9.主席と落ちこぼれ
日曜の午後。
四人は静かな弦士大学の教員室にいた。電灯は点けていないが、窓から太陽の光が差し込んでいるので暗くはない。
外からは見えにくい教員室の一番奥。そこにある桐の棚を開錠した和美が紙束をどさりと出した。手前が一番新しいのだろう。その中には牡丹の答案用紙もあるはずだ。
和美が二年前の束を出す。紐でまとめられているため、和美が紐を解いていく。
一番上に乗っている紙には受験者一覧があった。【十番 柊福寿】と名前があることを確認して四人が頭を突き合わせて頷く。
和美が受験者一覧をめくる。二枚目からは答案用紙だった。答案用紙には名前の記入はなく、番号のみ記入するようになっていた。
十番の答案用紙を和美が引き抜く。
「これですね」
小声で囁く和美から、紙を受け取った福寿はそれの違和感に首を傾げた。
「どうしたの?」
「この『弦』という字ですが、弓偏の下のハネをわたしはこんなに大きくハネて書かないなぁと思いまして……」
「緊張して手が震えたとか?」
「そう言われてしまうと……」
絶対に違うとは言えない。なにせ二年前の事だ。確かに緊張していたことは覚えているが、いつものようにきっちりと字を書いたかと問われれば、福寿は覚えていないと首を横に振るだろう。
「他におかしいところはある?」
冬真に訊かれて悩む福寿の横で、衛冬が別の答案用紙を抜いた。
「和美さん、問題用紙も残っていますか?」
「束の一番後ろにあるはずです」
和美が紙束をひっくり返すと、文字がびっしりと詰まった問題用紙があった。
衛冬はその問題用紙と、別の答案用紙を机に並べて、視線を左右に何度も往復させる。
そして福寿の答案用紙に視線を落として眉をひそめた。
「兄上?」
「……うむ」
衛冬は机にある答案用紙を左手で持つと、皆に向かってそれを示した。
「これは三番の答案」
「三番は」
冬真が一覧を確認する。
「
「え、僕の?」
「菖蒲!?」
どこから現れたのか、いつの間にか四人の輪の中に一人増えていた。
「榎くん、今日は休講日でしょう。なぜここにいるのですか?」
和美が顔を青くしている。
「この前、衛冬様と冬真先輩が来てたからきっと面白いことがあるなと思って……」
「帰りなさい」
「ええ~」
「今日のこと他言無用にできる?」
衛冬が菖蒲の肩に手を置くと、菖蒲がにっこりと笑ってみせる。
「はい、衛冬様!」
「和美さん、私が責任を持ちますので」
「……はあ。分かりました」
和美が胃を押さえた。
「それでそれで衛冬様! 僕の答案が何ですか?」
「うん。菖蒲くんと福寿の解答を比べて欲しいんだ」
三番と十番の答案用紙が机に並べられる。
「答えが全然違う!?」
「そう。そして菖蒲くんのは何問か間違えはあるが、ほぼ正解している」
「よしっ! 手応えはあったんだよ」
「それなら、福寿の解答はほぼ不正解?」
「そうなんだよね」
冬真が顔をしかめて「まさか」とこぼす。
「いえ、わたしは落ちこぼれですので、きっと全問不正解なのでしょう」
福寿は恥ずかしさに居たたまれなくなった。涙が出そうになるが、ぐっと堪える。
やはり本当に勉学のできない落ちこぼれだと、衛冬と冬真に認識されたのだ。
穴があったら入りたい。隠れたい。逃げたい。消えたい――そんな負の感情が福寿の心を覆う。
「でもね、ここまで不正解が多いと逆に怪しいと思わない?」
「確かに。正解して良さそうな問題さえ間違っているのはちょっと怪しいです」
「福寿、『弓を持ち、あやかしを祓う者を何と呼ぶ?』」
「弦士?」
「そうだね。でも二年前は『武士』と書いているんだ。どうして弦士と武士を間違う? むしろこれは意図的に間違ったとしか思えない」
「意図的?」
「福寿が受かりたくなくてわざと間違って書いたとか」
「そんな……」
「そんなわけないよね。私たちもそう思うよ。とすると、考えられるのは」
「改ざん?」
「そうだね」
「誰が!?」
空中を睨んで衛冬と冬真が悩む。
菖蒲は福寿の答案用紙を睨んでいた。
「なんかこの筆跡どっかで見たような……」
「どういうことだ菖蒲?」
「ああ、あいつだ。やたら強調するようにハネて書くのが、なんか苛立って……。それで覚えがあったんだ。これ、あいつの字に似てる」
「ハネ? 福寿もハネがおかしいって言ってたよね? 待ってじゃあこれは別人の答案ってことになるのか!」
「福寿、この答案の束の中に自分の筆跡に近いものがあるか探してみてくれる?」
「はい」
福寿は一枚ずつ確認していく。この二年、文字を書いた記憶がないので自分の筆跡を覚えているか分からないが、それでも自分の筆跡だと思える答案を探す。
そして、それは番号、四十番にあった。
「あの、これが近いような気がします……」
福寿は自信なく伝える。菖蒲が何かに気付いて「あ」と漏らした。
「番号のとこ見て。『十』の鉛筆は薄いのに、『四』は濃い。それにこの『四』の二画目」
菖蒲が二画目の終わりを指でとんと叩く。
「こいつの癖。止めずにハネるんだ」
その『四』の二画目は強調するようにハネ上がっている。
「この『四』思い出した。こいつ縦割り四班にいた……」
冬真があんぐりと開いた口を手で覆う。
衛冬はその答案を上から下まで確認して「福寿」と呼んだ。
「君は、……これが本当に君の答案なら、やはり君はおちこぼれではなかったのだよ。答案は改ざんされたのではなく、すり替えられたんだ」
「え?」
「ざっと見ただけで断言できないけど、これは多分満点だ。……和美さん、この年の満点の生徒は?」
「いましたよ一人。しかも黒水藩から」
「ほら、やっぱりあいつだ」
「菖蒲、それは先日冬真に言っていた主席入学の子と同一かい?」
「そうですよ、衛冬様! あいつ、黒水藩の補家である帆立家の娘です」
「待ってください、それって、ゆきのちゃんですか?」
「ああ、そうだよ。帆立ゆきのだ!」
福寿は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受ける。
「大丈夫?」
揺れる肩を支えてくれたのは冬真だった。
「冬真様。わたし、……ゆきのちゃんは友達で、いつも藩塾では良くしてくれて、わたし、ゆきのちゃんと一緒に弦大に通うのを、いつもいつも頭の中に思い描いていました。なのに、どうして?」
福寿は冬真により近くの椅子に座らされ、震える手を冬真が包んでくれる。
「衛冬様、これってあいつが自分の受験番号とこの子の番号を入れ替えたってことですか?」
「状況から見てそうだと思う。まず自分の番号を『四十』ではなく『十』と書くのは容易いだろう。しかし、福寿の番号にいつ『四』を書き加えたのか……。受験会場となる教義室には教官が正面に一人と四隅に一人ずつ配置されているはず」
「ええそうです。教義室に五人が配置されます」
「あ!」
「どうした菖蒲」
「一番から五番までが横一列に並んでたはず。僕は三番だから最前列だったよ。それで僕の後ろは八番、その後ろが十三番じゃなかったかな?」
福寿は何となく思い出す。自分の席が五番列の前から二番目だったことを。
衛冬が、ふむと頷いた。
「答案用紙を集めるのが最後列。すなわち三十六番から四十番が自分の列の答案を集めて前に提出する」
「そうです。だからあいつとこの子は同じ列で、この子の答案はあいつが回収したんだ」
生唾を飲み込んだ福寿の喉が大きく鳴る。
「福寿大丈夫?」
「あの、……その時、ゆきのちゃんが……」
「ゆっくりでいいよ」
冬真が福寿の手をきゅっと握ってくれた。沈香の匂いが福寿を少しばかり落ち着かせてくれる。
「わたしの答案を回収するときに、ゆきのちゃんの手がわたしの鉛筆に当たって落ちてしまって……。それがちょうど斜め前にいた試験官の足元に転がってしまい、試験官の方がわざわざ拾ってくださったんです……」
「絶対その時だ! 皆の視線が鉛筆に移った一瞬の隙に、福寿の番号に『四』を書き足したんだ」
福寿は雷にでも打たれたような衝撃を受けた。それでもまだ、まさかと思う。
まさか友人であるゆきのが番号を書き換えるなど……。
「あいつはそういう女だよ」
菖蒲が吐き捨てる。
「平気で足を引っ張るし、教官には媚びを売る。あれが主席だと思って耐えた一年間は地獄だった。竹組に落ちて主席はやっぱりおかしいと思ってたが、案の定かよ。しかも本物の主席は不合格って、あの女マジで鬼だな」
「あの、でもゆきのちゃん本当は良い子で」
「本当って、あいつのどこを見たら良い子っていえるんだよ。あんたは相当なお人好しだな」
「菖蒲やめなさい」
「でもこの子が入学してたら縦割り同じ班だったんだ。そしたら冬真先輩だってもっと楽しめたかもしれないじゃん!」
「菖蒲……」
「あいつ冬真先輩と同郷だからって馴れ馴れしくていつも苛立たしかった」
福寿が横を見ると、冬真は困惑の表情をしていた。冬真の手に包まれていた手を抜いて、冬真の手を上下から挟む。
ゆきのが冬真に何をしたのか想像もできない。
それに福寿が『入学してたら』と過去を見ても、過去には戻れない。今できることを探すしかないのだ。
「和美さん」
「はい。これは学長に提出します。まずは帆立さんの召喚。聴取となるでしょう。その後に福寿さんが呼ばれると思います。これは柊へ連絡を送ってよいでしょうか?」
和美が衛冬を見る。
「いえ、柊ではなく黒水へお願いします。柊で福寿は死亡者となっていますからね。近いうちに福寿を黒水に迎えようと思っています」
衛冬がさらりと言うので聞き逃しそうになったが、とんでもないことを聞いたような気がして鼓動が早くなる。
「それは養女として?」
「さあ? それは当主の考え次第でしょうか」
「分かりました。では福寿さんへの連絡は黒水家へ送りましょう」
「お手間を掛けますが、お願いします」
頭を下げる衛冬に倣って福寿も和美に頭を下げた。
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