9.主席と落ちこぼれ②

「疲れたでしょう?」

 衛冬の微笑みがふわりが落ちてくる。


「早く帰りましょう、黒水に」

 冬真が福寿の横に立つ。

 三人で黒水に帰る――ただそれだけの言葉がどうしようもなく福寿の心を満たしてくれた。福寿には温かい帰る場所ができた。それだけで涙が出そうなほど嬉しくなる。


 弦士大学の玄関前で、和美と菖蒲と別れる。菖蒲は寮に戻ると言って西門の方へ走っていくのが見えた。福寿たちは馬車が待つ正門へ向かう。


 冬真の手はずっと福寿の手を握って離さない。冬真が心配している気持ちが伝わってきて申し訳ないような嬉しいような気持ちになる。


 福寿は、本当は弦士大学受験に合格していた。そう聞いても実はピンときていない。


 ――そうだったの? でもやっぱり違うんじゃない?


 自分に自信がないのだ。


 主席だと聞いても、それは自分ではない別の人の話だと思ってしまう。


 ゆきのが番号を書き換えたということも、それは現段階ではまだ憶測なのだ。事実とは異なるかもしれない。真実はまだ見えていないのではないかと思う。自分だけはゆきののことを信じていなければならないような気持ちが福寿の心に残り、離れてはくれない。


 いや、そう無理に思わせることで福寿は自分を保っているのかもしれない。そう思わなければ、叫んでしまいそうなほど心がガタガタと震えていた。


 薫子に出来損ないと罵られた日々は反転し、母親の慈しみ深い愛情と笑顔で家族の輪に入っていたのではないかと甘い夢を見そうになる。

 福寿は甘い夢想に蓋をする。そんなわけはない。薫子が福寿に笑顔を向けることなどあり得ないのだから。


 馬車に乗り、大内裏の東を回る。太陽は傾き、西にある白虎山びゃっこさんに沈もうとしていた。


「神獣様はお山の頂上にいらっしゃるのでしょうか?」


 山を眺めているとふと疑問が湧いてくる。その問いに答えてくれたのは衛冬だ。


「うん、限りなく頂上へ近い所にお社があるんだよ。南の朱雀山は一番標高が低くて、頂上まで一時間も掛からないんだ。ねえ、福寿? 一番標高が高いのはどこの山だと思う?」

「ええと、……分かりません。どちらのお山でしょうか?」

「それはね、我が玄武山なんだ!」

「そうなのですね! では玄武様の所まで二時間とか、もっと掛かるのでしょうか?」

「そうだよ。男の足で歩いても三時間と少し掛かるかな? 女人の足で、休憩を挟みながら行けば軽く四時間以上掛かるかもしれないね」

「四時間ですか!?」


 玄武山へ行く前に体力をつけておかねばならないと福寿は思う。

 


「あ、止めて」

 衛冬が御者に声を掛けると、御者は手綱をひいた。馬が歩みを止めて、馬車が停止する。


「そろそろ……、もしかしたら聞こえるかも」


 衛冬が静かに呟いて、人差し指を口元に当てる。

 衛冬が西を向くので、福寿と冬真も倣って静かに西を向く。


 福寿は何が聞こえるのかすぐには分からなかったが、太陽が沈む瞬間、理解する。



 ――リイィィーーーー……。



 静寂を震わせる美しく清らかな響き。心を穏やかにさせ、春風のような温かさが音と共に宮都全体を包むように広がっていく。


 神泉を浄化する帝の鳴弦だ。


 鬼泉の浄化に足りないのは、このような清廉な音ではなかろうかと福寿は感じる。どうすれば清らかな音を響かせることができるのだろうか。







福寿には鍛錬しなければならないことがまだたくさんあるのだと身に沁みたのだった。





 翌々日のひる

 帆立ゆきのが弦士大学に召喚されたとの報告を尊冬から直接聞かされた。

 その場には衛冬、冬真、それから夫人の妙子も同席している。


 尊冬が咳払いをしてから、厳かに口を開く。



 帆立ゆきのは、授業開始前の朝一番に学長室に呼び出された。学長室には、学長、副学長、学年主任、事務員の桜和美、そして黒水当主の尊冬が立ち会った。


 学長室の真ん中にある大卓には二年前の答案用紙と、帆立ゆきのが提出していた最近の課題が並べられる。


 当時、受験番号四十番であったゆきのの筆跡が一致した答案用紙は、十番。

 四十番の筆跡は誰が見ても他人の手だと分かるほど、ゆきのの筆跡とは違うものだった。

 これについて何か知っていることはないかという問いに、ゆきのは知らぬ存ぜぬ、を貫き通した。


 しかし、ゆきのが表情を変えたのは、黒水の藩塾から塾長が遅れて到着してからだった。


 塾長は過去数年分の手習いの紙を蔵に保管しており、二名の手習い紙を提出した。


 ひとつは、帆立ゆきののもの。

 もうひとつは、柊福寿のもの。


 二人の筆跡は誰が見ても明らかなほど似ていなかった。

 ゆきのの字は女性らしさの見えない力強いもの。対して、福寿はたおやかな優しい字であった。


 手習い紙の筆跡は、答案用紙の筆跡と重なる。


 ゆきのの眉が歪んだのを、学長と尊冬は見逃さなかった。


『十番の受験番号に【四】を書き加えたのは、用紙を回収する後列だった帆立さん、貴女ですね?』

『いいえ、そのようなことは不可能です。監督官が五人もいる教室で、そのような行為はできません』

『柊さんの鉛筆をわざと落としたのでしょう? 監督官の注意を引くために』


 違うと否定するゆきのの目は泳いでいた。


『だが貴女の成績では満点など難しいのではありませんか? 中弦竹組の帆立ゆきのさん?』


 学長の問いにゆきのは唇を噛む。


『貴女は上弦生になれば梅組に落ちるそうですよ。前代未聞ですね。主席入学された方が、梅組など……』


 ゆきのに否定する声は残っていなかった。

 涙を浮かべる目は、次第に憎悪の色に染まっていく。


『……たしは、わたしは福寿より優秀でないといけなかったの! 福寿は絶対に追い落とさないと……。だって次の黒水夫人に一番近いのは優秀な福寿なんだからっ!! でも、そんなの嫌っ、黒水夫人にはわたしがなるのよ! 補家として一生宰家に仕えるなんてご免だわ! 黒水夫人になって見下ろしてやる。父上も母上も見下ろしてやるんだからっ!!』


 ゆきのはその後も絶えず同じようなことを繰り返し叫んだ。

 

 副学長が「あやかしに取り憑かれておる」という発言で、帆立ゆきのを一先ず隔離しよう、ということになった。

 

 処分についての沙汰はおってくだるだろう――、そう尊冬が説明を切った。


 しん、と広間が一度だけ静まる。静寂を破ったのは衛冬だった。


「帆立ゆきのはどちらに隔離を?」

「黄土家の座敷牢だ」

「なるほど」


 衛冬が何に納得して、なるほどと呟いたのか福寿には分からなかった。


 斜め前にいた妙子が福寿の顔を見て説明を加えてくれる。


「黄土邸は大内裏の北にあるのです。黒水藩から一番近いのですよ。それに何より黄土には鳴司が多くおりますから、何か起きた時に迅速な対応が可能なのですよ」


 妙子の説明に、福寿は今度こそ納得した。


 それにしてもゆきのにあやかしが取り憑いているとは信じ難い。

 ゆきのは苛烈な性格であるが、優しい部分も持っている。よく『父上が厳しい』と嘆いていた。その度に福寿も薫子の顔が浮かび同じ気持ちになっていたのだったと思い出す。


「帆立海三は自分にも他人にも厳しい奴だからなあ。長男の内海うつみが耐えられずに病を患っただろう?」


「はい」と答えたのは冬真だった。

 ゆきのには内海という兄がいた。二つ年上だったと記憶しているので冬真と同学年だったのかもしれない。


「気弱な性格でしたね。よく胃を押さえて顔を白くさせていました」

「海三は、長男への期待を娘に押し付けたのやもしれぬな……」


 でもゆきのは期待に応えられなかった。父親の大きな期待に押し潰された。それでもどうにか期待に応えようと藻掻いた。その末に福寿の受験用紙とすり替えることを選ばざるを得なかったのかもしれない。


 ――福寿ちゃん、一緒に頑張ろね!


 幼い日のゆきのの声が脳裡を過り、ひどく胸が傷んだ。涙が出そうになるが、奥歯をぐっと噛んで堪える。


「尊冬様」

「何だ福寿」


 ふっ、と福寿は短く息を吐く。 


「ゆきのちゃんに会うことはできないでしょうか?」

「それは私の一存では……会えるとは言えないが、福寿も近いうちに弦大から招集が掛かるだろう。その時に掛け合ってみなさい」

「ありがとうございます」


 福寿は畳に額をつける。

 尊冬の、礼に及ばずという声が頭上に届いた。



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