第 35 話 不択手段


 P.M.6:15 創明大学 緊急避難用地下シェルター


「ねえハク、ヒカリエのカメラ映像をハッキングして?」


 上空から襲いかかってきた『マキナ』の大群から死に物狂いで逃げてきた避難者ひしめく地下シェルター。

 『マキナ』の襲来が確定したときには幾度も訪問者達を受け入れ、その懐の暖かさを発揮する、日本では現在最も使われている避難所だった。


 その居住区の一室において、冴山さえやま香織かおるは机に突っ伏すようにスマホを眺めていた。自分のではない。創明大学研究棟の一室を借りて研究を行っている『人工知能感情部門開発研究班』が用意したスマホだ。この端末には、通常のスマホには入っていない機能が備わっている。それが、自律型AI『ハク』だった。


【ねえ、かおるンはアタシのことなんか勘違いしてない?】そして、この自律型AIにしても、これまた通常とは常軌を逸した独自性を持ち合わせていた。【アタシ、別になんでもできる万能型人工知能とかじゃないから】


「でも、アニメとかだとこういう電子世界のキャラクターは、みんなネットの世界を行き来して個人や会社の機密情報を盗み見たりできるのが王道だったりすんだけど」


【それはくまで二次元の話。現実と架空の世界とごっちゃにしたらダメでしょ】と言う『ハク』の存在こそ、二次元の存在に思えて仕方がなかった。【アタシはそういう専門じゃないから。生物の感情を分析して、自身のパーソナルデータに加えて自己進化を促す。そういうタスクを組まれた、花も恥じらう乙女なんだから。大体、そう作ったのは人間アンタ達でしょ】


「ボクが来た時点でハクはハクだったからなあ。聞いた話によると、性別や性格は井上部長が設定したらしいけど」


【井上……】出た、と彼女は露骨に苦々しげにその名を口にした。【アタシが作った三大駄男のうちの一人だ。井上いのうえさとる。趣味だかなんだか知らないけど、アタシをこんな感じにしてくれちゃってさ】


「三大、って他は誰なの?」


【アンタんとこの彼氏と、今の総理大臣】


 なんとも言えない選抜に香織は、「あらら」と返すしかなかった。


 香織が泊まっている避難所は、当然ながら一人ひとりに個室が割り当てられているわけではない。香織の同居人は同じ研究部署の女性研究員だったが、『人工知能感情部門開発研究班』の面子は例外なく、大人しくしろと言われて素直に従うような真面目な研究生ではないため、むしろ香織のように部屋でのんびりとしているほうが珍しい部類だった。


 マーダー小隊の裏切りが発覚し、過去にそのメンバーが滞在していたことも鑑み、警戒態勢が引き上げられ、シェルターからの外出も厳しく制限されるようになった。入口やシェルター内を巡回する警察や隊員からもピリピリとした空気が伝わってくる。その剣呑さが伝播でんぱし、ただでさえ鬱屈とした避難者の空気感も重苦しさを孕み始めているような状態だった。


「今頃、リハナちゃんはクレハさん達と戦っているのかなあ」


【多分そうなんじゃないの? あの変態も言ってたでしょ。18時から作戦が開始される、って。……ねえ、これって部外者がこんなにも簡単に知ってて良い情報なわけ?】


玲旺れおは、ああは言っても凄く優しいからね。ボクがいつまでもクヨクヨしてたから特別に教えてくれたんだよ。リハナちゃんを心配する気持ちは一緒だから」


【あいつの場合、誰彼構わず言いふらしそうだけど】


「玲旺って意外に周りを見てるんだよ? ああは言っても、自分本位で暴れたりはしないし、誰かを助けたいっていう気持ちもあるし。でも、素直にそれを指摘されたくないから、あえてつっけんどんな態度を取ってるツンデレちゃんなのです。ハクに対する行動も、多分、そういうことだと思うよ」


【気持ちを理解した上でアダルトサイトを検索させようとしてたんなら余計タチ悪いっての!】


 デフォルメされたシーサーの姿をしているハクは、感情変化の差分も解りやすく表現されており、眼を三角にして憤る様は愛嬌がふんだんに含まれていて、自然と香織の笑顔を誘った。


 そのとき、外から大きな声が聞こえてきた。地上の不確かさに不安を抱くシェルター内では、なかなか元気溌剌とした声が聞こえることは殆どない。

 今の大声はそうしたポジティブとも違ったような気がしたが、肝心の言葉の内容までは聞こえなかった。


「なんだろう? 今の声」


【さあ? また怪我人が運び込まれたんじゃナイ? 最近、多いし】


 地上には『マキナ』の毒牙にかかった民間人が未だに存在しており、時折、そんな彼らを発見した救助隊がこのシェルターに運び込む場面が目撃されていた。今の大声は、救助隊員の声ではないか。


「ちょっと、いつもより違う感じもするけど」


【駆け込んでくる人がいつも同じとは限らないでショ。まあ、声が遠いからなんとも言えないけど】


「……ちょっと見てこようかな」なんとなく気になった香織は椅子から立ち上がった。朝から部屋にいたため、外出用の服装をしていなかったが、着替えるのも面倒なので上から白衣だけを羽織り、外に出た。


 居住区はホテルの個室が並んでいる廊下のような構造をしていた。ただ、絨毯や装飾はなく、照明も無機質な蛍光灯なので、怪しい研究所を彷彿とさせていた。上階の研究棟と似たような景観ではあるが、居住区を出れば一転して、ゲームコーナーやバッティングコーナーまで、アミューズメント施設のような落ち着きのないゴチャゴチャとした雰囲気に様変わりする。


【野次馬根性はよしたほうがいいと思うけどネェ】外に飛び出してからも右手に握っているスマホから、ハクの声が発せられる。


「野次馬だなんて失敬だなあ。ボクは単に、状況を確かめようとしてるだけなんだから」


【それとも、やっぱりあの変態がいないと不安なの?】


 ハクの言葉に虚を突かれたように、声のしたほうに向かっていた香織の歩みが止まる。


「……やっぱりバレてた?」


【当然でしょ。コレが解んなかったらアタシは廃スマホ確定になっちゃうよ。……いや、ホントにいつか廃棄処分とかしないでよ? 例えで言っただけだからね!】


「解ってるわかってる。そもそも、ボクにそんな権限ないんだから」自分の顔がハクに見えるところまでスマホを動かし、おちゃらけるように手をヒラヒラさせる香織。「流石はハクだねえ。ボク、虚勢を張ってたつもりだったんだけど」


【かおるンは不安になるとき、寧ろ元気ぶろうとするから丸分かりだよ。変に高いテンションで話をするんだから。突拍子もないことも言うし】


「そんなこと言ったっけ?」


【監視カメラのハッキングを頼むことが突拍子もないことじゃなかったら何になるっていうのよ】


「正論」テヘ、と香織は舌を出してあざといポーズを取った。


【不安の種は、やっぱりリハナっちのこと?】


「うん。心配ではないんだけどね。ずっと考えてたんだ。どうして、リハナちゃんとあの人達が戦わないといけないんだろう、って」


 神宮寺じんぐうじから事のあらましは粗方あらかた聞いていた香織は、リハナが特攻でクレハ達を相手取ることを知っていた。それは、作戦や責務ではない。マーダー小隊の裏切りの責任を取ろうなどということでもない。わば、彼女の我儘わがままだった。


「俺が思うに、アイツは全部を自分で終わらせようとしているんだよ。他方の力を借りず、身内の問題で事を収めようとしている。そうすることでクレハ達の罪を少しでも軽くしようとしてるんじゃねえかな」


 リハナはクレハ達の減刑を計っている。そのために戦おうとしているのだ。


 無茶なことこの上ない。


 しかし、香織が懸念を抱いているのはそのことではない。


「あの人達は、互いを互いに想い合っている。それが解っているのに戦わないといけないなんて、おかしいよ。どうにか、話し合うことで解決できなかったのかなあ」


【謝って済めば警察はいらないでしょ。アタシもあの作戦後の三人には会ったことないからなんとも言えないけどサ、何十年も務めてきた仕事から反抗するってのはそれなりに覚悟がいることだし。引き戻せない領域に踏み込んじゃったのは、昨日今日の話ではない、ってことなんじゃナイ?】


「だからって、命の取り合いまで」


【それも争いとは無縁な日本で育ったかおるンだから言えることだよ】ハクはやんわりとたしなめるように言った。【まあ、実際に殺し合いになるようなことはないと思うよ。もしも、何かあれば、我らが『禁忌の人物史アカシックエラー』がなんとかしてくれるでショ。あの変態も、一応ついて行ってるんでしょ?】


「うん。一応だけどね」


 クレハが指定してきた渋谷ヒカリエに出動したのはリハナや『派遣ビーファ』の他に、神宮寺も数に含まれていた。しかし、変わらず戦闘の許可は降りていない。首相に危害が及ばないようにするための保険として連れていく他なかったのだ。


【法律で禁止されているとか、条約がどうとか言うけど、アイツが暴れ始めたら誰も止められないのが結局のところなんだし、本当に戻れないトコまでいったら有無を言わさず止めに入ってくれるでショ。違反行動をしたからって、アイツを罰する方法なんて、あってないようなもんだし】


 居住区の出入り口を目指して歩く香織。声のしたほうは確実に居住区の外からだった。


「それにしても、さっきからおかしいなあ」


【何が?】


「避難してる人達がいない」


 外出してから数分も経っていない時分ではあるが、香織は歩いてもあるいても通路で避難者の姿を見かけないことに不審に思った。


「しかも、酷く静かだ」


【静かなのは元からでしょ】


「そうじゃなくて、なんというか……本当に誰もいなくなったみたいな、風が遮蔽物なしに通り過ぎていくそんな不気味さが……」


 そのときだった。


 香織の前方から轟音が響いた。同時に強風がぶわっと襲いかかり、彼女は見えない腕に押されるように後退りした。白衣の裾が強くはためき、後ろに大きく踊る。


 音の発生地点は砂埃に覆われていた。床に何かが幾つか転がってきた。人の頭ぐらいの大きさもあるそれが、四方を囲むこのシェルターの建材であることに気付くのに時間がかかった。


 香織は目の前の壁が突然破壊されたことに、暫し呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


【かおるン逃げて――――!!!】


 ただ、自身の手元から、ハクの合成音声らしからぬ必死が巻き付いた声が聞こえてきたが、反応に出遅れ、脳が理解するより先に、出来上がった歪な壁の穴から人影が飛び出し、香織の身体はその人影から伸びた手に掴まれ宙に浮き上がる結果となった。


「うっ……!」瞬時に渡る息苦しさ。首元に圧迫感がまとわりついた。


「――ミデアの言ってた魔力マナを追っかけてみたところ、お前がいた。ということは、お前が冴山香織で間違いないんだろうな」


 天井やその付近の壁辺りをふらふらと往復する視線の中、聞こえてくるのはぶっきらぼうな女性の声。


 香織にはその声に聞き覚えがあった。


「アイーシャ、さん……」


「お、お前はオレのことを知っているんだな。ということは、合ってるわけか。けど、悪いな。オレはお前のことはあんま覚えちゃいねえんだ。確か、『首相官邸奪還作戦』の会議ンときには一緒にいたよな」


 首から上が動かせない状態で、どうにか視線だけでも下にし、自分を掴み上げている襲撃者の正体を確かめると、やはりそこには、頭で予想していた通り、マーダー小隊の一員であるアイーシャ・アードロイドの姿があった。


「どうして、ここに……?」


「それは、どうやってここに来たのか、なのか。それとも、なんでお前を捜していたのか、なのか。どっちを訊こうとしているんだ?」


「り……」

「り?」


「リハナちゃんは……どうしたの……?」


 その質問を聞いたアイーシャは呆けたように眼を見開いた。そして、少し寂しげな笑みを浮かべ、伏し目がちに口を開いた。「このタイミングでアイツの名前を出すなんて、お前も結構性格悪いな」


「…………?」


「クレハが電話でどういうやり取りをしていたかは聞いてる。けど、オレは今回の行動に後悔はしてねえよ。それが、アイツを傷付ける結果になったとしても」


 ズレた回答だった。香織は、ヒカリエに向かったリハナの所在を確かめるつもりで先の言葉を口にしたのだが、答えとして出たのはそれ以前のリハナとの接触だったため、香織の頭にはひとつの仮説が浮上した。


 ――この人は別行動でボクのところに来てる。

 ――別に、リハナちゃんがやられたとか、そういうわけじゃないんだ。


 ひとまずそのことに安堵し、次の問題解決に彼女は移行した。

 すなわち、何故なにゆえに彼女は単独で自分の元を訪ねてきたのか。


 ――アイーシャさんはここにいるとして、他の二人はどこにいるんだろう。

 ――同じようにシェルター内に?

 ――それとも、ヒカリエで待機?

 ――約束の時間に来たのが、玲旺じゃなくて、リハナちゃんだということに気付いてないということは、ヒカリエ待機組は無線で連絡する暇もないということ?


 色々な可能性が思い浮かび、頭の中で様々な仮説を検証する。身体は未だに地に足がつかず、首を締められる寸前のような状態でありながら。こういうとき、冷静に思考がまわるのは、自分が体育会系の出であることを痛感する。


 指先に意識を向けると、ハクが搭載されたスマホを持っていないことに気付いた。掴み上げられたときに落としてしまったのだろう。


 ここから自分が反撃に転じるのは現実的ではない、と判じることができた。


 なので、彼女は率直に言葉をぶつけるしか選択肢がなかった。


「……ボクを捜してた理由は」


「あ?」


「玲旺の弱味を握るため……とか?」


 それを聞くと、今度はアイーシャの口が苦々しげに歪んだ。「よく解ったな」


「状況を考えれば、解ること……だよ……」


「そうだ。オレは、お前を『禁忌の人物史アカシックエラー』と戦うときの盾として使うために、ここに来たんだよ」アイーシャは香織の推測を認めた。「お前の野郎の幼馴染だってことは、ミデアから聞いた。リハナの見舞いに行ってるときに偶々、らしいな。それを聞いて、オレらは考えたんだよ。『禁忌の人物史アカシックエラー』は強い。もちろん、勝つ気ではいるが、勝率は限りなく低い。なら、その勝率を少しでも上げるための手段は取っとくべきだってな」


「だから、玲旺がいない今のタイミングで、ボクをさらいに来た、というわけだ……」


「ああ、そうだよ」肯定するアイーシャはどこか億劫としていた。苦虫を噛み潰したような表情で、投げやりな言い方をした。「大切な人であるお前に襲いかかれば、『禁忌の人物史アカシックエラー』は他の全部を投げ打ってでも助けに来るかもしれねえ。そうなったら、オレらは作戦決行前に終わってた。だから、お前に手を出せるのは、奴がヒカリエに向かっている今しかなかったんだ」


「もしも……」香織は少しでも情報を戴こうと、宙吊りの状態で必死に言葉を捻り出した。「ヒカリエに誰もいなかったら、玲旺はすぐに戻ってくるはず……。だから、ヒカリエにも何人が人を残してるんだよね」


「どっちのほうが勝率が高いか、最後まで迷いはしたがな」と言いながら、アイーシャは視線を後ろにやった。「オレら三人で挑むか、拉致るまで一人で時間稼ぎするか。結局、後者を選んだ。どっちが正しいか、それは今もわからん」


 そこで、香織は全身で纏っていた浮遊感が失くなっていくのを感じた。足の裏に地面を着いた。首元からアイーシャの腕が引いていく。


 いきなり自由の身になった香織は、息苦しさから解放された安堵よりも当惑が勝った。


「ったく、ミデアの奴、全然効いてねえじゃねえか。やっぱ、魔法はアテになんねえな」と言うアイーシャは正面をクルリと反対にまわし、香織に背中を向けた。「どっか適当に、そこらへんの部屋に入っとけ。勝手に逃げんじゃねえぞ。逃げたところで、オレに速攻捕まるだけなんだからな」


 ドタドタ、と忙しない足音が聞こえてきたのはその直後だった。


 拳を構えるアイーシャの身体を避けて、その奥の光景に眼をやってみれば、騒ぎを聞きつけたのか、自衛隊の制服を着た三人の男が通路の先で大きな銃を構えていた。


 考えてみれば、単純なことだった。ここは民間人を保護するシェルターの中。公共機関が定期的に巡回しており、出入り口にも見張りが何人も立っている。そんな中で、派手に侵入してきたアイーシャを、彼らが無視するわけもない。


 シェルターを守る守衛が動けば、当然、そこに避難してきた民間人達も新たな動きを強いられる。アイーシャを見つける捜索隊と、民間人を危険な場所から遠ざける案内役に分かれて、彼らはこのシェルター内を駆け回っていたのだろう。


 そう考えてみれば、先ほどののっぴきならない声の正体は、民間人に案内する、「私達の指示にしたがってください!」の声だったのかもしれない。


 ――居住区の人達も先に避難しちゃったのかな?


 妙にひと気がなかったのはそのためだったのか、と納得する。元から、居住区を彷徨く人が少なかったのもあるのだろうが、そんな場所に狙われている自分が取り残されていたことに、香織は無関係な人を巻き込まずに済むと安堵した。


 そして、アイーシャの前に現れたあの三人の自衛官は、明らかに民間人を保護する目的の編隊ではなかった。


「大人しく投降しなさい!」と威勢よく言うものの、その言い方は前のめりになっている印象があった。「投降しなければ、撃つぞ!」


「撃つのかよ」対し、アイーシャは余裕綽々としていた。「ほら、よく見ろよ。後ろに民間人がいるぞ。今ここで撃てば、流れ弾がこいつに当たってもおかしくねえ。それでも撃つのか?」


「っ…………!」


「まあ、待てよ。別に、こいつを人質にしてどうこうするつもりはねえんだ。とりあえず、こいつを適当な部屋に縛り付けておくから、そこからじっくりと戦うことにしようや」


 親切なのかそうじゃないのか解らない発言を口にするアイーシャ。


 自衛隊員の彼ら三人は、遠目の香織から見ても緊張している様子だった。顔が強張り、アイーシャの一挙手一投足に神経質なほどの注意力を注いでいるようだったが、それはかえって慎重に扱わなければならない不発弾のような不穏さが漂っていた。

 経験の浅さからくる思考の乱れか、もしくは異世界人という未知に対する恐怖か、そのどちらでもあるのか。とにかく、彼らに冷静な判断ができるように思えず、いつ引き金がひかれてもおかしくない一触即発なムードに香織の鼓動も高まるようだった。


 香織は落ちていた『ハク』の入ったスマホを拾うと、とりあえず逃げるべきだと自身の行動を決め打ちし、アイーシャと、その彼女に向けられた銃口から遠ざかろうと身を翻そうとした。


 しかし、その瞬間――三つの爆音が風を振り切るように迅速に広がった。


「バカが」ポツリと確かに呟かれたその言葉が、香織に届く前に、アイーシャは既に行動を起こしていた。


 あまりにも呆気ない結果だった。

 一瞬の決着。

 香織は銃声が聞こえたと同時に反射的に耳を塞いで身体を丸めてしまったが、彼女がその体勢になる前にアイーシャは地面を蹴り、三人の隊員へ一直線に突撃を仕掛けた。


 魔力マナが全身に伝う速度に優れている彼女の身体は、放たれた銃弾の嵐をものともせず、寧ろ流れ弾が香織に当たらないように己の肉体をバリケードのように使い、確実に接近していった。

 そして、自慢の手足を武器のように振りかぶり、闇雲に撃ち続ける小心者達の意識を確実に奪っていく。

 頭部を殴り、腹を蹴り、防弾チョッキやヘルメットをしていなければそのまま命が失くなってもおかしくない威力だった。


 香織が不思議に思い、丸めていた身体を起こし、アイーシャ達のいる方向に顔を向けると、いつの間にか三人の隊員が廊下に転がっていた。

 アイーシャは三人の身体を踏みつけ、冷めた目つきで地に伏す彼らを見下ろしていた。


 ――逃げる暇もなかった……!


 一瞬すぎる決着に、香織は四人がどういった形で交戦したかも解らなかった。


 ただ、多勢に無勢のあの状況で毅然と佇んでいるアイーシャの強さだけは伝わった。


「オイ」


「は、はい!」アイーシャの声に呼ばれ、香織は心臓が飛び上がりそうになった。


「怪我はねえみてえだな」流れ弾が当たっていないか確認しているのは、優しさからくる気遣いなのか、せっかくの人質を失いたくないからなのか、それとも己の戦闘で無関係の人に傷を負わすということ自体が主義に反するのかもしれない。


 ――いずれにしても、悪い人ではないんだろうけど。


「これで解っただろ」彼女は言った。「そんじょそこらの武装兵じゃあオレには敵わねえ。お前に逃げ場はねえ、ってわけだ。解ったら、ここは大人しくオレに拐われてくれや」


「……命までは取らないんだね」


「あぁ?」


「あの人達。気絶させるだけで殺しまではしないんだね」香織は注意深く言葉を吐き出した。


 ああ、と彼女は納得するように息を洩らした。「そこまでやっても意味がねえからな。オレらが殺すのは一人だけでいい」


「それって、玲旺のこと?」


「そうだ。そのためにも、お前には人質になってもらわなくちゃ困る」アイーシャの口振りは、まるで香織の助けなくては問題が解決しないと言わんばかりの、懇願しているような趣すらあった。「まあ、お前は選択する権利はないんだけどな。抵抗すれば、シェルター内の民間人にも迷惑がかかる。それでもいいなら、逃げてくれてもいいが」


 もっとも、彼女が侵入したことによって、居住区の外は既にパニック状態にあることは疑いの余地もない。

 しかし、香織には、『マキナ』に襲われてここまで流れてきた彼らを巻き込む可能性のある行動が選択できないのも事実。

 例え逃げ仰せたとしても、彼女を倒しきるだけの戦力がこの建物には揃っていない。


「あの耳聡いリハナが来ないところを見ると、あいつもヒカリエに向かったんだな。覚醒したあいつと戦うとなれば少し解らなかったが……まあ、居なかったのは幸運だったな」


「居たとしても、戦わせるわけがないよ。リハナちゃんを君達と」もっとも、今頃ヒカリエでは自分が想像もしたくない戦闘が繰り広げられているかもしれない。それでも、少なくとも自分の手の届く範囲では、そんな悲劇は起こさせない、と彼女は強く思った。


「……意外だな」


「え?」


「もっと、怯えたり、気が動転して助けを呼ぶものかと思っていたんだが。思ったより冷静だな」


 感心するようなアイーシャの言葉に、香織は柄にもなく苦笑してしまう。「怖くないからね、別に」


「オレらはお前らの世界を侵略しに来た異世界人なんだぞ?」


「でも、殺す気はないんでしょ? さっきの言葉を表面通りに受け取れば、殺すつもりなのは玲旺だけで、人質のボクですら生かすつもりだ。怖がる要素はないよ」


「その、殺そうとしてる一人が、お前にとって大切な人間でもか?」


「大丈夫。玲旺は負けないから」香織は一切の淀みなく言った。


「……おもしれえ」アイーシャは目を細めて言った。「そこまで断言するんだったら、お前も直接その眼で見て、あいつの勝利を頑なに信じてやるんだな」


 アイーシャは踏み台にしていた隊員の身体からぴょんと飛び降りた。そのときに衝撃が走ったのか、三人のうちの誰かから呻き声が発せられたが、眼を覚ますまでには至らなかった。


 そして、香織が立つ位置へと歩いて近付く。どうせ、逃げ出したところで地球人のスピードには簡単に追い付く、そう言わんばかりの堂々とした歩み。実際、香織もその結果は検証するまでもなく解り切っているので、無駄な抵抗をする気になれなかった。


 頼りになる幼馴染みもおらず、ライバルとなったばかりの友人もいない。彼女を止められそうな人物など、この場には一人とていないのだから。


 そう思ったそのとき――――


「ガッ……!?」アイーシャの顔が驚愕に染まる。


 そして、


 彼女が香織に近付くために歩みを進めていたところ――ひとつの個室を通り過ぎようとしたタイミングで、その個室の扉が真横から彼女に襲いかかった。


 扉はくの字に折れ曲がっており、その出っ張りの部分が彼女の側面を突いたような形だ。歪み方からして、部屋側から無理やり押し開けたとしか思えない。


 一体、誰が?


 香織は、はっとその吹っ飛んできた扉が付いていた部屋の中を覗き込もうとした。


 しかし、わざわざ確認せずとも、奇襲を仕掛けた犯人は部屋から自分で出てきた。


「――アァ、なんだよ。ヤケに騒がしいじゃねえかよ」


 部屋から出てきた人物は、苛立たしげに言葉を吐きながら、首に手を当て、調子を確かめるようにコキコキと間接を鳴らした。


「いい夢みてたんだけどな」はた野原のはら虔治けんじの頭頂部からぴょこっと寝癖が飛び出していた。

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