第 40 話 天賦の五感


「いつまで逃げるつもりなのぉ? もう疲れてきてるんじゃなーい?」


 人の気配のない通路を全速力で走り抜ける香織かおるに、ミデアはゆっくりとした歩調で近付きながらも己の持つ拳銃の照準を正確に定めようとした。


 距離はおよそ15メートルほどだろうか。デパートやアミューズメントパークなどの大型施設のバックヤードを想起させる長い通路だった。余計なものを置かず、遮蔽物のないこの空間では拳銃のような遠距離武器は有利に働き、ひらひらと舞う白衣の背中姿が直線上に重なるようだった。


 ミデアは特別射撃に自信があるわけではなかったが、それでも日本政府から支給された一品の中でも高い頻度で使うため、動く『マキナ』の瞳を狙い撃ちできるぐらいには腕を磨いていた。


 左右の壁には扉がなく、真っ直ぐ逃げるしかない彼女はまさに格好の的だった。


 とはいえ、下手に胴体を撃ってしまえば致命傷になりかねず、人質として役立てることができない。それでは本末転倒なのだ。


 ――狙うべきは、逃げる一手を潰せる足……!


 二人だけの鬼ごっこが始まったとき、ミデアにとって誤算だったのは、冴山さえやま香織の脚力に他ならない。

 予想以上に走るスピードが速く、クレハやアイーシャよりも身体能力が低いミデアでは追い付くことが難しかった。


 なので、最後の手段として拳銃を使わざるを得なかった。当初は脅しにしか使わない予定だったものが、妙な不意で構えることになり、しかも忙しく動きまわる足を撃たなければならないという難易度の上昇に、ミデアは少し億劫とした気分に落ちていた。


 ――みんなからも言われてたし、あんま傷つけたくはないんだけどねぇ。

 ――ごめんよぉ。


 照準のブレが安定し、内側にちゃんと標的が定まっていることを確認してから、動く物体の進行具合も視野に入れて――マニュアルに書かれた手順を正しく踏んでいくような要領で、ミデアは迷いもなく引き金をひいた。


 しかし、その直前、まさに弾丸が発射されるまでもう一押しといったところで、香織の向かう方向に扉が現れ、彼女は滑り込むようにその扉の奥へ突っ込んでしまった。


 ミデアは内心で舌打ちする。「まあいいか。ここが通路の奥ってことは、この部屋は逃げ場のない袋小路ってことだろうしねぇ」


 好奇心旺盛な犬と同じ形の耳を持つ見てくれとは正反対に、彼女はこの鬼ごっこを始めてから一度も元気溌剌な一面を見せず、淡々と、標的の追跡を如何に効率よく行えるかを計算する。


 頑丈さをこれでもかと主張するスチールドアだった。コの形をした取っ手をスライドすることによって開く仕組みのらぐいで、この地下シェルターではあまり見かけない物々しい雰囲気を醸し出していた。


「魔王でも待っていたりして?」


 有り得るはずのない軽口を吐きながら、仕事に身が入っていないような様子のミデアは、見た目の仰々しさとは裏腹に風船を掴むぐらいの軽さで香織が入っていった扉を開けた。


 一瞬だけ見えた扉の先は、何かを保管している倉庫の光景だったように思う。

 天井の高い広い空間。そこに自動車ぐらいのコンテナが並んでいた。その壁面に文字が書かれていたような気もしたが、それを認識するだけのいとまもなかった。


 部屋に踏み込んだその刹那――追いかけられていたはずの少女が、勢いよく足を突き出して、ミデアを強襲したからだ。


 扉の枠と壁によって死角となった完璧な不意打ち。ミデアは躱す余裕もなく、初めて入る部屋の中で、間抜けにも転がりまわるように吹き飛ばされてしまった。


 それでも、身体が反射的に受け身の姿勢を取り、大きなダメージを負うことはなかった。


「うお。ビックリしたなぁ」そう言うミデアに表情の変化はない。


 扉の近くに立てられた柱を掴み、地面を蹴り上げるように跳び上がった香織は、鉄棒の大車輪を身体を横にした状態でやるようなイメージで回転し、その遠心力も利用して打ち出した。

 見事に命中させた後は、空中でバック転するように美しく華やかに着地する香織。ヒラヒラと舞う白衣の裾が人並み外れたその所業により躍動感を与えていた。


「ずっと思ってたんだけど、香織ちゃんってさぁ」香織の動きの一部始終を眼で追っていたミデアは、距離を計りながら言葉を紡ぎ出した。「私も追いつけない全速力といい、絶対に普通の科学者じゃないでしょぉ。私の知ってる科学者って、みーんな一分も走ればはあはあ言ってるよぉ?」


「ボクはこれでも、小さい頃から新体操でブイブイ言わせてたからね。県大会ではエースとしてチームを優勝まで導いたことだってあるんだよ」


「新体操、って何かの準備運動のことぉ?」わざわざ説明をしたにもかかわらず、ミデアはいまいちピンとこなかったようだ。


 アーチェリー選手の母親と政治家の父親の間で生まれた香織の進む道は、既に、小学生の時代からひとつの道標に向かって伸びていた。

 性格の趣向から、物心つく前から身体を動かすことを好み、ストレッチや鍛錬を積むことなく身体はゴムのように柔らかかった。スポーツをするために生まれてきた肉体。そう称されるほどに、彼女は幼少期から運動神経抜群だった。サッカーをやれば男子よりも速く精密にボールを捌き、テニスや卓球などの道具を使う類にしても扱いにすぐ慣れてものにする呑み込みの速さがあった。

 天才的な肉体と技量。両親の能力の高さを幾らか引き継いだのもあるだろうが、だからって彼女もすべてが最初から出来ていたわけではなく、地道な練習の累積もその確かな才能に拍車をかけていた。

 他の物事には眼もくれず、新体操を見つけたときも、自分はこの世界を生涯堪能することになるのだろう、と信じて疑わなかった。


 神宮寺じんぐうじ玲旺れおという人間に会うまでは――――


 衝撃的と言わざるを得ない。

 異世界という強大な壁。彼女の希少な才能がちっぽけに思えてくるほどの、魔法という圧倒的な概念。それらを易易やすやすと払い除ける彼の姿を目撃した彼女を襲ったのは、まさに心臓を矢で撃ち抜かれるあの感覚に近かった。


 彼に興味を抱き、好意を抱き、知りたいという欲求を叶えるために彼女はレバーを引き、運命という名の転轍機を作動させた。眩い栄光に満ち溢れているであろう最適な未来を投げ捨てて、勝手の異なる、自分の幅が利かない分野にまで触れて――――

 これまで頑張ってこなかった勉強に漬ける日々。幸いなのは、そこに彼女が楽しさを見出したことだろう。『人工知能感情部門研究班』に所属したのも酔狂があったからではなく、自らの意思で選び、そして選ばれるに足る実力を育ててきた。


 難易度の高い大学を出て、非常勤講師という立場を任せられるぐらいには理系に身をやつしてきたものの、根っこの部分は変わらず、彼女は暇があれば今も身体を鍛えていた。そうしていたほうが思考の巡りがよくなる場合もあるため、殆ど毎日のように筋トレに勤しみ、身体の状態だけで言えば、新体操で活躍していたあの頃とあまり大差はなかった。


 香織は跳び上がるように右足を突き出した。戦闘経験は皆無に等しく、その姿勢は隙だらけで素人丸出しではあるものの、しっかりとした体幹は彼女のフォームに対する不安を一切与えなかった。


 ――さっきの不意打ちで銃を落とすことは成功した。


 飛び蹴りを喰らったミデアが、吹き飛ばされるのを同時に持っていた拳銃を手放してしまった光景を頭でリピートしながら、香織は戦況の分析をしていた。


 ――二つ目があったとしても、この距離感じゃあ出す暇もないでしょ。


 分析というよりは予想に近い結論だったが、事実として、まさかの反撃に虚を突かれたミデアは手ぶらでどうすることもできなかった。

 迫りくる靴裏に対して、彼女が両腕を前に出したのも、追い詰められた末の苦し紛れとしか思えなかった。


 香織には、自分の攻撃が『獣人デュミオン』にどれだけの痛手を与えられるか自信はなかった。しかし、先ほどの不意打ちが成功したこともあり、ミデアの身体能力が自身のイメージする『獣人デュミオン』の強さを下回っていると判じ、こんな技術力の伴わない攻撃でもまともに受ければ無傷に済まないと思い打ち出すことを決心した。当たりさえすれば、確実にダメージは稼げる、と。


 しかし、その時点で彼女の認識は非常に甘いと言えるだろう。幾ら奇襲に成功したからといって、相手にしているのは戦闘のエキスパート。そう易易と何度も当たってくれるはずもない。


 何かの構えを取っているようにも見えるミデアの右手。その甲に足刀がぶつかった瞬間だった。


 香織の天地がひっくり返ったかのような錯覚を受けた。

 実際は、己の身体がぐるりとまわって、それについていくかのように視界が回転したのだということは、背中に伝わる落下の衝撃で理解した。


 何が起こったのか解らなかった。

 頭が疑問で溢れる。

 気付けば、自分は背中から地面に倒れており、倉庫の高い天井が遠くにある物寂しい光景が視界内に収まっていた。


「香織ちゃんさぁ」その隅っこのほうから、ミデアの声が飛んでくる。「『縁』とか『癒』とか、フーバ皇国のことには詳しそうだったけど、どうやら私達の世界のことはそこまでみたいだねぇ」


「どういうこと?」返事をしながら、香織はその身を起き上がらせた。


「今のも何が起こったのか解ってない様子だしぃ?」


「もしかして、魔法?」さらにハテナが生まれた。『ヘルミナス王国』には魔法は存在しないはず。魔力マナの仕組みは同じはずだが、その用途は『フーバ皇国』のそれとは根幹から異なる、という話を研究仲間から聞いたことがあった。


「いやいや、魔法なんて。そんな大層なものじゃないよぉ? ただ、知っての通り、『獣人デュミオン』は自身の身体に巡る魔力マナで強化された身体能力を活かした戦い方をするでしょ。その活かし方、ってのも色々あってぇ。剣や斧みたいな武器を使ったりさぁ」


 他の種族より優れた肉体を持つ『獣人デュミオン』。それを活かそうとすれば、必然と接近戦が多くなる。ならば、接近戦において優位に立つための戦略や工夫は後を絶たずして練られなければならない。クレハの我流やキルドリエ流もその研鑽のひとつであり、勝利を掴むために剣術を鍛えるのは自然な選択と言えよう。


「ただ、これについては強くなる人とならない人の差が大きいんだよねぇ。武器に自身の魔力マナを巡らせる、という技術力自体が限られた人にしかできない難行だから。結局、『獣人デュミオン』の大半を占めるのは、殴る蹴るといった格闘戦、武術こそが戦いの真髄だと言われてる。アイーシャみたいなのがフォーマットだと思ってもらえれば解りやすいと思うよぉ」


「脳筋が多いってこと?」


「そうとも言えるねぇ」馬鹿にしているとも捉えられる香織の発言に、ミデアは変に角を立てることなく頷いてみせた。「ただね、これもまた、出来ない人がいる。生まれ持って、魔力マナの残量に恵まれなかった人達だよ。この人達は、アイーシャみたいに戦おうとしたら、ちょっと他の人達よりも見劣りしちゃう。筆頭としては、昔のリハナがそうだねぇ」


 といっても、香織は、昔のリハナが少ない魔力マナが原因でどんな苦汁をなめてきたのかを知らないので、その例えを出されたところでピンとこなかったところはあった。


「後は、私なんかもそうだねぇ」ミデアは、本人にとって辛い過去であるはずの事を、躊躇うことなく告げた。「私も、他の『獣人デュミオン』より魔力マナに自信なかったからさぁ。普通の武術や剣術を習っても結果は出なかったなぁ」懐かしそうに眼を細める姿は、その忌々しい過去があるからこそ、今の自分があるということを受け入れているようでもあった。


「普通の、武術?」香織は何気なく出てきた単語の一端を繰り返した。


「お、察しがいいねぇ」と笑う。「その通り。私が選んだ道は、普通の武術じゃない。魔力マナの大小で差が出てしまう道を進んでも、ただ他の人達に置いていかれるだけだからねぇ」まあ、それを知りながらも愚直に突き進むことを選んだリハナを貶すつもりじゃないけど、と言う彼女からは同情は感じられず、むしろ羨むような感情が隠されているようにも感じられた。「とにかくさぁ、私は最小限の魔力マナで済むような技術で強くなることを選んだわけ。その技の一端が、さっき見せたやつだよ」


 地球の格闘術に当てはめるのならば、それは合気道に近かった。魔力マナを通した拳で殴るのではなく、剣で繊細な一撃を加えるわけでもなく、攻めよりも受けに突出したひとつの完成形。


 こちらに向かってくる強大な力を、逆に利用し、力の方向や物理的法則も計算に入れ、少ない魔力マナのみで急所を突くことで相手を陥れる、『獣人デュミオン』の価値観では卑劣とさえ言われた柔術。


「ギルドリエ流柔式五の型『舞空キールブレスト』。魔力マナの内包量に恵まれなかったギルドリエ家が編み出した、弱者故に成り立つ武術。そのひとつだよぉ」


「柔術……!」


「まあ、『マキナ』みたいな人型の質量とは差がある相手には使いづらいんだけどねぇ。だからこそ、銃を使ってるわけだしぃ。正直、香織ちゃんが逃げるんじゃなくて立ち向かうことを選んでくれたのは助かったよぉ? こっちもやっと、本腰入れて捕らえることができるってもんよぉ」


 彼女も地球こちらに来てからこの技を使ったのは数えるほどしかなく、同じ『派遣ビーファ』の『獣人デュミオン』でも、ミデアがギルドリエ流の使い手だということはマーダー小隊の面々しか知らないぐらいだった。


 そんな珍しい一面の目撃者となった香織。彼女が次の行動を取るまで時間はかからなかった。


 逃げることだった。


「ありゃりゃ」ようやくホームグラウンドに立てると期待したミデアは、拍子抜けの思いだった。「でも、ただの徒手空拳が利かないんじゃあ、まあそうなるよねぇ」


 しかし、あまり残念に思った様子はなく、ミデアは不意打ちの際に手放してしまった拳銃をゆっくりと首をまわして見つけると、悠々とした動きでそれを拾い上げる。


 その間も走り出した香織は日々の鍛錬で積み上げた速度を用いて、この広い倉庫の奥へと入り込んでいく。


 香織が逃げ込むのに選んだこの場所は、避難者に支給するための非常食や防災用品を保管する目的で作られた備蓄倉庫だった。地下シェルターに繋がっているはいるものの、居住区は娯楽施設とは完全に乖離した区画で、一般の人々の立ち入りを禁止しているのだが、だからこそ、彼女はここなら他の人を巻き込む心配がない、と迷わず向かうことができたのだろう。

 内部には会社のロゴのようなマークの入ったコンテナが、フォークリフトが通れるぐらいの隙間を空けて並んでおり、ざっと見通すだけでも三つの色で分けられているような感じだった。恐らく、防災用品の種類や各食品の冷蔵の是非によって保管環境の異なる物品を、コンテナの色で分けて区別しているのだろうが、中にはダンボール箱に入った缶詰食品などが壁際のパレットに積まれていたりもするので、どういった方針でまとめられているのかミデアには判然としなかった。

 室温は低温気味に保たれているようで、本格的な寒波なんかよりはずっとマシではあるものの、薄着で居座れば風邪を引きそうな肌寒い温度ではあった。


 ――この入り組んだ部屋の中なら逃げ遂せると判断したのか。それとも……、


「もしも忘れてるなら教えておくけどさぁ!」この部屋のどこかにいる香織に伝えようと、ミデアは声を張り上げた。「私は『縁』の魔法で、君の居場所は手に取るように解ってるんだよぉ? そんな中で隠れんぼをしても、君が不利になるだけじゃないの?」


 返事はなし。柄にもなく大声を出してしまったミデアは、意味を成さなかった伝達に自虐的な苦笑を浮かべた。


「まあいいけどさぁ」拳銃をクルクルとまわしながら、今度は独り言のように呟いた。「だからって、手加減するつもりもないし」


 そして、ミデアは改めて『縁』の対象を追跡するために意識を集中させた。少しでも魔力マナの精錬を怠れば、すぐに切れてしまうような繊細で厄介な仕組みではあるが、これだけ近くに対象がいれば、嫌でも魔力マナの気配を辿ることができる。


 索敵した方角、距離、そして対象の動きを見通した終えた後は、如何にして動けば獲物を捕らえることができるかを算出する。


 それも終えると、ミデアは走るのではなく歩き出した。

 必死に逃げ惑うアリを、走って追いかける必要はないと言わんばかりに。


「そうだ」と思いついたことを口走るその姿は、悠々自適とした開放感に満ちていた。「『獣人デュミオン』の戦い方を講釈垂れたついでに、せっかくだからもうひとつ、私達のことについて教えてあげよう」


 頼まれてもいないのに、余裕を持った心がそうさせるのか、ミデアは拳銃を片手にトコトコと歩きながら、ペラペラと自分達の『種族』についての授業を始め出した。


「私達の住む『ヘルミナス王国』にはさぁ、魔法がないんだよねぇ。『癒』や『縁』はもちろんのこと、地球に生まれる『突然変異体』が持つような類の魔法も、ね」


 照明はついておらず、部屋の中はかろうじて奥行きを把握できる薄暗さに満ちみちていた。電気のスイッチは入り口の真横に取り付けられていたのだが、香織には押す余裕などなかったし、『獣人デュミオン』であるミデアにはこの程度の暗闇は問題なかった。


「使えるのは己の肉体とそれを最大限に活かすための道具。その道具といったって、別に武器の強弱がハッキリしているわけじゃないよぉ? 飽くまで強度とかは、持ち主の魔力マナに左右されるものだからさぁ」


 『獣人デュミオン』にとっての道具とは、その個人にとっての扱いやすさとか性に合っているとか、気分の問題に近い。クレハのように特注の剣を持っているほうが珍しかった。


「剣術も格闘術も、大概は生まれる家系に伝わる流派に準じるんだけど、中には例外もあるんだよね、これが。といっても、私みたいにギルドリエ家の柔術を習うのとは別の傾向だよぉ? 私の場合は庶民の出だから、習得難易度も低かったギルドリエ流を選んだのであって、私が言いたいことは、そういった確固たる伝統的な技が伝わりながらもを選んだ人達のことさ」


 どれだけ喋っても、まるで壁に反射するようにミデアの声が響くだけ。なんの応答も返ってこない現状は、精神を狂わせるかのような物寂しさが漫然と漂っていた。


「『天賦の五感ヱトスティ』」しかし、構わずミデアは言葉を紡ぎ続ける。「昔の言い方をするなら、魂の個性。銘々の『獣人デュミオン』には何かしら秀でた身体的特徴が備わっている、という昔の考えなんだけど――要は、人より耳がいい、声が大きい、とかそういうことだねぇ」


 リハナの、普通の『獣人デュミオン』よりも秀でた知覚能力。とりわけ、屋内の『マキナ』の配置を特定するまでに至る集音力の高い耳は、その『天賦の五感ヱトスティ』に含まれる。通常の五感では感じ取ることのできない音、匂い、気配。


 それもまた、ある意味では才能と呼べるのかもしれない。


「今思うと、『天賦の五感ヱトスティ』は魔力マナの少ない『獣人デュミオン』に多く見られるような気もするけど、どうなんだろうねぇ」


 縁を結んだ冴山香織の位置を意識内に保たせ、彼女の逃げる方向を先回りするように歩いていくミデア。ふと視界の隅に動く影が見えたような気がして、眼に止まらぬ速さでそちらに銃口を向けた。


「私の場合はねぇ、眼、なんだよ」ただの勘違いと解ると、銃の構えを解き、また喋り出した。「人より眼がいい、というとただ視力が凄い、みたいに聞こえるけどぉ、より詳細に言うなら、視覚で得られる情報が多い、って感じかなぁ」


 黒色の薄い膜がかかったかのような倉庫内は、何かが出てきてもおかしくないと感じさせるような静けさと不気味さが滲んでいた。低温に設定された室温も、背筋にゾクリとくるような冷たさでもなく、なんともいえない薄ら寒さが訪れた人間の輪郭を包み込む。


 そんな中でも、ミデアの瞳は陽光を反射しているかのような輝きを見せていた。まるで、この部屋にあった光のすべてを吸い取ってしまったかのように。


「リハナの耳が魔力マナを精密に感知できるように、私の眼も、魔力マナを精密に映すことができるんだよねぇ。単純な濃淡はもちろんのこと、魔力マナが通った痕跡とかも、普通の『獣人デュミオン』よりは色濃く見分けることができると思うよぉ」


 コンテナを幾つか挟んだ先で香織が素早く移動する。

 ミデアは立ち止まった。

 待ち伏せをするにしても、香織の向かおうとしている方向とはてんで明後日の位置にいながらも、歩くのが疲れたと言わんばかりにコンテナに背中をつけて座り出した。


「でもねぇ、この眼が真に『天賦の五感ヱトスティ』たる理由はそこじゃない」


 すると――――

 いきなり方向転換した香織が、コンテナの隙間を通りながら――にわかにこちらを目指して走り出した。


「さっきも言った通り、この『眼』は視界に収まる魔力マナの動きを克明に映し出す」


 付着させた己の魔力マナを用いて対象の居場所を特定する魔法、『縁』。ミデアの眼は、その魔力マナの姿が障害物越しだろうが関係なく捉えていた。


「その動きの鮮明さはね、何も過去に限った話じゃない――未来すら見通せるから、『天賦の五感ヱトスティ』なんだよ」


 とミデアは言葉を吐き出した後、なんの予兆もなく立ち上がった。休憩後に運動でもするかのように、軽く伸びや準備運動を行い、拳銃の重みを改めて掌で確かめる。


 訪れるべき未来を待つために――――


「まあ、そういう意味じゃあ」


 そして、またしてもなんの予兆もなく横に駆け出すと、前方を確認するまでもなく即座に銃口を真正面に捉えた。


「これが『ヘルミナス王国私達の世界』」でいうところの、魔法に近いのかもねぇ」


「…………!」目の前に現れたミデアとその銃口に、香織はビクッと反応したかと思うと、すぐに金縛りに遭ったかのように動かなくなった。


「チェックメイト」とミデアはその語源となったゲームの名も知らないまま、鬼ごっこの終了を静かに告げた。


 待ち伏せに気付かず自分から鬼に近付いてしまった香織は、強張った身体に両手を上げることも忘れ、言葉を失ったまま立ち尽くす。その視線は、向けられている黒い筒の穴から吸い込まれるかのように微動だにしない。

 ミデアの講釈も、この広い空間に反響し続けてしまい、彼女の移動先を香織の意識から曖昧にさせていた。灯台下暗し。餌に釣られるネズミのように、まんまと彼女はコンテナを沿って彼女のいた場所に一周して戻ってきてしまっていたのだ。


 そういった心理的作用も計算に入れ、言葉や動きを巡らせていたミデア。

 今度こそ追い詰めたと確信し、彼女は『縁』の魔法を解いた。


 この状況から逆転する方法などない。


 考えなくても解ることだ。実際、香織の表情には悔しさが滲み、「……ボクの、負け、だね……」と言葉を溢したのだから。


「始めから勝負をしてたつもりはなかったけど、勝敗を決めるとすれば、そうなるだろうねぇ」


「違うよ。そういうことじゃない……」


「……?」


 雲行きが怪しくなったのは、そこからだった。


 てっきりミデアは、この鬼ごっこの勝敗が決したのだと思い、香織の発言にも返事をした。しかし、今ならハッキリと解る。先ほどの負けの宣言は――決して自分に向けて吐かれたものではない、と。


「本当は、巻き込みたくなかった」香織は悔しさで唇を噛んでいた。その瞳に、ミデアは映っていなかった。「でも、確かにその通りだった。玲旺がいない今、頼れる人がいるとすれば、しかいない」


「……ねえ、一体なんの話を――――」


「だから、自分勝手だけどお願いします! !」


 諦観を示す香織。

 湧き上がる疑問。


 しかし、誰もミデアを答えに導こうとする気配はなく――物語は着実に進み出す。


「はっはっはー!」


 直後、上から声が聞こえた。

 薄暗く、静けさが支配していた空間には、酷く耳障りな高笑い。


「自分勝手やって?」ちっちっち、っとハッキリと発音するその言い方はキザったらしく、芝居がかっていた。「それはちゃうで、冴山香織研究員。他者に助け求めるんは、決して自分勝手やない」


 ミデアは反射的に上に視線を投げた。声のした方向だ。


「人が人に助けを求める。それはな、人としてのさがなんや。人は一人じゃ生きていけへん。誰かと一緒におって、気分を高め合って、気持ちよーなりたいのが人としての本能っちゅーこっちゃ。助け合うのは当たり前やねん。寧ろ、一人でどうにかしようと失敗したほうが、勝手が過ぎるっちゅー話や」


 そして、そのタイミングを計ったのように点く照明。

 暗闇から一瞬にして光度を増す変化に眼がやられそうになったが、『獣人デュミオン』にとって、さらに言えば眼に関する『天賦の五感ヱトスティ』を持つミデアにとっては些細な違いであり、眩しさにほんのちょっと瞼を落としてしまう程度で済んだ。


 構わず相手の正体を探ろうと眼を向けた先は、コンテナの上だった。


 そこにいたのは、少なくともミデアには奇異に映る男性だった。

 照明に照らされた髪は、まるで緑色のペンキをぶちまけられたかのような濃厚な色を発し、長い前髪から覗く右目からは丸眼鏡がかけられていることが解る。三十代ぐらいだろうか。黒いスーツの下から窺えるシルエットには中年特有の贅肉はなかったが、かといって身体が引き締まっているかと言えばそうではなく、不健康な痩身といった具合だ。


 ただ、ミデアにとって一番馴染みがなかったのは、やはり彼が着ている白い羽織りだろう。その特徴的な服は、彼女の住む世界にもなかったものなのだから。


 そう、目の前に立つ冴山香織と同じ、『白衣』と呼ばれる代物には――――


「そういうわけで――世界研究機構『Innovasion』異世界部門幹部兼――『人工知能感情部門開発研究班』部長、井上いのうえさとる――可愛い後輩のSOSに応じ、ついに異世界大戦に参上や!!」


 地球の叡智が、ミデアの前に立ちはだかろうとしていた。

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