1.鬼泉番と弦士様

 宮国の中央には内裏があり、そこにはみかどが坐している。

 その帝を守るように東西南北と中央に五つの家が配置されていた。その五家を宰家さいけという。


 北を守る宰家の名は、黒水くろみであった。その黒水が治めている領地を黒水藩と呼ぶ。

 また宰家に仕える家のことを補家ほけといい、ひいらぎ家はこの黒水藩の筆頭補家である。



 朝の時間は忙しない。

 鬼泉から戻った福寿の前では柊家の使用人たちが右に左にと動き回っていた。邪魔にならないようにと、福寿は板戸の内側で静かに待つ。


 隣の部屋は台所で、そこから出汁の良い香りが福寿の鼻腔をくすぐる。昆布とカツオ節から取った出汁だと福寿は匂いだけで分かった。それで味噌汁とだし巻き玉子を作るのだろう。その次にはお米の炊ける甘さのある匂いが福寿の食欲を刺激してくる。食事の支度で立ち上る香りが福寿は好きだった。福寿がこの家の中で幸せを感じられるものの一つでもある。福寿は誰に邪魔されることなく、胸いっぱいに美味しい香りを吸い込んだ。


 美しい朝餉がととのえられた膳が、台所から三つ運ばれていく様子を福寿は目で追った。しばらくして配膳役が三人戻ってくる。そのうちの一人、老齢の女が福寿に合図でもするように頭を前傾させた。

 配膳役が三人とも台所に戻るのを確認してから福寿も台所に入る。


 台所の奥には小上がりになっている場所がある。たたみが一畳敷かれたそこには、机というには心もとない簡素な台がひとつだけ。脚の長さが微妙に揃わず傾いているのは、もう何年も前からだ。その台にはすでに茶碗と汁椀が置いてあった。

 茶碗には白米が半分。それから汁椀には具のない上澄みだけの味噌汁があるばかり。それが福寿の朝食だった。


 福寿に頭を下げた配膳役の老女は申し訳なさそうな顔をしながら自身の食事を横にある使用人室に運んでいく。老女が持つ膳の上には茶碗と汁椀に小鉢と小皿があった。器の数だけを見ても、福寿の扱いが粗雑なことは誰の目にも明らかだった。


 しかしそれについて問う者はいない。否、問うた者が居たには居たが、問うた者も福寿もともに柊家の女主人に厳しく罰せられたため、誰もが見て見ぬ振りをしている。また福寿に情けをかけた場合も、優しく言葉をかけた場合であっても女主人の対応は同様であった。


 福寿は質素な朝食に文句ひとつなく、神に感謝しながらひとくちを大事に味わっていただく。元々小食の福寿は食事量の少なさは気にするところではなかった。しかし欲を言うならばだし巻き玉子がもう一度食べたいというくらいだろう。ふわふわの玉子から染み出す出汁の優しい味わいが懐かしい。


 使用人たちにゆっくりと食事する時間はなく掻きこむように早々と食べ終わっていく。次には掃除、洗濯、それから家人の身の回りの世話と息つく暇もない。

 朝食を食べ終わった使用人たちが台所に戻ってくるたびに福寿はみなに頭を下げる。それは食事の感謝を伝えているのだった。


 福寿ははじめ食事の後片付けを手伝わせて欲しいと願い出たのだが、使用人たちが首を縦に振ることはなかった。配膳役の老女などは首を横に振りながらわずかに涙を流していたのを福寿はいまだに鮮明に覚えている。


 老女は『申し訳ございません。お嬢様……』と福寿にのみ聞こえる声でそれだけ伝え、それ以来、福寿に対して一度も口を開くことはなかった。

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