第 39 話 名もなき決意


 秦野原はたのはら虔治けんじの出自に特別な点はない。

 勇者の生まれ変わりだとか、千年に一度の才能だとか、天才だとか凡才だとか、金持ちだとか貧乏だとか、そんな人並に足し引きが一切ない人生を送っていた。


 強いて挙げるならば、現在は母親と妹の三人暮らしをしている母子家庭であることだろうが、一家の大黒柱が出稼ぎでその伴侶が専業主婦として家庭を支えるような風潮が当たり前でないこの時代では、特段悲劇と分類されるような事柄でもないだろう。


 父親は、虔治が幼稚園児だった頃に、浮気を犯し離婚。それも、正々堂々とした浮気だった、と当時恋愛の『れ』の字も知らなかった息子が思うぐらい、後ろめたさが一切なかった。


「父さん、好きな人ができたから、その人と一緒になろうと思う。もちろん、子供の養育費は送るつもりだ」


 そんなことを馬鹿正直に、それも子供の前で言うのだから、子供ながら虔治は、父親の爽やかとも言い換えれる潔さに感心を抱いてしまった。


 そういう意味では、秦野原家は普通の家庭ではなかったのしれない。


 とにかく、幼少期から父親がいないことが当たり前の認識だった彼は、父親がいないことによるデメリットを受けながらも、特別な挫折や成長もなく、健やかに難なく育っていった。生来の優しさからか、反抗期といった時期的なものもなく、そのお節介な側面は、離婚後に発覚した妹のあかねの出産が成功してからはさらに拍車をかけていた。


 養育費以外の費用をかけ持ちしてまで稼ぐ母親の家事を手伝いながら、時には料理を担当し、中学生の朱の弁当を作り始めたりすると、段々とそこに楽しさを感じ、アレンジやオリジナルメニューに凝り出し、それでもやはりパートの給料ではタカが知れており、時が経つにつれやつれていく母親を見兼ね、自分が一家の大黒柱になることを決意したその矢先――平穏な人生を送ってきた彼に、初めて目に見えるほどの波風が立ち始めた。


 『突然変異体』


 一体いつからか解らないものの、虔治が魔力マナを感知できるようになり、独自の魔法を使えるようになったのは、割りと最近のことだった。


 それに気付いたきっかけは、朱を虐める年下の男子を凝らしめようとしたときだった。


 人の噂とは怖いもので、母子家庭自体は珍しくないものの、父親の浮気が原因だという過去が何故なぜか露呈してしまった学校内では、浮気の意味もよく知らないまま馬鹿にしてくる同級生も少なからずおり、そんな相手に反抗の態度を示すことはしょっちゅうだった。


 見た目がこんなだからナメられるのだと、金色に髪を染めてからはその回数もドッと減ったが――起こった変化が外見だけでなく、内側から根本的に身体の構造が変わるとは、流石の彼も予想外なことだった。


 しかし、彼はその変化を拒絶しなかった。最初こそ戸惑いはしたものの、これにより、自分の願いがひとつ叶ったのだから。

 年齢的に難しかったアルバイト。母親を支えたい、家族を守りたい、という願いが届き、彼は、彼にしかできない稼ぎ所に巡り会えたのだから――――


 虔治にとっての動力源とは、すなわち家族だ。


 料理を始めたのも、喧嘩をするようになったのも、研究材料に自ら志願したのも、最終的には家族に楽をさせたい一心であった。

 神宮寺じんぐうじに対抗心を燃やしているのも、彼の希少価値が研究者の眼を惹きつけ、自然と自分の報酬が減ってしまう懸念があったからだった。


 逆に言えば、彼は家族の関わらない事柄にはあまり積極的な姿勢を見せないことも多かった。

 触らぬ神に祟りなし。無関係な面倒事に突っ込むまでの熱意は持ち合わせておらず、昔、このナリに因縁をつけてきた、不良界というものがあるかは解らないが、そこそこ名の知れたチンピラに喧嘩を売られたときには、闘争心も湧き上がらず、来いと言われた約束の時間をすっぽかした。


 赤の他人の幸福にも興味を抱かず、おやじ狩りを見掛けても我関せず。家族に関係のないことには自ら進んで関わろうとはせず、そういう意味でも彼は特別性のない一般的な常識観の持ち主と言えるだろう。


 その性質にのっとれば、このアイーシャ・アードロイドとの対決もまた、彼にとっては頓着すべきでない事柄であったはずだが――――




「――とまあ、そんなところだな」


 創明大学の地下に掘られた巨大なシェルター。予算もたっぷり注がれ、その広さは東京ドームにも匹敵するとすら言われている地底世界。

 居住区はそんなシェルターに避難してきた人々に安心と安全をもたらすための環境のはずなのだが、今はどの部屋ももぬけの殻となっており、遠くではその性質とは正反対な騒々しさが微かに聞こえてきていた。


 頭上のスピーカーからは、侵入者の出現を告げる旨の文が、機械音声によって繰り返し読み上げられていた。


 そして、虔治の前に、その侵入者の片割れが立っている。苦しそうに呻く虔治を哀れむかのような涼しげな顔つきで。


冴山さえやま香織かおるの居場所を知ってるのはオレじゃなくて、もう一人のミデアっつー女。そっちが本命だ。あいつは、クレハやオレに今回の話す前に、『縁』を冴山香織に使ってやがった。行き当たりばったりはオレとは違って、そういうことに頭がまわって先を見据えるのが得意なんだよ、あいつは」アイーシャは遠くを見るような眼をした。


 時間稼ぎ。

 それが虔治の取った行動だった。


 何度も地球を守ってきた戦闘経験豊富な軍人と、片や成人にも満たない戦闘素人の学生。そんな二人が戦ったところで勝敗は火を見るよりも明らか。それは客観的事実よりも、他ならぬ学生自身が確信していたことだった。


 故に、虔治は始めから倒し切ることに重きを置いていなかった。時間を伸ばせ。少しでもこの女を自分の前で停滞させろ。詳しい事情は解らぬが、彼女の目的らしい冴山香織を逃すために、自分が泥を這ってでも醜く相手してやる。その思いで立ち向かった。


 しかし、そんな決死の覚悟を打ち砕いたのは、屈辱とも言うべきか、アイーシャの哀れみの情に他ならない。一体、彼のどこに同情を覚えたのか。意味のない戦いを続けようとするその泥臭い姿勢か、それとも傷だらけで戦うその姿か、もしくは必要性のない一方的な蹂躙に忌避感を覚えたのかもしれない。


 どれであろうと、彼女が手の内を虔治に明かしてしまったことには変わらない。


「もしも、お前が冴山香織を守りたくて、そんな捨て身になろうとしてんなら、意味なんてねえよ」彼女は断言した。「例えここで、万に一つだろうがな、このオレを倒せたとしても、あいつは捕まる。捕らえる役割の本命はミデアだからだ。それなのに――お前が余計に割り込んできた」


 アイーシャは肩の凝りをほぐすような仕草をしながら、今も棒切れのように頼りない両足でなんとか立ち上がっている虔治を、見た。いつ倒れてもおかしくない。『癒』で傷は回復しても、それで失った魔力マナは戻ってこない。


 確かに、アイーシャも無傷ではない。ではないが、高が知れている。虔治の渾身の一撃だった、溜め込んだ魔力マナの放出も大したダメージ源にはなっていない。


「お前はただの民間人なんだ。そりゃ、地球人とは違う才能を持っちゃいるがな、そんなのは頑張らきゃならない理由にはならないんだよ。大切な人でもない奴を守るために、大切なものを背負って今ここにいるオレ達の邪魔をしないでくれ」


 配慮も情けも容赦もない、きっぱりとした拒絶。

 アイーシャは握る拳を強くする。まるで、吐いた言葉に乗せた感情が伝播したかのように。

 取り繕うこともしない自分勝手な理論だが、それが彼女の言いたいことのすべてとも言えた。


 ここはお前の立つべき場ではない。

 無関係な他人よりも、自分を心配してくれる家族を守るべきだ。


 覚悟を以て今回の行動に出た彼女も、意味のない暴力行為には走りたくない。いつもの、乱暴で言葉足らずな言葉。

 それが、アイーシャ・アードロイドという『獣人デュミオン』なのだ。


「…………」対し、虔治はアイーシャになんの反論もしない。


 彼女の言葉はすんなりと耳に入ってくる。身体も自然と受け止めていた。その上で、不思議と歯向かおうという気になれなかった。


 それは、彼が敵わないと自覚しているからでも、彼女の言葉を退く気力や自信がないわけでもなく――――


 それを聞いて、心の底からこう思ってしまったからだった。


「――だからどうした?」


「……なに?」アイーシャの顔が怪訝そうに歪む。眉根が皺を作る。


「彼女を追いかけているのはアンタだけじゃない。時間稼ぎは無意味だ――で? それがどうした、って訊いてんだよ」


「……それ以上も以下もねえだろ」


「ハッ――」虔治は大きく息を吐き、その口元に大きな笑みを貼り付けた。「なるほど! 流石は『獣人デュミオン』。人の言葉を喋っても、所詮は獣と同じで人の気持ちまでは理解できえねえってわけか」


「んだと、テメエ」アイーシャの目つきが変わる。言葉に鋭さが増すにつれ、魔力マナの濃度が上昇していくのが解った。


「無意味とか関係ねえよ」虔治は声を振り絞るように言った。「こっちはもう、スタートしちまってんだよ。クラウンチングスタートで勢いよく順調に走り出して、実はこのメートル走は記録に残りませんとか言われてもな、今さら止められるわけがねえんだよ。そういう問題じゃないからだ」


「あぁ? 何ワケのわかんねーことを――――」


「寧ろ、追っ手が他にいることを教えてくれたことには感謝するぜ? これでこっちも――」虔治はポキポキと指の関節を鳴らした。それは、まるで走る前のスポーツカーが鳴き声の変わりにエンジンで嘶きを発するかのようだった。「ようやく本気で殴れる。さっさとテメエをぶっ倒して、その追っ手もぶっ倒させねえといけなくなったからな」


 眼の輝きに一切衰えのない虔治は、威勢よく力強い言葉を放ち、まさに虚勢だけを支えに立ち上がっていた。全身が見えない力に押し潰されているかのように重い。笑顔を作っているつもりが、精神的負担がその頬を引き攣らせ、漫画の悪役がするような凶悪さが滲んでいた。


 それでも、今にも倒れる気配は微塵も感じられない。


「……どうやら、本気で殴られるまで解んねえみてえだな」アイーシャは拳を構えた。


 戦う意思を灯す、というよりはこの茶番を終わらせるために仕方なく拳を握るような雰囲気だった。勝敗が判り切った試合ほどつまらないものはない。そう言わんばかりに、その顔に浮かぶ表情は好戦的でも愉快そうでもない。


「テメエの青臭い以前の赤ん坊みてえな性根、叩き折ってやるよ」

「遠くを見すぎて前方不注意なそのツラに、俺の強さを思い知らせてやる」


 二人は同時に駆けた。


 僅かな差を置いて、先手を打つことができたのは虔治だった。先刻と同じく、掌に溜め込んだ魔力マナの噴射力を活かして、普通の走力よりもずっと早い接近を講じた。


 スタートダッシュの瞬発力・加速力において、彼の右に出る者はいないだろう。


 虔治の固有魔法『増幅ブースト』は、何もひとつの箇所に限定して発動されるものではない。

 もちろん、一点集中することによる利点は大きい。

 ただ、片手に魔力マナのいっぺんを溜め込むよりも、その半分ほどを両手同時に溜め込んだほうが適した場面が多い。


 加速に使った後ろに向けた手とは反対の手。その拳を握り、虔治は瞬時に近付きながら振り子のようなアッパーカットを打ち出した。


 魔力マナを拳に乗せ、そのスピードも上乗せした一撃は、針に糸を通すように鋭くアイーシャの下顎を狙い打つ――――


「だから言っただろ。そんなド素人の見えみえな攻撃」


 スカッ、という効果音も出そうな見事な空振り。

 少し顔の角度を変えただけで、アイーシャは冷静に放たれた虔治の高速打を回避した。顎先を掠めるようなこともなく、その拳は見事に空を切った。


 攻撃を放った直後ほどの隙はない。なんといっても、叩くべき敵が無防備にも近付いてきてくれているのだから。


 腕を突き出すように上方へ伸ばし切ったのを確認してから、アイーシャは虔治にカウンターを叩き込もうとした。


 その直後だった。


「――――ッ!?」


 顔面に強い衝撃が走り、視界が黒に染まった。

 頭に血液が昇ってきたかのような熱さが灯ったかと思うと、それらは瞬時に痺れと痛みに変化した。鼻頭辺りの骨がゴリゴリとくぐもった音を鳴らした。


 拳を振ろうとしたはずだった。攻撃を回避し、反撃を仕掛けようとしたところ、何故かこちらがダメージを受けた。反撃を受けた? まさか。腕を振り抜いたあの状態で追撃を加えるのは人体の構造上、不可能だ。


 肌にチリチリとした感触が走った。針ほど鋭くない、柔らかな針状のものでこちょこちょと撫でられるように、それが無数に近い数で触覚を襲った。


 ――これは……髪の毛か?


 未だ顔面を勢いよく覆う感触の正体に当たりをつけるアイーシャ。


 ――てことはオレは、野郎の頭突きを喰らっているというわけか?


 アッパーからの頭突き?

 アイーシャはその攻撃手順に繋がりを俯瞰的に分析しようとするが、上手くいかない。


 ひとまず距離を取ろう、と頭突きのベクトルも利用して跳び退がるアイーシャ。

 状況を把握したいが、鼻先と鼻先が触れ合うあの距離感では充分な考察もできない。


 しかし、虔治はそのいとまは与えない。攻撃後のインターバルを乗り越え、いったん落ち着こうとする彼女に追い縋る。


 安直に正面切っての殴打。右腕を掲げ、その勇猛さを示すように、増幅ブーストさせた拳を振り被った。


 ――ただのパンチだ。避けるのは容易い。

 ――問題はその後――――


 アイーシャは頭でそんなことを考えながら、目の前を素通りしていく虔治の拳を見送る。


 すると――避けられた拳から逆噴射するように魔力マナが放出された。

 指先を絡めるように作られたグー。それを横から薙ぐように放つもさらりと躱され、伸ばし切った腕はアイーシャの眼前で何かのポーズとも取れる醜態を曝け出していた。そんな腕の先から噴射する魔力マナの洪水。右腕はその勢いに押され、渡ってきた軌道を今度は真反対のベクトルに乗りながら渡っていく。


 ――そうか。


 アイーシャはその現象を見抜き、先ほどの頭突きの正体の答えにも辿り着く。


 ――『増幅ブースト』の発動部位は別に掌じゃなくてもいい、ってわけか。

 ――攻撃を避けられた後の、自由を奪われた間隙に『増幅ブースト』を発動させて、動かせない身体を無理やり魔力マナの放出力で動かして、それを攻撃に転じさせる。


 アイーシャの頬に、逆噴射で戻ってきた右腕の裏拳が炸裂する。

 その衝撃に耐えきれず、吹き飛ばされるように後退るものの、アイーシャから勝気は失われていなかった。


 ――さっきの頭突きも、後頭部から魔力マナを噴射させて形を成したんだろうな。


「ま、だからなんだって話だな」アイーシャは動じた素振りを見せず、殴られた頬を軽く撫でる。「これもさっき言ったけどよ、お前のやり方は余計に魔力マナを多く消費するクセに、威力がお粗末だ。こんなもの、何百発くらったってオレは倒せねえぞ」


 虔治はアイーシャの言葉に構わず、ボクシングの真似事のように両腕を突き出す。もはや、計算も狙いもない闇雲な猛攻だった。


 時に頭突きや裏拳でそうしたように、『増幅ブースト』を駆使した不規則な攻撃で流れを乱したりはするものの、それも幾度も重ねれば一定の手順と化し、彼女も着実に躱しながらその規則性に慣れてきた趣があった。


 そもそも、当たったところで大したダメージも与えられず、隙のない連擊も、食らうのを覚悟で強引にカウンターを放たれてしまっては虔治のほうがぶっ飛ばされる結末になってしまう。


 滅多矢鱈と打ち出すだけで、魔力マナも、情熱も、闘志も、使命も、イマイチ籠っていない不完全な一撃。それをアイーシャは額で受け止め、すかさず意趣返しと言わんばかりに下顎を殴り飛ばしてやった。




 大きく弧を描き、吹き飛ばされる虔治。

 ピントも合わないブレた世界が映る。その最中、時間はゆっくりと流れているように感じた。


 ――大切な人でもない奴を守るために、大切なものを背負って今ここにいるオレ達の邪魔をしないでくれ。


 不意に、アイーシャに言われた言葉が脳内に木霊こだました。


 その通りだ。

 自分が本当に守りたいと思う存在はここにはいない。


 妹と母親は、既に人払いの魔法により放送の案内に従っている頃だろう。子供の頃から掲げている矜持に従うならば、彼は今すぐにでもその家族から付かず離れずの位置で、降り注ぐ危険から彼女達を守るべきだった。


 しかし、子供の頃から心掛け、当然のようにやってきたそんな事を放棄し、全身がボロボロになってまで彼は未だに立ち向かうことを止めない。


 それは何故なのか。


 ――わかんねえよ、そんなこと。

 ――俺が、俺自身が何をしたくてこんな分の悪い戦いを続けているかなんて。


 この戦闘が始まる前のことを思い出す。虔治は部屋で寝ていた。部屋の外からする銃声で目が覚めた。気付けば家族がいなかった。彼の身に起こったこといえば、そんなところだ。


 ――わかんねえ。けどな、

 ――人が理屈じゃねえことぐらいは解ってる。


 虔治は、就寝中に見ていた夢の内容を思い出す。なんとなくの朧気な記憶しかなかったが、ひとつ確実に覚えているものがあった。


 ――今日は勉強するって心に決めても、結局その直前になって心変わりしちまうようにさ。


 家族との夢だった。この『マキナ』の騒動により、二人から笑顔は減った。自分が学校に行っている間、それぞれあるべき場所にいた彼女達に何があったのか、詳しいことは聞けていない。確かなのは、今回のことに怯え切っているということだけだ。


 ――俺は家族が好きだ。

 ――あいつらには幸せになって欲しいと思っている。


 夢で見た母親と妹は笑っていた。


 ――テメエらがどんな覚悟と思いでここに立っているのか知らねえけど。


 虔治はあのまばゆい幸福をもう一度見たいと願った。


 ――ここで諦めたら、あいつらに顔向けできねえなと思ったんだ。


 気が付けば、虔治は咆哮していた。

 すべてをなげうつように、あるいはすべてを呑み込むように。

 確固たる言葉があるわけでもない。

 はっきりとした意思や理由があるわけでもない。

 そんな言葉にならない煩悶とした感情を、すべてその雄叫びに乗せた。


 突然豹変したとも取れるピリピリとした空気感に、アイーシャはピクリと耳を反応させながらも、警戒心を絶やすことなく虔治を睨みつける。


 カウンターがモロに直撃し、仰向けに倒れながらも、決して消えることのない不屈の闘志を口から吐き出しながら起き上がった虔治は、矢継ぎ早に、自分の意識すら置いていくかのように、快速なスタートダッシュを切った。


 先刻と何も変わっていない、学んでない、突進。


 アイーシャの眼にはそう映ったことだろう。

 何度も重ねてきた作業に慣れ始めると、人間はその個人特有のクセを見出し、以降はそのやり方以外のことを考えられなくなる。


 それは『獣人デュミオン』にしたって同じことだった。

 飽きを感じるほどに対処してきた虔治の接近方法に、戦闘パターンを幾つも考案し相手してきたアイーシャの頭には即座に焼き増しされた結末が浮かんだ。


 だからこそ、そこに油断が生まれる。


 果たして彼女は念頭にあったのだろうか。


 頭突きによる奇襲。掌以外からも『増幅ブースト』が使えることが判明したところで生まれた、ひとつの可能性に。


 無鉄砲ながらも打ち出し続けた虔治の連打。その嵐の一端に――一度も足技が使われていないという事実。


「…………!」その可能性が前線に顔を出した頃には、虔治は飛び出すようにジャンプし、両膝を折り曲げ――――


 アイーシャの眼前に迫る二つの靴裏は、これでもかというほどに魔力マナを含有し、白く輝きを発していた。

 その眩しさは、幾層の壁をも貫いた、あの魔力光線よりも明らかに高く、強く、夜空に散らばる星座のように、渦を巻きながら存在を主張していた。


 ――実はさ俺、テメエと冴山さんが何を話していたか、部屋の中からちょっとだけ盗み聞きしてたんだけどよ。


 回避する時間がないと判断したアイーシャが、この場において初めて魔力マナを意識的に操作し、迫りくる虔治のドロップキックを防御しようと身を固めていた。


 ――そのとき聞こえたんだよ。

 ――あんた、神宮寺の野郎を倒したいんだって?


 それを聞いてしまったとき、頭に去来したのは、とある過去の記憶だった。

 頭の片隅にずっと置きっぱなしにし、必要なときにだけ持ち運んでいた、自分にとっての転機が訪れたときの記憶。

 秦野原虔治が、打倒神宮寺を目指すきっかけとなった光景だった。


 ――俺さ、見たことあんだよ。

 ――あいつが『マキナ』と戦って、笑って、圧倒してるところ。


 それを見た瞬間、虔治は確かに己の中の何かが壊れる音を聞いた。

 妹の朱が上級生にイジメられようとしているときも、強いと評判のチンピラに絡まれたときも、明らかに格上の存在と対峙しても思わなかった感情。


 勝負したくない、という動物的本能。


 その思いを忘れたくて、今もこうして自分は、神宮寺に積極的に挑もうとしているかもしれない。


 ――もし、本当にあいつに勝ちたいのなら。

 ――俺がこの一撃ぐらい、余裕で止められねえと話にならねえぞ……!


 現在、虔治が持ち得る魔力マナのすべてを込めた、最後の一撃。

 寸分違わず、アイーシャの交差させた両腕に吸い込まれるように突き進み。


 そして――――




 同時刻 創明大学地下シェルター 南西部通路。


「……ん?」


 ミデアは先ほどまでなかった違和感を感じ取り、進めていた歩みを止めた。様子を窺うように耳を立て、静かにその違和感の正体を探ろうとする。


「……なんか、揺れた?」長い間ではなかったが、彼女の立つ足元が微かに揺れを起こした。「地震かなぁ……」


 地震が起こった際の地下の震度は地上の半分以下と言われている。『マキナ』の襲来に気を取られている日本だが、その程度の揺れなら問題視することでもないだろう。


 ――でも、さっきのは自然現象のあの感じとは違う気がしたんだけどなぁ。

 ――なんというか、地面そのものというよりは、この建物だけが揺れたみたいな。


「……君はどう思う? 香織ちゃん」


 ミデアは自身が歩んでいた方角の先にいた、此度の作戦のターゲットに視線を投げた。

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最強魔法師の世界救済 黒い蜘蛛 @mamebatyuru

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