5.沈香と纏色②
翌朝、朝餉の前に冬真が様子を見に来て、朝餉の後には衛冬が客間を訪れた。
「顔色がいいね、良かったよ」
「温かい布団と食事のお蔭です」
福寿が丁寧に手をついて頭を下げると、後ろに控えていたミツも同様に頭を下げた。
「単刀直入に聞くけど、柊家での福寿の待遇はどうだったの?」
福寿は答えることができず黙る。衛冬は視線をミツに向けた。
「畏れながら申し上げます。お嬢様の扱いは、使用人以下でございました。お部屋は狭い物置に。食事は白米が茶碗に半分もなく、汁椀には味噌汁の上澄み、それのみ。もっと食べていただこうとこっそり品を増やしても、告げ口をする者がおりまして……。お召し物は一年に一枚仕立てていただければ良い方でしたが、二年前からは与えられず。古着に鋏を入れては着れるものを補修しておられました。お風呂も使用人が使ったあとの冷えた残り湯です」
ミツの声は後半、震えていた。
「どうしてそのような酷い扱いになった? 実娘だろう? 原因を知らないのか?」
ミツは言い淀み、福寿を一度見る。
しかし福寿には原因など分かるはずもなく、何も言えることはない。
それに福寿はそれが当たり前だったため、どう酷いのか、いまいちよく分からない所もある。
「その……原因と言えるか分かりませんが」
「ああ、心当たりのあることで良い。話してくれるか?」
「しかしお嬢様の前で申し上げることは……」
「憚られる?」
ミツは小さく「はい」と返事する。
「福寿、これからさらに辛い真相を聞くことになるそうだよ。福寿だけ席を外すかい? それとも一緒に話を聞く?」
福寿は迷うことなく「聞きます」と返事した。
「だ、そうだよ。話してくれるかい?」
ミツは一つ頷くと、ミツの知る真実をゆっくり話し始める。
「福寿お嬢様は、奥様の初めてのお子です。お生まれになった日は産湯の取替えをわたしも手伝いました。今になっても産声もはっきりと覚えております。屋敷中に響くほど大きなお声で泣かれておりましたから」
ミツは一度そこで息を継ぐ。
「奥様は福寿お嬢様をお産みになると、産後の肥立ちが悪く、しばらく伏せておいででした。静養ののち起き上がれるようになった奥様はお嬢様をその腕に抱きましたが、お嬢様はずっと泣き続けておられました」
福寿の表情はあまり変わらないが、唇の間に隙間ができる。
今となっては泣くことも忘れた気がするが、赤子の時分に今の分まで泣いていたのかもしれない。
「昼夜関係なく泣くお嬢様に、奥様は精一杯育てようと努めておられました。乳をやり、おしめを替え、暑くはないか寒くはないかと気にかけ、お嬢様がどうしたら泣き止んでくれるのか、眠ってくれるのかと頑張っておいででした。しかし奥様が頑張れば頑張るほど、お嬢様は大きく泣くのです。ある日、お嬢様は縁側に転がされたままひとり泣いておられました。奥様は自室に引きこもり、布団をかぶって『泣き止んで』と繰り返し叫んでおいででした……」
福寿はそのような母の姿を想像することができなかった。
「……縁側で泣くお嬢様をヤヱが、……ああ、わたしの娘の名前でございます。娘のヤヱがお嬢様を使用人室に連れて行ったのです。お嬢様の泣き声が聞こえなくなってはじめて、奥様の肩から力が抜け落ちたのだと思います。産前のような晴れ晴れしいお顔が懐く感じるほど、奥様は子育てに苛まれておいでだったのです」
「薫子殿は福寿を自分の手で育てることを放棄したのか?」
「いいえ、始めは違いました。しかし、ヤヱが抱くとお嬢様は泣き止んでしまうので奥様もヤヱに任せることが増えてしまったのです」
それはどう見ても福寿が悪いのだと感じた。母の手の中で泣き止まない娘が、他人に抱かれて泣き止む様子を見た母は気が狂ってしまわなかったのだろうか。
「それからだんだんと、奥様はお嬢様と関わらないようになってしまわれ……。しかも牡丹お嬢様が生まれると、よく眠る牡丹お嬢様を可愛がるようになってしまいました。牡丹お嬢様の可愛がりかたは異常なほどでございます。なんでも牡丹お嬢様が優先です。牡丹お嬢様を優先すればするほど福寿お嬢様は蔑ろにされました。声が聞こえることも厭われ、喋るなと厳命されております。今でも思うのです。ヤヱのやったことは正しかったのだろうかと。奥様から福寿お嬢様を離したことは本当に正解だったのだろうかと……」
「そうか……。話してくれてありがとう」
ミツの悲しみが衛冬にまで伝播したように、衛冬の声音が落ちる。福寿はちらりと見上げた。衛冬の眉尻が下がっている。
「福寿、少し歩けるかい?」
「はい」
福寿の返事を聞いて衛冬は立ち上がる。右袖がむなしく揺れた。
「気になる?」
「あ、……いえ。不躾な目を向けてしまい申し訳ございません」
「謝らないで。別に隠してないし、みんな知ってることだから」
福寿は衛冬の右腕がない理由がなんとなく分かっていた。五蘊魔との会話でそうなのではないかと――衛冬の右腕は五蘊魔に食べられたのだと思った。
「散歩でもしようか」
「はい」
客間を出た衛冬の背を福寿は追う。福寿の歩幅に合わせているわけではないのだろうが、衛冬は一歩ずつを楽しむようにゆったりと歩いた。
衛冬は歩きながらその腕についての話をするのかと思ったが、その口は微笑んだまま閉ざされている。
衛冬が右を向けばその視線を追って福寿も右を向く。開いた障子の向こうにある中庭は白石が敷き詰められている。
茶色の鳥が、一羽、二羽と降り立った。
「スズメ?」
「あれはホオジロかな」
「ホオジロ?」
福寿がよく見ようと近づくがすぐに飛び立っていった。
「似てるけど、違う鳥だ」
衛冬の軽い口調が変わり、真面目なものになる。
「衛冬様?」
「スズメはさ、ホオジロにはなれないんだ」
当たり前のことを言っているはずなのだが、衛冬は気に掛かる言い方をしたように思った。
「冬真はね、活発な子で、それこそ大きな口を開けて笑うような子だったんだ」
「冬真様が?」
冬真のことはまだ知らないことが多いが、控えめに微笑む人だと感じていた福寿には、大きく口を開けて笑う冬真が想像できなかった。
「それに、鍛錬よりも遊ぶ方が好きだったんだよね~」
衛冬の視線がすっと、長い廊下の先に向かう。
福寿は廊下の先に何があるのかと目を凝らした。その時、軽やかな弓の音がした。
「これは、冬真様の弓ですか?」
「そう。朝、福寿の所に顔を出してからずっと鍛錬してるんだよ」
冬真がいるのは奥庭。
廊下の途中で足を止めた衛冬は冬真が弓を構える所まで見て、静かに横にある部屋に入った。
「そんなに熱い視線で見つめていたら冬真に気付かれてしまうよ?」
「申し訳ございません」
鈴が鳴るような弓の音を聞きながら、福寿は室内に足を入れた。薄暗く感じるのは窓が一つもないのに灯りがないせいだろう。ふわりと鼻をくすぐる芳香にはどこか覚えがある。福寿の頭に冬真が浮かんだ。
「閉めてくれる?」
衛冬の命を聞いて福寿は襖戸を閉めた。それにより四方の襖がぴたりと閉じられたことになる。灯りのない暗い部屋であるはずだが、福寿は衛冬がどこにいるかぼんやりと見えていた。
衛冬の向かいに正座する。
「すごいね、やはり視えているんだ」
福寿は首を傾げた。
「この部屋は、鍛錬の間。霊力を安定させる仕掛けがある」
そう言われても福寿は霊力というものがいまいち分かっていなかった。
「仕掛けと言っても、これだけど」
衛冬は福寿との間にある白磁の香炉を示した。
「
衛冬が香炉の上で左手を払う。押し流された空気が沈香の香りを福寿に運んできた。
「弦士大学で最初に習得するのは何だと思う?」
弦士大学に落ちた福寿には到底分からない質問に戸惑う。
「霊力をお腹に溜めることだよ」
「お腹に、溜める?」
「そう。そして福寿はそれをすでに習得している」
「わたしが?」
「そうだよ」
福寿はお腹に手を当ててみるが、いつもと何も変わらないと感じた。
「私の
「衛冬様の? いえ、今は衛冬様がそこにいるということが何となく分かる程度です。でも先日視た、衛冬様のあの針のような矢は、夜空のように藍色の混ざった黒色に見えました」
「じゃあ今からもう一度視てみよう。まずは目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返す」
福寿は衛冬の指示に従う。鼻から息を吸うと沈香の香りがお腹の奥に入っていく。何度か繰り返すと真綿に包まれたような心地よさを感じるようになった。少しでも気を緩めれば寝てしまいそうになる心地よさだ。
「福寿、今度はぐうっと全身に霊力を行き渡らせる」
「ぐう?」
「そう。ぐうっと」
抽象的な説明に首を傾げながら、内心で『ぐうっと』力んでみるがきちんとできている実感はない。
「もっとぐぐっと!」
「……」
「違うよ、ぎいっと」
「……」
「そうじゃなくて、がががっと!」
福寿は集中するために閉じていた目蓋を開けた。衛冬が首を右に傾けるので、福寿は左に傾けた。合わせ鏡のようになった二人の耳に室外から声が届く。
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