第1話 黒点の空


 A.M,11:25 JR山手線 電車内


 神宮寺じんぐうじ玲旺れおは無職だ。

 年齢は25。バイトもしていないのでフリーターでもない。そもそも、就活もしていない。高校を卒業してからはなんとなくの気分で日々を生きていた。

 大学に入学する道も考えはしたが、入ったところで何かをしたいとも思えず、入学後と今の生活に大した相違があるように思えなかった。暇潰しに勉強するのもいい気はしたが、使う場面が思い付かず、実らない果実を育てているような気分になり飽きた。結果、今は野良猫や野良犬と戯れるのが唯一の楽しみの駄目人間に成り下がっていた。


 今日も、幼い頃からの友人と昼食を取るために電車に揺られていた。頭の中は、奢りと目的地付近の高いお店のことばかり考えていた。


 ――今日は最近開いたばかりの、あの中華屋でいいか。

 ――アイツはっとくと駄菓子を間食して終わるからな。俺がちゃんと責任をもって食わせてやらないとな。


 などと言いつつ本音は自分が食べたいだけなのだが。くまでもあちらを主軸に考えたという体裁にする神宮寺。これから会いに行く友人とは、それだけ気の許せる相手なのだろう。


 ガタンゴトン、と揺れながら進む電車。

 外の風景に眼をやれば、高層のビルが連なる東京の街並みが高速で通りすぎていく。高速、といっても神宮寺が乗っている電車は各駅停車なので、特急や新幹線に比べればのんびりとしたものだろう。まるで平和の象徴のようにも思えてくる。しかし、そんな平和の象徴も、我らが人類とは比較にならないほどの速度で走ることができるのだから、神宮寺は人類の欠点を見つけたような、どこか恥ずかしいような同情するような気分になった。

 車内から見る風景は代わるがわる後ろに追いやられていく。唯一、どこまでも広がる青空だけが、神宮寺に懐いてついてきているように見えた。


「ちょっと、マジありえないんだけど」


 不意に、後ろから若々しい女の声が耳に届いた。ちらりと見やれば、扉近くの座席で腰を下ろしている二人組の女がいた。


 神宮寺は扉の脇に立っていた。車内は空いており、わざわざその位置を陣取る必要性はなかったのだが、降りるのが次の駅なので移動が面倒くさかった。二人の女は、銀色の柱を挟んだとなりに神宮寺がいることに気付いているのかいないのか、こちらにも聞こえるぐらいの声量で話し始めた。


「霧谷のヤツ、私だけに滅茶苦茶な量の課題を出しやがって。何が、『篠原さんには特別に』よ。教師が私情挟むんじゃないわよ」


「でも、そういうアコちゃんだって、霧谷先生の授業に、平気で遅刻するわレポートもサボるわで滅茶滅茶なことしてるよね。自業自得だと思うけどなあ」


「だ、だとしてもやって良いこととやって悪いことがあるでしょ。他に履修してる授業だってあるわけだしさあ。これで他の課題が遅れて、霧谷先生が私にだけ多く課題を出したから遅れました、って言ったら怒られるのはあっちじゃないの?」


「アコちゃんが課題ができないのはいつものことでしょ」


「水を差さないでよ、ユウカ」


 会話の内容から察するに、二人はどこかの大学生のようだった。アコ、という女性が教師の文句を垂らし、ユウカ、という女性がそれを受け止めている、というよりは軽くいなしているようだった。

 二人は大学に向かっている途中なのだろうか。両者の間には年季の入った空気が漂っていた。一見すると仲が悪いようにも聞こえるやり取りだが、そこには信頼できる相手だからこそ出せる遠慮のなさがあるように感じた。


 ――友達、ね。


 神宮寺は友達に恵まれなかった。今でも続いている交友関係と言えば、今から会いに行く友人ぐらいのものだった。


 ――まあ、それすらも純粋な友人関係と呼べるかも怪しいが。


 思いがけない感傷に苦笑する神宮寺。その間も後ろの二人の会話は続けられていた。


「あーもう、話してたらもっと腹立ってきた」


「じゃあ、もう話さなければいいのに」


「これって、何かのハラスメントじゃないの? 課題を多く出す嫌がらせ。カダハラだよ、カダハラ。あーあ、私も『魔法』が使えたらなあ」


「なんで急に魔法?」


「だって、『魔法』があればなんでも願いが叶うんでしょ? 私が魔法を使えたら、勉強なんかしなくても頭をよくして、そんでイケメンの彼氏を召喚して、スイーツいっぱい食べれるようにするのに」


 神宮寺は息を吹き出しそうになるのを必死に堪えた。二十代女性の見る夢にしてはあまりに幼稚なものに思えたからだ。


 ――魔法、ね。

 ――みんな、そんな良いものに見えるのかね?


 これまで常識の外だった、空想の域を出なかった存在が、手の届く範囲にあることが判明し、それに憧れを抱く気持ちは解らなくもない。AI技術やVR空間にしたって、十年前では実現するとは思えない天の上の技術だったのだ。体験してみたい、という気持ちが芽生えるのは不自然ではない。


 ただ、魔法があればなんでも願いが叶う、とは流石に現実逃避が過ぎる。そのような万能な力であれば、今ごろ地球は、にはなっていないはずだ。


 ――ま、ある意味、平和とも言えるんだろうが。


 平和。

 どんな場所でも、どんな状況でも、どんな人でも、願ってやまない祈りの象徴。裏を返せば、誰でも使える気安い言葉。

 そんな大衆的な言葉が、一年以上前には心から願われていたのだから、時代の遷移せんいとは解らないものである。


 ――ほんの少し前までは、誰もがこうやって窓を眺めては空からの襲来を恐れていたものだが……。


 一年前にさかのぼったような気分で、神宮寺はもう一度電車から見える風景を眺めた。


 そして、身体が固まった。


 後ろに流れていく街並み。

 変わらない青空――のはずだった。


 雲ひとつなく、嫌味なほどに青く澄み渡った空に、ポツンと黒い点が浮かんでいた。

 それは、窓ガラスに付着した黒い汚れかと見紛うほど、小さく輪郭もおぼろだった。

 ただ、それがゴミなどではないのは、街並みと一緒に進行する電車から置いていかれていることからも明らかだった。


 ただし、黒い点は未だに青空に残っていた。

 それが、段々と増えていることに神宮寺は気づいた。


 視覚の不慮とすら思えてくる謎の黒点。それらが青い敷地の半分以上を占めるようになるまで、時間はかからなかった。

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