第 38 話 負けられぬ戦い


 10分後 創明大学地下シェルター アスレチックブース


 避難者に窮屈な気持ちを抱かせぬように、このシェルターには様々な娯楽施設が備えられている。そのバラエティーに富んだ種類の豊富さは、見境なしに店舗を腹に溜め込むファッションビルのようだった。


 アスレチックブースはどちらかといえば子供向けの公園のような趣が強かった。鮮やかな色合いをした大きなブロックが、積み木のお城のような形状で積み重なっている。転倒防止のネットに囲まれたトランポリンや、床より1メートルほどり抜かれた器に海を象った大量のボールが敷き詰めたボールプールなど、子供に身体を動かすことで、地上を跋扈ばっこする怪物など忘れて楽しませようという目的の下に作られていた。


 しかし、そうした製作者の願いも虚しく、アスレチックブースには無邪気に遊びまわる子供達の姿はない。


 代わりに訪れたのは、白衣を羽織った少女に見えなくもないショートカットの女と、その女を捕まえるためにトレードマークのイヌ耳を隠してまで潜入してきた女の、二人だった。


「さて、と」ミデアは息をらした。「とりあえず、この辺でいいかなぁ」


 大衆が避難に注力している現在、こういった娯楽施設には当然ながら人っ子ひとり残っておらず、秘密の会話がしたいのなら、どの方角に行ってもうってつけの場所に出くわすような状況だった。


 しかし、移動を済ませたミデアがまず行ったのは、拳銃で脅してここまで連れてきた香織を用済みだと撃ち捨てるわけでも、解放してのんびりとお話をするわけでもなく、服を脱ぐことだった。

 床とスレスレな丈長のスカートのボタンを外す。チャックを下ろす、金具と金具の擦れる独特な音が鳴る。

 もちろん、銃口の先は香織かおるの背中に突きつけたまま。

 空いたほうの手で、スカートのウエストを緩め、重力をメインにそっと力を添えるように、床に落下させて脱ぎ捨てた。


「……え? なんで脱いだの?」香織は背後にいるミデアの様子が解らず、布擦れの音からそう口にした。


 顔の角度を変えて見ることもできないことはなかったが、何か行動に移そうとするたびに背中に密着する感触がちらつくため、両手を上げたまま身動きが取れない状態が続いていた。

 ここに来るまで上げ続けていた両手にも疲れを感じ始め、これ、いつまで上げとけばいいのかな、と声をかけようとしたそのとき、「これ、よかったらあげる」と彼女のほうから先に声をかけてき、こちらに向かって何かが放り投げられた。


 受け取る姿勢になり、自然と挙手状態が解かれる。その変動を、彼女は咎めはしなかった。渡された物の正体は、彼女が被っていた帽子だった。


「なにこれ」と思わず呟きそうになった。


「休みの日とか、『獣人デュミオン』だってバレないように、耳や尻尾を隠す服装をして出掛けていることぐらいは知ってるよねぇ」ミデアは言った。


 有名な話だった。地球人に紛れるために、地球に駐屯している『派遣ビーファ』の獣人デュミオン達は、立派な耳や愛嬌のある尻尾を上から洋服で隠してしまうのだ。そうしなければ、異世界に当たりが強いこの情勢では生きていけないからだ。


「でも、アレってね、着心地がまあよくなくてねぇ。常に音がくぐもって聞こえるは、尻尾が強制的に折り畳まれて歩きづらいわ蒸れるわで、不快感マシマシって感じ」


 プライベートの愚痴をこぼすミデア。香織はまるで地球人代表で自分が責められているような気分になる。「あの、えっと……この帽子は……?」


「私はもう着ないからさぁ、あげる。要らなければ、そこらへんに捨てておいてぇ」


「そうなんだ」香織は曖昧に返事し、どうしたものかと両手で握る帽子に眼を落としたが、しばらく考えた末に、結局そこらへんの床に投げ捨てることにした。


 どうにも調子が狂うな、と香織は戸惑っていた。ミデアの口調は危機感がなく、その口から吐き出された言葉だけを聞けば、長閑な縁側でお茶を片手にゆったりとしているような状況が浮かび上がってくる。

 しかし、実際は今も自分の身体に向けて、いつでも引き金をひけるように準備が完了しているのだから、現実感がまるでなく、頭がこんがらがりそうだった。


「さて、身体もだいぶ身軽になったことだし」スカートと帽子を脱いだだけではあるものの、今のミデアは、鍔に邪魔された視界もひらけ、スカートの下に履いていたストレートパンツも無駄な皺がなく、動きやすい服装にはなっていた。「愛しの彼の元に連れて行く前に、君には色々と訊きたいことがあるんだよねぇ」


「訊きたいこと?」


「まず、何を訊こうかなぁ」


「いっぱいあるの?」


「まあねぇ」うーん、とミデアは考えているのかただ唸っているのか解らない素振りを見せ、「まあいいや。えっとねー、私の訊きたいことをね、一言でまとめるとぉ」


「まとめると?」


「君ってさぁ――何者?」


 ミデアのきたいことは、あまりにも抽象的で大雑把おおざっぱに括られていた。


 何者か、と問われれば、冴山香織、人工知能感情部門開発研究班所属、25歳の性別は女です、としか言いようがなかった。


 しかし、そんなことを訊きたいのではないことぐらいは解る。


「それは、もしかして玲旺と関係してる質問なのかな?」真っ先に勘繰ったのはそれだった。『禁忌の人物史アカシックエラー』たる神宮寺じんぐうじ玲旺れおに対策するための情報収集を計ろうとしているのではないか、と。


「というよりはぁ、個人的な興味に近いかなぁ。まあ、二人の初めての出会いとかも、気にならないと言えば嘘になるけどぉ」


「私に話せることなんて、殆どないけどな。だって、研究員といっても、まだ雑用係だし。あ、でも玲旺との馴れ初めならいくらでも話してあげるよ?」


 言葉を紡ぎ続ける二人。互いが互いに、種類の異なる弛緩さをその身に宿しているためか、会話そのものがどこか間が抜けていた。

 そんなテンポがズレたまま、会話は続けられる。


「私がまず驚いたのはさぁ、『縁』で君の居所を調べたときなんだよね」


「『縁』……フーバ皇国の魔法だよね」


「お、流石。初対面のときも、フーバに興味津々的なこと言ってたもんねぇ。その通り。あの宗教国家が開発した、『誰でも使える魔法』のひとつ。任意の対象に自分の魔力マナをくっ付けちゃう。もちろん、持続時間は術者の技量にもよるけど、基本的に短くて、ずっと意識してないとすぐ霧散して辿れなくなるんだけど、これって私だけなのかなぁ」


「いつの間にそんな魔法を……」


「最初のときだねぇ。有陣大学で怪我を負ったリハナのお見舞いに行ったとき、『禁忌の人物史アカシックエラー』くんの後に来たあの可愛い女の子は誰なんだろうと思ったら、まさかの彼の幼馴染みっていうからさぁ。これは何かに利用できないかな、って」


 有陣大学での出来事と言えば、リハナと知り合うきっかけとなった騒動のことで、本当に最初の最初と言えた。


 ――いや、少なくともあの三人にとっては、それは最初なんかじゃなかったんだろうな。


 冴山香織を人質に神宮寺の弱体化を計る、そう考えが至ったのがあのとき。ミデアの言うことを素直に汲み取ればそうなる。


 ――玲旺と戦って地球を侵略することは、きっとボクらが知り合うそのずっと前から考えていたことなんだ。


 『縁』を使えば対象の居場所をいつまでも把握することができる。香織を人質にしようという企みは、神宮寺との関係性を聞いて思いついた突発的なものだという話だったが、では彼女は即興で魔法を行使したのだろうか。それとも、以前からもしものときに備えて練習していたのか。


 とにかく、これでひとつ解ったがある。それは、このシェルター内で冴山香織という個人を見つける手立て。『縁』を使った追跡。それが答えだ。


「まあ、これは賭けでもあったんだけどねぇ」ミデアはしみじみと続けた。「『縁』は対象に付着させた魔力マナを、その名の通り繋がった縁を大切するためにその繋がりをより克明にする手段みたいなもので、魔力マナ自体は他者からも感知できるんだよね。もしも、『禁忌の人物史アカシックエラー』がそのことに気付いてたら、この作戦もここまで運ぶことができなかったかもしれない。やっぱり、魔法は扱いが難しいなぁ。慣れないことをするもんじゃないね」


 言われて、香織は『獣人デュミオン』が魔法を毛嫌いしているという性質であることを思い出した。


「いや、嫌いなわけじゃないんだよ?」香織の思いを透かしたのか、それとも偶然か、まさにミデアは応じるように言葉を続けた。「まあ、『獣人デュミオン』も地球人に負けず劣らずの個性の塊ではあるから、戦いとは肉体でぶつかるものだ、という考え方の人ももちろんいるけど、私は、便利なものは使うだけお得、っていう寛容なほうだから」ほら、銃も使ってるしね、と背中にピタリとつけた拳銃を揺らした。


 銃口の縁が白衣越しの背筋を撫でるように動き、こしょばゆい感覚と今にも撃たれるのではないかという恐怖が同時に香織の頭を虫のように這いずり回る。


「要は、単純に魔法の行使が苦手なんだよ、『獣人デュミオン』は。今までのやり方と180度変わるから。アイーシャなんかその典型だね。今回も、せっかくの私の潜入作戦を無視して、私の特定した場所に直行しちゃうから、こんな騒ぎになるしぃ」


 ぷくぅ、とミデアの頬が可愛らしく膨らむ姿が浮かぶ。そんな想像ができるぐらい、彼女の口ぶりからは深刻さが見出だせない。


「潜入作戦、っていうのはさっきも言ってた、生存者のフリのこと?」香織は先刻のやり取りを思い出す。


「その通り。元々は、誰にも気付かれずに君を連れ出す算段だったんだよぉ。まず、このシェルター内に潜入して、色んな施設に『人払いの魔法』をかける」


「人払いの魔法……」香織は鸚鵡返しに呟く。確か、フーバ皇国にそんな魔法もあったはずだ。


 居住区には人の気配がなかった。それは、みんなあの放送を聞いて慌てて逃げ出したのだろう、と納得しかけていたが、あれは魔法のせいだったのか、と香織は改めて解釈した。


 ――あれ、じゃあボクは。


「『人払いの魔法』をかけて、邪魔になりそうな民間人を一箇所に集めてから、今みたいに静かに連れ出そうとしたんだよぉ。それから、さっき言った『縁』を発動させてみたんだけど――何故か君には人払いの魔法がかかっていなかったみたいだねぇ」


 ミデアは『縁』分の魔力マナの在り処を辿った。そこに、付着先である香織がいるはずだからだ。そして、彼女も人払いの魔法の影響を受けて、ある程度は操作しやすい状況にある予定だった。


 しかし、案に相違し、魔力マナの反応は魔法範囲内の居住区から離れていなかった。


 ――やっぱり、居住区にも人払いの魔法はしてたんだ。


「ホントにビックリしたよぉ。即席とはいえ、まさに奇想天外、予想の外の外を突かれたような感じだったよぉ」


「予想の外の外は予想内じゃないかな……?」


「あまりにも予想外だったから、その後のアイーシャの行動を止める余裕もなかったぐらいだし」


 ミデアから香織の居場所を聞いたアイーシャは、こう言ったらしい。「だったら、もう変装して近づくなんていうシチめんどくせえことしなくていいだろ。どうせ、居る場所に他の連中はいねえんだから」


 豪快で男勝りな、彼女らしい結論と言えよう。しかし、想定にない行動は不測を招く場合も珍しくない。「実際、アイーシャは君を逃してしまったらしいし、何故かさっきから無線も繋がらないし」


「え」香織は聞き捨てならない台詞を聞いた、という風に聞き返した。「無線が、繋がらない?」


「繋がらない、というよりは返事がないんだよねぇ」明らかに不測な事態にも拘らず、ミデアはマイペースな調子を崩さない。「よほど、集中しているのか。それともやられちゃったか。そこらへんは、君のほうが詳しそうだけど」


「…………」香織の脳裏にあったのは、もちろん、虔治けんじの姿だった。無線で呼びかけても、アイーシャから返事がないのは、一体なぜなのか。気にはなるものの、確かめる術がなかった。


「あーあ」ミデアは落胆とも安堵ともつかない息を吐いた。「こんなことなら、私ひとりで来るんだったなぁ」と肩を竦める。「アイーシャの性格柄、こういう、ゆっくり着実とタスクをこなすような作戦が苦手なことは解り切ってたのに。クレハが、何があるか解らないから連れて行ったいい、って言うから。足を引っ張られちゃあ困るんだけどなぁ」


「……心配じゃないの?」


「ん?」


「アイーシャさんと連絡がつかないのに……――仲間のことが、心配じゃないの?」


 まただ、と香織に違和感が降りかかった。彼女の言動が一々、喉につっかえるように無視ができない。


「さっきからずっと思ってたんだけど、ミデアさんはなんでそんなに暢気にしていられるの?」


「ほへ?」ミデアは、とぼけているのか、それとも本当にしっくりきてないのか、小首をかしげる。


「貴方の目的はなんなの?」


「それは、多分言ったと思うけどぉ? 『禁忌の人物史アカシックエラー』をコロコロして、地球を侵略しちゃって甘い汁を啜ろう、って」


「それは、クレハさんが今日の朝に電話で言ったことだよね」神宮寺から粗方あらかたの内容を聞いていた香織は、マーダー小隊がやろうとしていることも把握していた。「ボクが訊いてるのは、ミデアさん個人の目的だよ」


「私個人の目的だろうがなんだろうか、答えは変わらないよぉ?」


「そうかもしれない。けど、貴方からは、他の二人から感じられる『熱』が、それほど感じられない」


「熱ぅ?」ミデアが眉根を寄せて怪訝そうにしているのが、背中越しでも解った。


 彼女自身、それが何を指しているのかよく解っていなかった。二人、とも言ったが、実際はこの騒動の後にクレハと顔を会わせたことはなく、飽くまで先刻のアイーシャと比較した結果に他ならない。


 人払いの魔法にかからず、一人取り残された香織を追って居住区に現れた彼女は、まさに命を賭ける覚悟を背負っていたように思えた。誰かのためなのか、己自身のためなのか、そこまでは解らなかったが、『禁忌の人物史アカシックエラー』を打倒するという目的が決して冗談などではなく、無謀と解りながらも本気で挑もうとしている気概は充分に伝わってきた。


 そして、そんなリスクを伴う挑戦に、リハナや香織を巻き込むことにも後ろめたさを覚えており、己を無力化しようとしてくる自衛隊員に対しても無殺生を実行した。


 『禁忌の人物史アカシックエラー』という後ろ盾を失くせば、異世界からの侵略が再開され、いずれにせよ何万人という地球人の命が無に帰してもおかしくないということを、知ってか知らずか、わざわざ降りかかる火の粉を消さず対処したという矛盾した事実は、どちらにせよ軽く決断できるような選択肢ではないことぐらいは戦闘経験皆無な香織にも解る。


 『派遣ビーファ』として地球を守ってきた思いは、決して嘘ではなかったのだろう。

 反して、それを無為にしてでも成し遂げたい思いもある。


 二つの比重は、どちらに傾いてもおかしくはなかったのではないか。


 少なくとも、アイーシャと対面した香織はそう感じた。


 対して――ミデアからはそうした苦渋が感じられないのが、正直な気持ちだった。


「別に、地球が嫌いでもいいんだ。地球人がいけ好かないから裏切る。そんな軽い気持ちでもいい」でもね、と香織は続けた。「それを、もし仲間にも隠してここに立っているのなら、それこそ酷い裏切りだとボクは思うよ。そして、もしも」


「もしもぉ?」


「貴方の隠している『旗』の色が悪なのだとしたら――ボクはリハナちゃんやあの二人のために、貴方を倒さなきゃいけない」


 そこで、香織は思いっきり身体を回転させ――後ろにいるミデアと正面から向き合った。

 突然の行動に眼を丸くするミデア。その手には、依然として拳銃が握られ、銃口の矛先はというと、香織の背中から、同じ高さにある胸部に変わっただけだった。


 変わらず向けられる死の象徴。


 しかし、香織は臆さない。


 彼女にとって、最も恐ろしいことは、無関係の人間を巻き込んでしまうこと。

 自分以外の人が傷つくところを見るのが嫌で、今まで消極的に行動せざるを得なかったが、


 物理的に人がいないことは、他ならぬ術者本人が口で補足してしまった。


 もう、彼女を縛るものはない。


 毅然と立ち向かうことを選んだ彼女に、ミデアは押し黙るように口を閉ざした。

 掌に収まる程度だった矮小な生き物が、実は目の錯覚で自身と同等以上の大きさだったことを知り、呆然とする。まさに、先手を取られた直後の彼女はそんな反応だった。


 しかし、それらが受け入れることができるぐらいの時間が経過した現在、彼女が取った行動は、「ふふ」と笑うことだった。


「…………!」想定もしていなかった反応に、香織は面食らう。


「ふふふ、ふはハハハハハっハハハッハハハハハハハハハハハハッハハハ!!!」


 表情筋どころか、腹を抱え、バタバタと身体全体を使いながら爆笑を表現するミデア。普段の彼女どころか、そんな笑い方をする人を見ること自体、香織は初めてだった。


 一頻ひとしきり、満足が行くまで笑い尽くした彼女は、「キミぃ、オモシロイねぇ」と愉快そうに言った。あーお腹痛い、と小声で洩らす。


「……別に、笑いを取ろうと思ってたんじゃないけどなあ」当惑しながらも、香織は軽口を返した。


「いやいや、アレは笑っちゃうよ」と彼女はまだ笑いを噛み殺すようだった。「だって、あの二人のために私を倒す、ってぇ。その二人だって、君らにとっては敵なんじゃないのぉ?」


「ボクは別に地球の味方じゃないよ。二人の目的によっては、協力だってしてあげたいぐらいだし」


「でも、その目的って、君の好きな人を殺すことだよねぇ?」


「う……」香織は急所を突かれたような顔をする。「そ、それはそうだけど……」


「それなのに、あんなキメ顔で言い切っちゃうなんて」そのときの衝撃がぶり返してきたのか、またミデアははひいはひいと激しく息が乱れ始める。「ホント、ヒヒ、おっかしー人だなぁ、君は」


 心の底からの思いを真面目一辺倒に告げたはずなのに、そこまで大笑いされるとは心外で、香織は憤りやら恥ずかしいやらで顔に火が灯るようだった。


「でもね、安心するといいよぉ」ミデアは意地の悪い笑みを浮かべながら言った。「私は君が心配するような敵じゃないからさぁ」


「……本当に?」


「ま、確かに君の分析通り、私は今回の件に対する姿勢が、覚悟を決めている二人とは少し違うかもしれないねぇ」


 ミデアは要領を得ない言い方をする。まるで、わざと本質を外しているかのような、ふわふわとした説明に、香織はもどかしく思い、「どういうことなの?」と急かすように次の言葉を促した。


「香織くんは漫画は読んだことある?」


「突然なんの話?」


「漫画じゃなくてもいいけど、そういう作り話系は好きなほう?」香織の疑問には答えず、質問を質問で返すミデア。


「……学生の頃は読んでたけど」


「ああいうのを読んでるとさぁ、お話に登場するキャラクターは概ね好きになるけどぉ――中には、このキャラだけは他よりも突出して好きになる、っていうことがあるよねぇ」


「推しの話?」


「そうそう、オシオシ」ミデアはそのワードを呪文のように繰り返す。「基本的に漫画の見方って、結局は物語を俯瞰的に見てるわけだし、お話として楽しむのが目的だけどさぁ、そういうオシが出来ちゃうと、そのキャラを特別に応援したり優遇したくなっちゃうものだよねぇ」


「そうなのかもしれない」


「私にとっての二人が、そういうこと」やにわに結論を告げたミデアは、いつの間にか拳銃の構えを解いていた。


「なるほど……?」香織は納得の言葉を吐いたものの、イマイチその理論を把握しきれなかったようで、得心の行った顔はしていなかった。


「二人はさぁ、凄く大きな、でも酷く個人的な、そんな使命で世界を変えようとしているんだよ。私は、そういうお話が好きでさぁ、たった一人の恋人のために世界を敵にまわす主人公とか見ると、無償に応援したくなっちゃうし、何か協力してあげたいなと思うっちゃ性質たちなんだよねぇ」


「それは、なんとなく解るけど」


「しかも、そんな二人が私を仲間と認めてくれてるんだからさぁ、もう読者気分ではいられないし、頑張らないといけないでしょぉ?」


 判官贔屓、という言葉がある。基本的に、人の心は弱者を憐れむようにできており、弱者を甚振る姿に義憤や正義を燃やし、何か自分に手伝えることはないか、と思ってしまう生き物なのだ。人の役に立ちたい、他人を助けたい、という気持ちに偽りはない。


 ただ、ミデアの告白はその判官贔屓とも違うのだろう。クレハやアイーシャが燃やす熱意の差。それは、それこそ読者の目線で推しキャラを読んでいたところ、突然その漫画の世界に入り込み、愛してやまないそのキャラの人生に自分という存在が刻まれてしまい、他人事ではいられなくなるような、嬉しさと途方もない使命感に目眩を覚える感覚なのかもしれない。

 ふかふかのソファに座りながら他人の人生を覗き見る愉楽意識がないわけではないが、その人の人生が絶望に向かっていく様は想像したくないし、幸せになるための手助けはしたい。そんな主観の矛盾。ある意味において、憧れの姿に比重を置きすぎて本当のクレハ達を見抜くことができなかったリハナともシンパシーがあるのかもしれない。


「そういうわけだからさぁ――君はなんとしてでも連れ出さないといけないわけなんだよねぇ」と再びミデアは銃口を香織に向けた。「二人のために、そして自分のために、ね」


 一度は外した銃口を、再び同じ位置に構え始める。似たような高さ、似たような姿勢、似たような状況。――何かが違うような雰囲気を、香織は汲み取った。


 香織は、そこでようやっとミデアの底が見えたような気がした。

 相変わらず、のんびりとマッサージを受けているのかと思えるような弛緩した言動。そこには、アイーシャから垣間見えたものがなく、自身に及ぶ命の脅威よりも、寧ろそちらに不安を覚えるほどだった。


 さて、今はどうだろうか。結局は、同じ燃え滾る有志のようなものは依然として見えない。


 しかし、譲れぬものがある。

 それが解っただけでも、充分だ。


「それと、こんなに君の疑問には答えたんだしさぁ」正面に相対するミデアは薄く笑みを浮かべていた。「そろそろ、こっちの質問にも答えてよ。――君は、何者?」


 最初のやり取りの始まりに戻る。ミデアはミデアで、彼女にとっての疑問が解消されず、もやもやとしたものがあったのだろう。


 しかし、それに応えられるほどの回答を香織は持ち合わせていなかった。自分に人払いの魔法が利かなかった理由。全く心当たりがなかった。先ほどまで、自分以外の人達は避難済みと勘違いしていたほどなのだから。


 ただ、推測はできる。恐らく、ミデアの魔法は不完全だったのではないか、という仮説だ。魔法の術中にハマらなかったのは、何も彼女だけではない。アイーシャと、彼女を追った自衛隊員、そして部屋で寝ていた秦野原虔治も、人払いの影響を受けていなかった。


 アイーシャが人払いの範囲内に入れたのは、ミデアが使っているということを認識できていたからだとすれば、自衛隊員が入れたのも、そんな彼女を認識して追いかけてきたからかもしれない。


 だとすれば、アイーシャに認識されていた自分はどうなのだろう、と考えられる。発動条件が術者の基点によるものであれば、有り得ないこともないように思えた。もしくは、『縁』の魔法にかかっていたがために発動対象にならなかったとか。


 ――虔治くんがかからなかったのは、彼が『突然変異体』だからかもしれない。


 当然、普通はそんなことは有り得ない。魔法はどれも、魔力マナを帯びた住人にしかいない世界で作られたもので、魔力マナを持ってるから、別の魔法が発動していたから、なんて理論が罷り通ってはとても実用には至らない。


 だからこそ、ミデアの魔法は不完全だったのではないか、と香織は推測した。


 だが、ここまでのことは当然、術者本人である彼女も考えに至っていることだろう。


 香織から聞きたい答えとは、こんなことではない。


「自分が何者か、か――そんな答えを知ってる人のほうが少ないと思うよ」


「真理だねぇ」


「でもね、ひとつ確かなことを言えるのは――――」


 そのとき、香織は走り出した。

 向けられた銃口とかそんなものには臆さず、踵を返し、ミデアから距離を取るように足を前に踏み出した。


「本当のボクは――相当の負けず嫌いだということさ」


 他人を巻き込む懸念がなくなった今、香織の心に残ったのは、負けてたまるか、というシンプルな思いだった。


 ――ミデアさんのように、あの二人が確固とした理由を以て、今回のことに臨んだというのなら、力になってあげたいという思いはある。

 ――ボクが人質になったところで、玲旺は絶対に負けない。

 ――だけど、それにはまず、二人が行動を起こすまでに至った、その理由を聞かないと。

 ――ミデアさんはそれを知ってるみたいだし。


 ――まずはあなたを倒して訊かせてもらうね!


 ミデアとは反対の方向に駆け出した香織が向かったのは、子供用のアスレチック遊具が広がるこの部屋の奥側だった。


 お城のような外殻の中に、二重三重に足場が取り付けられた遊具だった。登るには壁に接着したハシゴを使う必要があり、入り乱れるような骨組みにはクッションのコーティングがされている。無論、落下しても怪我をしないように、地面もふわふわな素材を使われていた。


 ミデアは彼女を逃げる方向を見て、銃による攻撃を防ごうとしているのだと予測した。


 ――けど、甘いな。

 ――私も拳銃は素人ではないんでね。

 ――障害物に隠れる前に撃たせてもらうよ。


 人質としての有効利用するためにも、本音を言えば五体満足が望ましかったし、無用な殺しを二人は望みはしないだろう。


 足を擦るように撃てば、弾も体内に残らないし安全だろう、と判断したミデアは、前後に動き続ける彼女の片足に静かに照準を定めた。


【やめろ、ミデア! 後がオレがやる!】


「――――アイーシャ!」


 その直後、アイーシャが呼びかける声がし、ミデアは一旦、銃口を下ろし、声のしたほうに身体を向けた。


 しかし、そこにお馴染みのあの姿はなかった。

 確かに声は彼女に違いなかった。にも拘らず、そこ彼女はおらず、あるものと言えば、


 そこでミデアははっとした。「しまった――――」


 原理は解らないものの、自分が偽物の声に騙されたことに気付いたミデアは、慌てて香織を捉えようと身体を向き直したが――――


 アスレチックブースの奥に彼女の姿はなく、


 同時に、ミデアは視界が徐々に暗くなっていくのを感じた。


 意識が遠のいてる? いや、違う。ミデアに何かしら攻撃を受けた自覚はなく、冷静に状況を分析してみると、この暗くなる現象は、物理的にこの部屋の灯りが遮られようとしていることに気付く。


 気づいた直後、即座にミデアは上を向いた。


 そして、この部屋の照明を遮ったものの正体が、を突き止めた。


 ミデアの意識を逸らしている間に、香織は前方に見えていたアスレチックのお城に辿り着くことができた。

 子供に優しい柔らかなクッション床は、大人が全力で走るには心許なく、足裏で踏み抜くたびにバランスを崩してしまいそうな不安定さがあった。


 成人の男性が精一杯屈んでようやく入れそうな入口は、子供とも間違われる香織であれば問題なく潜ることができるだろう。しかし、彼女は城内に入ることはしなかった。拳銃の弾道上が逃れようというミデアの予想は外れた。


 香織は入り口横の、城の外壁に向かって跳躍すると、右足を前に出し、その足で外壁を蹴り飛ばした。


 アクションゲームによくある壁キックというアクション。彼女はそれを再現した。蹴った反動を利用し、さらに高い位置にまで飛び上がり、バネのように反発した身体は、唖然とするミデアの頭上を飛び越え、彼女の背後にあった、このブースの出入り口付近へと着地する。


 膝を折り曲げて着地の衝撃を緩和させた香織は、その屈伸の際に、足元にあったミデアが被り、そして自分で放り捨てた帽子を拾い上げる。


 予想外の事態に愕然としているあちらは、まだその状態から立ち直れていない。


 銃撃による牽制を警戒しながらも、香織は難なくそのブースを後にして廊下に躍り出ることができた。その手に持ってきた帽子に眼を落とす。「ありがとう」と呟いた。


「ハクのおかげで、ミデアさんの隙がつくことができたよ」


【もう、ホントにやめてよね!】帽子の内側から出てきたスマホから、ハクの悲しみの嘆きの声が響く。【なんの前振りもなくアタシを帽子に入れたと思ったら、入り口のほうに放り投げるから、思わず文句を言いそうになったわよ!】


「でも、ちゃんと意図、解ってくれたんだね」


【ま、アタシは優秀なAIだから】褒めると、満更でもない様子。


「でも、音声の再現ができるなら、やっぱりハッキングぐらいできるんじゃないの?」


【……ノーコメント】


 香織は通路を曲がり、できるだけ避難者から遠ざかる道を選んでいく。

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