょ。アタシがいなかったら、今頃アンタたち死んでたかもしれないわね】


「そうですね、ハクさんの言う通りかもしれません」ハクの言い方は若干の恩着せがましさがあったが、リハナは素直にその言葉を受け入れた。実際、ピンチに現れた今回のヒーローは彼女なのだ。「ありがとうございます、ハクさん」


【……!】すると、彼女は虚を突かれたような顔をした。心なしか、少しが顔が赤くなっているようにも見えた。【ま、まあ!】と反射的にあげたのか、その声は上擦っていた。【礼を言われるほどでもないケドね! あんなの、おにぎりを作るより簡単だったし】


 AIなのにおにぎりを握るんですか、とは言わなかった。「けど、私達だけでは絶対に思いつきませんでした。どうして解ったんですか?」


【アタシの学習プロセスは普通のAIと違って、ニューラルネットワークの手法を取らず、あえて曖昧な形を取ってるから。逆に、その曖昧な部分を機敏に反応できる仕組みになってるんだよ】


「すみません。言ってる意味がよく解りません」


【リハナっちが、「死んでも」と言ったときに敵の弾幕が勢いを増したでしょ。アレって、ストレスを感じたときの行動と一緒なんだよ。ホラ、よくいるっショ。図星を突かれて逆ギレしたり、自分の弱い感情を見せたくなくて攻撃的になる人間。溜まったストレスを外に追い出そうと、そういう刺々しい行動を取っちゃうモンなの、生き物って】


「生き物、ですか」


【ああ、リハナっちのイイたいことは解るヨ。『マキナ』は生物に入るのか、ってことデショ。でもね、リハナっちに認めたくない気持ちはあっても、奴らは生き物だよ。感情に敏感なアタシだからこそよく解る。奴らは、人間と同じように、喜びも怒りも悲しみもするんだよ】


「…………」リハナの脳裏に過ぎったのは、『フィクサー』のことだった。奴らは人の言葉を喋り、その声色にもちゃんと感情があった。


 アレが解りやすかっただけで、本当は他の個体にも感情があった?


 ならば、と思う。尚更、リハナは奴らに対する憤りが増した。奴らは感情を理解している。相手の痛みを理解しているのではないか。にもかかわらず、非力な人々を殺してまわる。無慈悲に尊厳を奪う。そんなことは許されるものではない。例え、それが奴らにとっての生命活動、習性として含まれているとしても、許されていいはずがない。


【『マキナ』にも感情はある、ということは、その要素によって行動は左右されやすい。これは覚えておくと、後々役に立つと思うヨ】


「そうですね。……今後のためにも」


 パサッ、とカーテンの捲れる音が聞こえた。後ろの、リハナが辿ってきた地下通路から、また誰かが上ってきた。


 新手、という発想はなかった。聞こえてくる気配にしても、非情に馴染み深く、最も信用しているものだったからだ。


「あーあ。やっとあの薄暗い場所から解放されたぜ」階段を上ってきたアイーシャは、息苦しい窮屈な空間から出てきたように大きく伸びをした。「あんな湿気の多いトコにいたら、こっちの気分まで湿気臭くなるっつーの」


「アイーシャさん!」リハナは表情を明るくした。「無事だったんですね」


「あの程度に負けるほどオレらは柔じゃねえよ」


【……負けそうになってたクセに】


「あぁ? なんか言ったか?」


 ハクの溢した一言に、アイーシャは耳聡みみざとく喧嘩腰な態度を取った。


【べっつにィ?】しかし、ハクはわざとらしい誤魔化しっぷりを発揮した。


 その焚き火に煽るような態度に、ますます顔をしかめたアイーシャはリハナに近づくと、その手に持っているスマホを取り上げ、画面に映ったシーサーとにらめっこを始めてしまった。


「作戦を提案したのがお前だってのはリハナに聞いた。それは感謝してる。けど、あんま調子のんじゃねえぞ」


【それはこっちのセリフなんデスけど。画面に顔近づけんな。口臭くさいよ】


「あぁ!?」

【はぁ!?】


「元気ですねぇ、二人とも」本来なら止めるべきやり取りなんだろうが、リハナはむしろその言い合いに安心感を覚えた。


 直後、ドッと疲れが襲ってきた。肩の荷を下ろすように猫背の姿勢を取り、強張っていた身体の緊張を解く。


 ――ちょっとぐらい、このつかの終わりを堪能してもいいかもね。


 本当は、そこに座り込んで身体を休めたい気分ではあったが、それはグッと我慢した。


 ――とはいえ、まだ完全に休むわけにはいかない。


 今回の作戦は、まだ終了していない。

 首相官邸奪還作戦。

 その目的は首相や官僚、この施設の生存者の保護。


 その上で、リハナ達マーダー小隊の役割は『頭脳ブレイン』の討伐であり、その任務は達成したものの、だからって自分だけが先に休憩するわけにはいかない、と生来の真面目さでリハナはそういう判断を下した。


「まずは上の階で生存者を捜索しているミデアさんと合流しないと……!」


「――いや、その必要はないと思うよ」


 え、と声をかけられたほうに顔を向けると、同じように地下通路から戻ってきたクレハがキツネのような耳に手を当てていた。その動作が、無線から発せられる音を聞いていることをリハナは知っていた。


 リハナは改めて意識をそっちに持っていくと、ザザ、と確かに音が鳴っていた。

 今まで地下にいたために、電波の繋がりすこぶる悪く、気付くのに時間がかかってしまった。クレハも電波が届く範囲まで上がってきたところで、ミデアと連絡を取ろうと無線を使おうとしたのだろう。


『あ……やっと繋がったよぉ』数年ぶりとも錯覚しそうなほど、その声を聞いたときリハナは心が暖まった。『いやあ、みんな元気だったぁ?』


「ミデアさんも無事ですか?」


『やあ、リハナ……あ、マーダー04。うん。こっちも無事だよぉ』


 無線を使う際に決めたコールサインを使う彼女に、リハナは苦笑を浮かべる。「もう、わざわざ呼び方を変えなくていいじゃないですか」


『いやー、そういうわけにもいかないんだよねぇ』


「どうしてですか?」


『どうして、ってそりゃあ』ミデアは間を置いてから言った。『作戦は遂行中だからねぇ』


「それもそうですね」同じようなことを考えている彼女に、リハナは少し嬉しさを覚えた。


「それで、ミデア。そっちはどう?」クレハが無線に参加した。「生存者は見つかった?」


『そうそう。その話だったねぇ』ミデアは感慨深げに言った。勿体もったいぶった言い方だった。


「どうだったの?」


『うん、見つかったよぉ』勿体ぶった割りに、淡泊な言い方だった。答えを遠ざけようとすることに諦めたようでもあった。『ここは閣議室、だったかな。丸いテーブルが置いてある部屋。そこに生存者がいたよぉ』


「他に生存者はいる可能性は?」


『話を聞いてみた限り、逃げ遅れた人達はここで集まって籠城してたっぽい。だから、ないんじゃないかな。それに』とそこで確認するような間があり、『一番重要な首相さんはちゃんといるよぉ。生きてる』


「そうですか。よかった」首相が生きてさえいれば他がどうでもいいということではなく、単純にリハナは人が生き残っていたことにほっと胸を撫で下ろした。これまでの潜入作戦で、結局間に合わなかった場合など幾つもあり、死亡か生存、どちらかが確定する瞬間はいつも緊張感が高まった。


「そっか」対し、クレハは相変わらずの感情の読み取れなさだった。


『んでさ』ミデアは話題を入れ替えるようにそう言った。『リハナは、これからどうするのぉ?』


「これから、ですか。そうですね。ひとまずは外で待機している自衛隊の方々と合流して――」


『あ、ごめんごめん。リハナに訊いたわけじゃないんだ』


 違うの? とリハナは首を傾げると同時に耳を器用に折り曲げた。


『どうするの、リーダー?』とミデアは改めてクレハに問い掛けた。


「…………」クレハはすぐに答えず、しばらく考え込む素振りを見せた。「リハナは、次の作戦には追いつけないと思う」


『了解』


 次の作戦? 追いつけない? その真意を訊ねようとする前に、アイーシャが、「ほら、リハナ」と近づけながら声をかけてきた。「これ、返すよ」


 差し出された手を見てみれば、ハクが搭載されたスマホだった。訳も解らないまま受け取る。「あ、はい」


 そして、気付いた。スマホの電源がシャットダウン状態になっており、ハクの姿が映っていなかった。


「あれ?」とリハナは声をあげた。「あの、アイーシャさん」


「ん?」


「スマホの電源、落としたんですか」


「ああ」アイーシャは僅かに顔を逸らして、自然を装うかのように言葉を洩らした。「一応、な。感情を読み取られるなんて言われちゃ、警戒するに越したことはねえし」


「警戒? それってどういう――――」


 そのとき、視界がぐらついた。

 足に何かが接触したと思ったときには、無理やり膝を折り曲げられ、頭に強い圧迫感があった。

 上から強く押さえられ、地面に無理やり伏せられた。


「えっ」顎が床に勢いよくぶつかったが、リハナは痛みよりも混乱のほうが強かった。「アイーシャさん……?」


 自分をそんな状態にしたのは、明らかにアイーシャだった。スマホを返すのを口実にこちらに近づき、静かに彼女を拘束した。


 立ち上がろうと身体を動かしかけたところ、「動かないほうがいいぞ」と冷徹にも聞こえる声色がかかった。直後、腕辺りに何かが触れた感触が走る。「下手に抵抗したら、この腕、折るからな」


「な、んで……」


「悪いな。ちょっとの間、眠ってもらうぜ。まあ、大丈夫だ。『頭脳ブレイン』の野郎は死んだ。『マキナ』に狙われる心配はねえ。それに、オレらが離れた後に自衛隊には連絡しておくからよ」


 そんなことを聞きたいのではない。


 この状況は一体どういうことなのか。

 何故、自分は押さえつけられているのか。

 何故、アイーシャはそんなに冷静なのか。

 これではまるで、自分はみんなの敵みたいではないか。


 自分だけが『頭脳ブレイン』の術で何かしらされてしまったのではないか。そうでもないと今の状況に理解が追いつかない。すべてが置いていかれ、身体の中が空っぽになるみたいに現実味がない。


 喉が乾くような息苦しさだけがあった。


「ごめん、リハナ」


 そう言ったのは、感情の起伏が感じられない平坦な声。

 クレハだった。


「クレハ、さん……」リハナは震える声を洩らした。「なんなんですか、これは。何かの冗談ですか? なんでアイーシャさんが、私を拘束するんですか?」


 そして、なんでそれを誰も咎めないのか。

 クレハも、そして無線越しのミデアも――――


「色々、考えはしたんだけど。やっぱり、リハナは巻き込めない。ちょっと、強引なやり方になっちゃうのは申し訳ないけど、リハナは悪くないから、それだけは覚えておいて」


「ど、どういう、ことですか……?」


「それと、ひとつだけ、伝えてほしいことがあるんだ」膝を曲げたクレハは地面と密着するリハナの頭を撫でた。その手付きは、仲間に押さえつけさせ、腕を折ると脅迫するような相手に触れる趣ではなかった。「首相を返してほしければ、神宮寺じんぐうじ玲旺れおだけをある特定の場所に連れてきてほしい」


「神宮寺、さん……?」


「その特定の場所は、後日連絡するから、それまで大人しく待っていてほしい」


 何を言っているかも解らず、一方的にそう言い渡すと、クレハは撫でていた手を離し、視線を前にし、恐らくその虚ろとも感慨ともつかない瞳の先にはリハナの行動を縛ったアイーシャがいるのだろう、無言のまま頷くと立ち上がり、遠のいていくその後ろ姿に声をかけようとしたところ、首の後ろ辺りに衝撃が走った。次第にリハナの視界は暗転していった。

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