第 37 話 泥濘


 アイーシャの拳が虔治けんじの視界を埋め尽くす。

 まず衝撃が走ったのは鼻先だった。立体的な三角形の半身を貼り付けたような顔のパーツが押し潰されるような感触が走り、中の骨がゴリゴリと鳴ったかと思うと、途端に感じたこともない痛みと熱が稲妻のように迸ったのだが、そんな鋭い余韻に浸る間もなく、今度は顔全体が圧迫されるような痛覚が虔治の脳ミソに叩き込まれ、それどころではなくなる。


 喉の奥から血が込み上げてくるが、鈍器のような鉄拳に阻まれて吐き出すことができない。


 意識がふらっと傾くような危うさがあった。かろうじて気絶しなかったのは、彼が頑張って抵抗したからではない。


 今度は後頭部に異変が走り、その痛みが遠のく意識を引っ張り上げた。みしみし、と何処かからか紙をクシャっとさせたかのような音が響き、耳のすぐ傍から聞こえたことから、これは自分の頭蓋骨が限界を迎えているのではないか、と訪れようとしている死の予感に竦み上がる思いが湧き始めた頃――後頭部の異変がすっと消え、顔面から拳が離れていく。


 全身に感じる奇妙な落下感。

 ぶっ飛ばされた虔治は、重力に引き寄せられるような勢いで横に吹っ飛んでいく。


 ひらけた視界が捉えたのは、似ているようで異なる、避難者用の部屋。


 みしみし、という音の正体が、だと気付いたときには、彼は痛みと気持ち悪さに囚われていてその現象の意味することを理解できずにいた。


「お返しだ」うつらうつらとする意識の中、アイーシャの活気に満ちた声が木霊する。「あんな派手な技を見せてくれたんだからな、こっちもそれ相応のパフォーマンスでお返しさせてもらうぜ」


 破壊された壁の向こう側で言葉を放つアイーシャは、意識を朦朧として立て直せずにいる虔治に一瞬で接近すると、再びその襟首を掴み上げた。逃がさんとばかりに強く引っ張る彼女の豪腕は、学ランの分厚い生地ごと捻り破りかねない力強さでその身体を持ち上げた。そして、男子高校生の体重をものともせず、部屋の中で虔治を振り回す。


 小さい子供を楽しませるための行為にも見えるそれは、一周まわって滑稽な見世物のようでもあった。


 ただ、高速で回転する景色を眺め続けなければならない虔治にとってはお遊戯でもなんでもない。まるで、大量の水が入った体内が激しく揺さぶられ、共に沈んでいた内臓や気管も左右に行ったり来たりを繰り返しているような錯綜した気持ち悪さに眩暈がする。頭が重く、鉄をずっと押し付けられているような鈍い痛みが響いていた。


「そらっ!」掛け声と共にアイーシャは虔治を投げ飛ばした。


 度を越した膂力と遠心力の加わった虔治の向かう先は、部屋の外だった。

 発射と終着地点の間にあったドアなどまるで障害にならず、飛ばされた虔治の身体はドアをひしゃげさせながら廊下の壁に勢いよく叩きつけられた。


 肺から一気に酸素が逃げていくような息苦しさ。虔治は廊下の壁に背をつけて、なんとか立ち上がった。


 追いかけてきたアイーシャは、まさか相手がまだ立ち上がるとは思っていなかったようで、意外そうに口を開いた。


「『癒』か」


 虔治がかろうじて意識を保ち、ふらふらながらもその両足で身体を支えていられている理由。

 答えは彼から昇る魔力マナだった。 彼の全身を血のように巡る魔力マナが身体の表面からじわじわと溢れ、巨大な球体のような形を取り、彼を包み込む。すると、不思議と虔治の傷が塞がっていく。曲がった鼻、欠けた歯、などの欠損も、まるで時間が巻き戻っていくかのように治り、口の端や鼻穴から垂れる血だけが不自然に付いていた。


 『フーバ皇国』が編み出した回復魔法は、虔治の『増幅ブースト』のような固有魔法とは異なり、魔力マナを扱える者ならば例外問わず使用可能だ。


 とはいえ、一種の技巧のひとつであるのは確かで、見よう見まねでぽんとできるようなお手軽さでもない。

 傷を埋めるのと引き換えに、虔治は繊細な魔力操作に非常に集中を割く必要があった。


「回復するのだって、タダでとはいかない。慣れない作業は必要以上に魔力マナを浪費する。何回もできることじゃねえだろ?」


 アイーシャの正確な指摘に、虔治は焦りも動揺もせずただ荒い息を吐く。


「……解らねえな」と独り言のように言葉を続ける。「慣れない回復をして頭が痛くなって、精神的にも疲労し、あんな目に遭わされても尚、戦おうとするその意思はなんなんだ? どっから出てきてる? お前は戦士じゃねえ。別に、ここで諦めても誰も文句言わねえだろ」


 目の前に立っているのは、『マキナ』や『派遣ビーファ』のような戦闘慣れした人種ではない。ただの民間人だ。にも拘わらず立ち上がろうとする理由が、彼女には解らなかった。


「そういや、最初に言ってたな。『禁忌の人物史アカシックエラー』よりも活躍するチャンス、だとか。つまり、名声か? けどよ、そんな痛い目に遭うまで手にして得するモンなのか、それは」


 虔治は連々と述べるアイーシャの様子を、何も返さずじっと見つめている。回復はすっかり済み、打撃による傷は内外問わず治っていた。


「悪いことは言わねえ。そこに大義や使命がないってんなら、こんな無謀な戦いからはさっさと身を引きな」そう言う彼女からはどんな感情も読み取れなかった。


 ぞんがいに、自分の相手をするには役者不足だと言い渡すアイーシャ。

 それが彼女の優しさであること、不必要な命の奪取をすることへの忌避感に即した冷酷の裏返しであることに、彼は気付けただろうか。


 回復を施し終え、魔力マナの放出を留めた彼は、そんな彼女の情けを知ってか知らずか、「へへ」と短く笑いを洩らす。


 場違いなその反応に、アイーシャは眉間に皺を寄せる。


「弱いクセに出しゃばるなと言いたいんだろうが、んなもんうるせえんだよ」


「なんだと?」


「テメエがどんな御託を並べようが関係ねえ。こっちはようやく暖まってきたところなんだよ。長々と語る暇があったらさっさとかかってこいよ」


 その言葉が虚勢であることは明らかだった。『癒』で傷を治したにも拘らず、彼の状態は改善したとは言い難い。魔力マナの消費が激しく、精密な操作に精神を削られていた。


「それとも、まさか怖気づいたわけじゃねえよなア?」しかし、虔治は重たい身体に鞭打つように強気な態度を示した。「そんなわけねえよな。あんな軽い、を一発くらわせただけで終えるなんて。俺はこの通り五体満足なのになあ! 了解! じゃあ、今回の勝負は俺の勝ちってことで!」


「……本気で言ってるわけじゃねえよな?」


 虔治は掌に溜めていた魔力マナを背後に放出する。先刻の威力とは程遠いものの、今回は攻撃用途ではなく、己を走るよりも素早く敵に接近するための推進力として発動させた。


 掌から噴射する魔力マナは、放つと同時に前に跳んだ虔治の身体を押し上げる。空いていた距離を瞬時に近づき、佇んでいた彼女に不意打ちを仕掛ける――――。


「へえ、そんな使い方もできんだな」アイーシャの声色は穏やかな水面のようだった。


 接近と共に振りかぶった虔治の拳を、彼女は予測していたかのように首を動かすだけで躱した。


 そして、素通りしていくその腕を掴み上げる。


 その逆の手で、近付いてくる彼の顔に裏拳を合わせると、躊躇なく勢いをつけて叩きつけた。


「ぶはッ!?」


「お前の魔法は、簡単な話、力を込めたものを一気に放出する時間強化型だ。経過した時間に応じて、その威力が左右される」


 ボーリングの球で横から殴り付けられたような重い一撃に呻く虔治。衝撃に呑まれて思わず仰け反るが、彼女に捕らえられた手がその反動を許さない。


「強い。確かに強い。それは、さっきの攻撃からでも解る」


 掴んでいるほうの手を手前に引く。

 虔治の身体が彼女の眼前まで引き寄せられる。


「けどな――《あれぐらい》なら、わざわざ時間をかけずともオレも出せるぜ」


 身に迫りくる危険を解っていながらどうすることもできず、抵抗しようにも相反する力は強大なもので、虔治は成す術もなく腹部に掌底を叩き込まれた。


 虔治の顔が苦痛に歪む。背中とお腹が絞り上げられて胃酸が込み上げてきそうな苦しさに蝕まれる。


 さらに、アイーシャは身体を捻り、くるりと回ると、彼の側頭部に目掛けて蹴りを放った。魔力マナで強化された足刀は、風を纏うような素早やさで、普通の人が食らえば首の骨が折れてもおかしくない威力だった。


 横からの一撃に、虔治は完全に体勢を崩し、廊下の床に吹き飛ばされながら勢いよく転がっていく。


「圧倒的に経験不足なんだよ、お前は」激しい動きの連続ながら、アイーシャは涼しい顔で倒れ伏す虔治に話しかける。「目まぐるしい戦いに意識が追いついていっていない。魔力マナの扱い方もてんでなっちゃいない」


「……………………」


「お前の必死こいて溜めた攻撃は、ようやっとオレの通常と同等でしかない。『マキナ』の雑魚相手ならそれでもどうにかなるだろうがな、知恵のある者――野生じゃない存在を相手するには、お前の実力は半端だ。オレらの前に立ちはだかるだけの資格が、お前にはねえ」


 ビシバシと厳しい言葉を叩きつけるアイーシャ。

 しかし、それが現実である。


 二人が対等に拳を交えるには、圧倒的に虔治の側の経験数が足りない。

 当然のことだ。彼はただの高校生で、家族のために自ら研究材料を志願する、ちょっと変わった運命を持つ雑多に過ぎないのだから。


「……まだ懲りねえのか」


 そううんざりするように言ったのは、虔治の身体が再び傷を癒す魔力マナで包まれ出したからだった。


「そうやったところで、ただの焼き直しになるだけだ。いや、魔力マナを消費する分、もっとキツくなる。自分から飛び降りてるだけなんだよ、お前は」


 訴えかけるような指摘に構わず、虔治はひたすら自分の回復に努めた。


 ――これでいい。


 しかし、内心では、アイーシャの言葉に打ちひしがれることなく、痛みや疲れに嘆くこともなく、ひとつの未来を見据えていた。


 ――俺は勝てない。

 ――そんなことは解ってる。

 ――けど、こうして俺が少しでもこいつを引き付けておけば、狙われてる冴山さんに逃げる猶予を与えられる。


 彼はその一筋の未来を目指すために、この無謀な戦いをやめるつもりはなかった。


 もはや、立ち上がることも容易ではなく、蛍光灯の目映い光を見ながらひたすらに『癒』を発動しているだけだった。


 しかし、彼女が追いかける素振りを少しでも見せようものなら、即座に反応できるように細心の注意を払いながら。


 そう。彼は――この戦闘の始めから、そのことだけを念頭に置いた戦法を取っていた。


 ――最初から勝てるなんて思ってねえよ。

 ――俺にできんのは、醜い泥みてえにテメエの足にしがみつくことだけだ。


「…………なあ、もしかして、時間稼ぎのつもりか?」


「っ……!」


「解りやすい反応だな」


 虔治は内心で舌打ちする。こちらの狙いに勘づかれた。しぶとく立ち向かい続けることで、意識を冴山さえやま香織かおるから逸らすつもりが、こうも早く気付かれてしまうとは。


 ――いや、関係ねえ。

 ――要は、俺を放っておいたらヤバいと思わせたらいいだけだ。

 ――やることは何も変わらねえ。


 そう思い直し、魔力マナを拳に溜め込もうとするが、


「…………」アイーシャは何故なぜか好戦的な姿勢を見せず、物思いに耽るように顔を俯かせていた。


「おい、どうしたんだ? やる気がないならこっちから行くぞ」自分を無視して彼女を追いかけようとしているのではないか、と焦った虔治は挑発的な言葉を浴びせかける。


 しかし、次のアイーシャから飛び出した行動は、勝負の意思表示でもなければ、身を翻して標的を追いかける仕草でもなく――物憂げな眼差しで彼を見ることだった。


 それは邪魔をしてくる彼のしつこさに嫌気が差したとか、この繰り返されるやり取りが億劫とか、そういう類のものではなかった。


 言ってしまえば、近くに大量の真水が埋まっているというのに、それを知らず遠くの河川まで水を汲んでいる人を見るような、哀れみの色が込められていた。


「……はあ」と彼女はため息をつくと、「そんなことのためにこんな無謀なことやってんのかよ」


「……いきなりなんだよ」


「そんな傷だらけになってまで」虔治の声には反応せず、アイーシャは言葉を思ったままに吐き出す。「可哀想な奴だな。同情すら感じるよ。テメエの行いが、最初から最後まで見当違いで――お手本なぐらいに、申し訳なさすら感じるよ」


「どういうことだよ……」


「悪いな」アイーシャは心の底から謝意を表しているようだった。「オレは元から囮なんだよ。本命――あいつの居場所が解る術を持ってるのは、他の奴だ」




 P.M.6:25 創明大学 地下シェルター内


 香織は居住区を出ると、様々な施設に向かうための通り道の一端である共有スペースにおもむいた。

 そこは手持ち無沙汰な避難者がぶらつく広場のような認識が強かった。

 憩いの場や休めるベンチなどがあるわけではないが、地上の『マキナ』に恐れを抱く彼らの心境からすれば、この何もない空間が最も心に寄り添ってくれる、という意見も少なくなかった。


 いつもであれば静謐に時間が流れるこの場所だったが――今はバタバタと恐怖に駆り出された人々が、慌ただしく靴底を地から離しては地に着ける行為を繰り返していた。


「落ち着いて避難してください!」という避難の案内を努める警官の姿も確認できた。


 シェルターの各施設に設置されたスピーカーからは、「侵入者の存在が確認されたために一時警察や自衛隊の方々の指示に従って避難してください」という放送がかれこれ13回以上は続いていた。これは、虔治がアイーシャを惹き付けて香織が逃げ出してから始まり、それからは頭上を支配するように絶え間なく響いていた。

 シェルターの管理を行っている公共機関の考えとしては、民間人をシェルター内の一箇所に集めることによって、防衛の厚さを強化し、侵入者の撃破をしやすい環境を作ろうということなのだろう。


 侵入者が誰であるとか、重装備を固めた戦闘部隊が出動しているとか、細かい説明まではなされておらず、避難者からすればその正体が『マキナ』かどうかすら解っていない状態だった。


 しかし、彼らは知ってしまった。思い出してしまった。地上で受けた暴虐の限りを目撃、体験してしまったことによって、自ら鍵をかけていた奥底に眠る潜在的な恐怖。味わった苦痛を。

 事の重大さを何も理解していないとはいえ、それを心に抱えている限り、彼らはとても冷静ではいられない。安全のはずのシェルター内は、もはや地上と変わらない阿鼻叫喚に満たされていた。


 香織は誰一人として通らない居住区の出入口から、その喧騒に塗れた人混みを見渡していた。


 ――やっぱり、もう収拾がつかないぐらい大騒ぎになってる……!


 眼前に広がる光景は、ここまで走り続けるまで想像していた通りだった。


 我先にと逃げる避難者。恐怖と焦りの伝染。


 ドタドタと動く彼らから煙のようなものが昇り、融合し、肥大化し、逃げる彼らを呑み込もうと激しく渦巻いているような不穏さを感じ、香織の心をざわつかせていた。


 ――もしも、ここにアイーシャさんが来たら、もっとパニックになって、それこそ目も当てられないような状況になっちゃう。


 やはり、あそこで大人しく捕まってしまえばよかったのではないか? そんな考えが頭から離れない。とはいえ、この恐慌状態は香織がアイーシャと出会う前から始まったことで、彼女の選択でどうこうできるレベルを超えていた。それを理解していながらも、何もできない自分がもどかしく思い、今からでも居住区のあの場所へ戻るべきではないか、という思いが芽生えつつあった。


 切迫した声を張り上げる案内役の警官や繰り返される非常事態の放送が、無関係な人々を巻き込みたくない彼女の心を追い込む。


 ――この状況、玲旺れおならどうするんだろう……。


 差し迫った状況に、十年来から愛している男の姿が思い浮かんだとき――


 目の前で一人の女の子が転んだ。


 死からの逃走に焦りを禁じ得ない避難者の群れ。警官の声が聞こえているのかも怪しい忙しさから追い出されるようなその少女は、倒れた後は動く気配がなく、周囲の避難者たちはその姿には目もくれず走ることを止めない。


「大変!」誰も足元を気にかける余裕がなく、このままでは踏み潰されてしまうのではないか、という最悪の未来が香織の頭に過ぎった。


 慌てて少女に駆け寄り、その両肩を抱きかかえた。「大丈夫?」と呼びかける。少女は香織とあまり変わらない身長と体格で、平均より小さい香織より下の年齢である可能性が高かった。しかし、鍔の長いキャップを目深に被り、ふわりと舞うようなロングスカートはどこか優雅さを醸し出しており、オシャレだけで比較するなら年上のような気もした。


「うん、大丈夫」という返事があった。


「ここは危ないから、焦らず、落ち着いて避難しようね」


「うん。でもビックリしたよぉ」


「そ、そうだよね。突然、侵入者が出ただなんて、ビックリするよね」


「そうじゃなくてさぁ……」


 罪悪感に苛まれる香織に、少女は相槌のように言葉を返す。その口調は非常にゆったりマイペースに紡ぎ出され、逃げたいがために転倒してしまった先刻の行動と明らかにズレていた。


 そのとき、香織の脇腹に何かが当たったような感触が走った。「え」と反射的に、視線を下にやってしまった。


「ビックリしたのはねぇ」と少女は間延びした口調で続けた。「こんな有り触れた方法でまんまと来てくれることに、だよぉ」


 己の身体に当たった何かの正体を確認した後、香織は改めて少女の顔に眼をやった。


「やあ、冴山香織さん。私の名前、覚えてくれてるかなぁ?」


「ミデア……アルファムさん……」


「あったりぃ」意図的に顔立ちを解りづらくしていたミデアは、香織に名を当てられたことによって満足した表情を、帽子の鍔を上にして見やすくした。「私のこと覚えてくれてたんだぁ。会議のとき、ちょっと顔を会わせただけなのに」


 マーダー小隊の面々とは、お風呂で言葉を交わしたリハナを除けば、『首相官邸奪還作戦』の会議時でテーブル越しに顔を突き合わせてだけでまともに会話もしたことがなかった。

 それでも、数日前、ましてや異世界人の存在が頭から離れるわけもなく、目の前の少女がマーダー小隊のミデア・アルファムであることはハッキリと思い出すことができた。


「こっちは殆ど覚えてなかったから、別にバレることはないと思ったけどぉ。一応、変装しておいてよかったねぇ」ミデアはそう言うと帽子やロングスカートに眼をやった。全身を覆うようなブカブカの洋服は、『獣人デュミオン』の特徴である耳や尻尾を完全に包み隠していた。


 香織は視線を下にやった。身体にずっと当たっている感触。その正体を確かめようとした。そこには予想通りのものがあった。転んだ彼女を起き上がらせようと正面を向いたその腹部に、拳銃が当てられていた。周囲の人に気付かれないように、香織が着ている白衣の下に忍ばせていた。


 容赦なく襲いかかる死との隣り合わせに、急速に喉が乾涸びていくような感覚を覚える。


「今は大人しく従ったほうがいいと思うよぉ」のんびりとしながらも、彼女は躊躇いもなく引き金を手にかけていた。


「ど……」

「ど?」

「どうして、ここに……?」香織はようやっと出た言葉は、そんな常套句だった。


 アイーシャが壁を壊して現れたときにも、同じ台詞が飛び出したはずだ。人とは得てして、追い詰められた局面では思い通りの言葉が出ないものだな、と香織は苦笑してしまう。


「んー? 私達の目的はアイーシャから一通り聞いたと思うけどぉ?」


「じゃあ……やっぱり、ミデアさんもボクをさらいに来たんだ。……玲旺に勝つために」


「君の幼馴染みは未知数でさぁ、聞く話も全部噂の域を出ないしぃ。念には念を入れても越したことはないかなあ、って」


「逃げてください」と激しい放送と呼び声が響く中、道の途中で膝を着き、小声で何か会話をしている二人の姿を、周囲の避難者は邪魔な荷物を見るように通り過ぎていく。


「この騒ぎはボクを拐うためだけに起こした、ってことだよね」香織は少しトゲのある声で言った。「そんなことのために、みんなを巻き込んで……」


「それはね、不可抗力って奴だよ」


「不可抗力は言い訳に使う言葉じゃないよ」


「いや、本当なんだって」ミデアに取り繕っている様子はなかった。「私としては穏便に済ませたかったんだよ。今みたいに静かに近づいて、君だけをこそこそと連れ出そうと考えてたんだ。それを、アイーシャが勝手なマネをするからさぁ」


「このシェルターはたくさんの警備がいたはず。『獣人デュミオン』の耳や尻尾は、今みたいに洋服で隠せるかもだけど、シェルターの入口には常に見張りがついてて、外から来た人なんて絶対に見逃すはずがないよ」


「それはねぇ。怪我人のフリをしたんだよ」


「怪我人のフリ?」


「そう。怪我をした避難者は問答無用でシェルターに匿われるでしょ。それを利用して、救助隊の人達に運んでもらったんだよぉ。その間も、耳と尻尾は隠さなきゃいけないから、結構苦労したんだよぉ?」


 『マキナ』に襲われたり、奴らの倒した建物の下敷きになったりして発見が遅れた生存者は、殆どの場合において重傷を負い死期を彷徨っていることも珍しくなく、そうした彼らはまず大学内の病室に運び込まれるため、すぐにシェルター内には案内されない。


 しかし、軽傷で済んだ、もしくは自力で逃走に成功した生存者に限ってはそのままシェルター内に案内される。ミデアはその仕組みを利用したのだろう。


「だとしても、この広いシェルターからボクを見つけて連れ出そうなんて、無茶にも程があるよ。時間がかかりすぎるし。君達にのんびりと捜し出せる時間があるなら話は別だけど」


「まあ、そこらへんもちゃんと考えはあったんだけどねぇ」と言ってから、ミデアは些細な動きを周囲を確認した。そろそろ、この大騒ぎの最中で話を続けるのも煩わしくなったのかもしれない。「お互い、積もる話もあるだろうし――ちょっと、人けのないところに行こっかぁ」


 と提案の提案のような口ぶりで話しかける彼女だが――それと同時に香織の脇腹に押し付けている小型拳銃を意識させるように動かしたことからも、それが提案ではなく命令の類であることは明らかだった。

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