鬼泉番の福寿とあやかし祓いの弦士様

風月那夜


 浴槽に溜められた水を手桶ですくう。頭から水をかぶるため目と口をぎゅっと閉じた。ザバ、と勢い良く冷水を浴びた福寿ふくじゅは素早く手ぬぐいで水分を拭き取る。次に手早く白い着物を一枚だけ纏った。帯も白だが、長年使っているせいかくすんでいる。長い黒髪は後頭部に集めて白色の紐でひとつに結んだ。


 暦は如月きさらぎ

 骨身にしみる冷気が足元からはい上がる。ふるりと身を震わせた福寿は首がなくなるほどに肩を上げて両手を強く握った。


「寒くない、寒くない……」


 紫に染まった唇が小さく顫動せんどうする。歯の根がカチカチと音を立てるのを、奥歯を食いしばって耐えた。

 よし、と自分を奮い立たせた福寿は肩を下げて、棚の上に置いてある漆箱に手を伸ばす。柊の葉が描かれた蓋を両手で丁寧に開ける。中にあるのは和紙だった。それを数枚取り出すと着物の袷に挟む。


 福寿は浴室から出ると、屋敷の人間が未だ寝静まる廊下を足音を潜めて進んで行く。床板が軋む個所は覚えていた。そこを上手に避けて行くと、屋敷の裏口が見える。

 框の下にあるくたびれた草履を履き、それからその横に置いてあるぼろぼろになった弓を持つ。矢はない。


 建付けの悪くなった板戸を横に開くと強い風と共に雪が飛んできた。咄嗟に目を閉じた福寿は顔の前に手をかざしながら薄く目を開けて外に出る。草履が雪に埋まり、くるぶしが隠れた。足指がきゅっと曲がって縮こまる。屋敷内に雪が入らないように急いで板戸を閉めると、福寿は北東にある鬼泉きせんを目指した。


 鬼泉は歩いて十分ほどの場所にある。

 鬼泉に着く頃には福寿の頭は白くなっていた。

 福寿は東の山を仰ぐ。舞い落ちる雪が少なくなっていく。白く見えた山際が薄桃から橙に染まりはじめていた。間もなく日が昇りはじめるだろう。


 時間に余裕はなさそうだと、福寿は急いで手を動かす。

 福寿は袷に入れていた白い和紙を一枚、両手に持つと、鬼泉にそっと浮かべた。


 鬼泉は鬼門を封じるための泉である。ここに穢れが溜まれば、あやかしが現れる。あやかしは鬼門の向こうにある浦国うらのくにから、こちらの宮国みやのくにに来るとされていた。


 しかし浦国を見たものはいない。どこにあるのか誰も知らない。分からないから余計に怖い。

 あやかしの侵入を許さないために鬼泉を清める。それが鬼泉番きせんばんである福寿の仕事であった。


 鬼泉に光が注ぐ。福寿が山際を確認すると、そこに光り輝く頭が見えていた。

 陽光がすっと長く伸びていく。


 先ほど鬼泉に浮かべた和紙が、ゆっくりと時間を掛けて灰色に染まっていく。一部、しみのように黒く染まった所を見つけた福寿はどきりとして手の平を合わせた。

 福寿は東に上がる朝日に向かって祈りを捧げる。


「お天道様。どうかこの穢れをお清めくださいませ。――清め給え」


 祈ると今度はぼろぼろの弓を掲げる。矢はない。弦に指を掛けて手前に強く引き、息を細く長く吐き出すような気持ちで弦から指を離す。ひゅわん、と気の抜けたような音が鬼泉を小さく振動させ、波紋が和紙に届いた。静かに揺らめいた和紙から色が抜けていく。


 和紙にある黒いしみは朝日のまばゆい光を受けて、溶けるように浄化された。そのまま灰色に染まっていた和紙は元の白色に戻る。

 今日も無事にお勤めを終えることが出来たと、福寿は安堵の息を吐いて和紙を回収したのだった。


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