2.落ちこぼれ③
その晩、満人と薫子はあやかし祓いの応援要請に出たきり戻らず、そのまま夜が明けようとしていた。
柊家の屋敷は一晩中、主の帰りを待つため眠りに落ちることはなく、福寿が鬼泉番の勤めに出る時間も屋敷内はざわざわと落ち着きがなかった。
いつも通りの時間に冷水で身体を清めた福寿は白い着物を纏って外に出る。胸には和紙と、手には襤褸の弓を携えて雪の中を歩いていく。
竹林に入る手前で昨日、襲われたことを思い出し福寿の足が止まった。
ざわつく胸を押さえるが、全身に悪寒が走る。
だが夜明けは近い。ここで無闇に時を過ごす余裕はない。
福寿は息を細く吐き出すと、心を落ち着けて竹林を走り抜けた。
しかし福寿は鬼泉を見て、血の気が引いた。
「なに? なんで……」
青く澄んだ泉の水が濁っていたのだ。胸に入れた和紙は何枚あったか、手持ちだけで浄化が済むだろうかと思考をめぐらせるが、考えても仕方ないと福寿は鬼泉に和紙を浮かべる。
この和紙は特別な製法で作られた、お清め専用の和紙である。宮国の東に位置する
お清め専用の和紙は穢れを集め、陽光に当てることで浄化されると福寿はそう教えられてきた。弓を引くのは儀式のひとつのようなもので、力の有無は関係ない。だから落ちこぼれの福寿でも勤まると、そう薫子が言ったのだ。
――何もできない落ちこぼれなら、ひとつでも家の役に立つことをしなさい。それがお前がこの家のためにできる唯一のことなのだから。
福寿の両親は共に弦士である。だから福寿も柊家の長女としてゆくゆくは弦士となり、分家で活躍する弦士を婿として迎えることになるのだろうと、そう考えていた。
しかし二年前。福寿は弦士になるための機関である弦士大学に落ちたのだ。
福寿が鬼泉番としての勤めを始めたのはその後すぐのこと。それまで薫子が勤めていた鬼泉番の仕事を『家のために役立て』と言われて福寿が引き継いだのだ。
和紙と陽光が鬼泉の穢れを清める。
だが、しかし――。
今日に限って太陽は厚い雲に隠され光の一筋さえ、漏らすことはない。
「お天道様、どうか、どうか、お願いいたします」
懸命に祈りながら、福寿はありったけの和紙を鬼泉に浮かべていく。浮かべた和紙から順に穢れを吸い込み、墨に浸したように黒く染まっていく。
どうか一筋でも光を――と、そう願う福寿の耳に複数の足音が届いた。
足音の方を見れば、そこには弓を持つ弦士が数名おり、そして誰もがあんぐりと口を開けて鬼泉を見ている。その中には満人と薫子の姿もあった。
「なんだこれはっ!! どういう事だ!?」
叫ぶように声を発したのは黒水藩の補家、
康の横に、同じく補家の
「鬼泉番は柊夫人ではなかったか?」
「あの者は誰だ!」
「使用人か?」
「柊殿! どういうことか答えていただこう!」
康と海三の激昂に、満人は青くなり、薫子は福寿に視線を向けて顔を赤くしている。薫子は男たちの会話など気にもせず、福寿の元へ苛々と近寄っていく。
「このざまは何だい!? どうしてこうも黒くなっているのか答えなさい!!」
「あの……」
「毎日さぼっていたんでしょう!! だからこんなに真っ黒なのね!! だから、だからあやかしが、祓っても祓っても次から次から湧いてくるんだわっ!! 鬼泉番の仕事もできないなんて、この出来損ないがっ!!」
薫子は弓を左手に持ち替えると、空いた右手を大きく後ろに振って、そのまま福寿の頬に打ち下ろした。
パアンっ、という小気味いい音が鬼泉の上に響く。
薫子は、くるりと踵を返すと何事もなかったように微笑んで、当主たちの元に戻っていった。
「どうなんだ柊殿!」
知らぬ存ぜぬと答える満人の横に薫子は並ぶと品のある顔で笑顔を向けた。
「申し訳ございません。わたくしの帰りが遅いからと、気を利かせた
「そうだったのか……」
薫子の言葉にひとまず納得したのか、康と海三の怒りが鎮火していく。
「そうだな、まだあのあやかしを祓えていないのだ。それとこの鬼泉の状態は関係あるやもしれぬ」
「だが、これは筆頭補家の女主人が担うお役目だろう。使用人が勝手に鬼泉の大事な勤めを行うなど言語道断でありますぞ!」
その言葉に薫子は喜んだように顎をあげる。
「では、あの者へ罰を与えましょう!」
薫子は嬉々とそう答える。
「いや、これは黒水様に報告いたしましょう」
そう言ったのは康であった。康は柊家が補家の筆頭であるのが許せないのであった。康は柊家を筆頭補家から引きずり下ろして蕪元家を補家の筆頭にしたいのである。
「そうしよう。これは大事のこと。我々だけで判断してはならぬ」
康の提案に海三も追従する。
これは柊家の失態である。他の二家が同意見であるならば、それに従うよりほかない。
「では我々があの使用人について判断を仰いでくる。柊殿と夫人は疾く、鬼泉の浄化を!」
この場の決定権はすでに康にあった。それに誰も否を唱えるものはない。
福寿は黒水藩の補家である蕪元家と帆立家の家人に捕らえられ、そのまま黒水家に連行されたのであった。
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