2.落ちこぼれ

 冬真の手ぬぐいを持ったまま福寿は重い足取りで柊家に帰る。

 頭と肩に乗った雪を払って裏口の板戸を開けると、そこにはミツがいた。ミツは框に座って福寿が戻るのを待っていたようだ。


「あっ、誰かお湯を沸かしておくれ」


 夕餉の支度をしている台所へミツは声をかけた。中にいた使用人から「沸いてるよ」と声が届く。


「おミツ、お湯をどうするんだい?」


 台所から返事をした女中が廊下に顔を出し、板戸の前に立つ福寿を認める。


「お嬢様のおみ足を洗うから」

「ああ、すぐ盥に用意するよ。待っとくれ」


 福寿の足は赤くなっていた。足先の感覚はあまりない。

 女中がお湯を入れた盥を運んでくる。


「お座りになってください」

「自分でします」

「いいえ、ミツにお世話をさせてくださいませ」


 ミツの笑顔に有無を言わせないものが見えて、福寿は従う。

 ミツは壊れ物を扱うように丁寧に福寿の足を持つと、盥の中に入れた。お湯は人肌よりも少し熱めだった。

 

 福寿の足がじんじんとして温かさを感知し始める。冷えた足先が温まるだけで心がほっとするようだ。

 ミツはしわくちゃの手で、福寿の足に付いた汚れを落としてくれる。それから指の間まで丁寧に綺麗にしてくれた。丁寧に扱われることがくすぐったくて、福寿は唇をきゅっと噛み締める。そうしなければ涙がほろりと零れ落ちてしまいそうだった。涙など浮かべればこの優しい老女中はきっとおろおろし始めるに違いない。


「お嬢様、こちらの手ぬぐいをお借りしてもよろしいでしょうか」

 ミツは福寿の手もとを示した。福寿は自分の手にあるそれに視線を落とす。冬真の手ぬぐいだった。


「ごめんなさい、これは大切なもので……。お借りしたものだから……」

「左様でございましたか。あとで綺麗に洗濯させましょうか?」

「そうしてもらえると嬉しい。頼んでも、いい?」

「ええ、もちろんでございます」


 ミツはくしゃりと笑って、自分の使い古した手ぬぐいを出した。


「襤褸で申し訳ないですが、今日はこちらで我慢してくださいね」


 ミツが温まった福寿の足を拭いていく。


「ありがとう」


 ミツが嬉しそうに笑う。福寿も嬉しいのに、しかし胸は痛かった。優しくされれば優しくされるほど苦しさを感じてしまうのだ。


「福寿!」


 突然の怒号に福寿とミツの肩が上がる。母屋に繋がる廊下に二人は顔を向けた。

 怒りのまま足音を響かせて現れたのは、女主人の薫子だった。その後ろには牡丹がいる。


「お前外に出たのね! 日中は絶対に出るなと言っておいたでしょう!」


 金きり声を上げる薫子の顔は赤く染まっている。薫子は足を止めることなく福寿の前まで来ると右腕を大きく後ろに引いて、強く振りおろした。

 ぶたれるのだと覚悟した福寿は歯を食いしばって目を閉じる。ぱあん、と音がするものの福寿はどこにも痛みを感じない。

 目を開ければ福寿の前にミツが倒れているではないか。


「ミツ!?」


 ミツが福寿に微笑む。ミツの右頬が赤く染まっていた。福寿は叫び出したい衝動にかられて口が大きく開くが、声はひとつも出ない。

 苛立ちのまま喚き立てる薫子の金きり声が、福寿の鼓動を荒々しく打ち付ける。


「それに関わるなという命令を忘れたの! 命令違反は罰しないといけないわよね」

 鬼の形相で仁王立ちする薫子の怒りがミツに向く。


「奥様、わたしが罰を受けますので、福寿お嬢様はどうかお許しください」


 罰は駄目だと福寿は両手で胸を押さえる。冬真の手ぬぐいを握りしめていたことに気付いて視線を落とす。冬真の中にも悲しみ、恨み、妬みがあり、だがそれでも優しさが溢れていた。


 少しだけわたしに勇気をください――と、福寿は冬真の手ぬぐいをぎゅっと抱きしめて、震える声を全身から出す。


「お待ちください、ミツは――」

「喋るな! あんたには喋るなって命じたわよね? 出来損ないだから命令を覚えることもできないの!! この落ちこぼれがっ!!」


 薫子の激昂に、福寿はびくりと震えて小さくなる。今度こそぶたれるかもしれない。薫子に叩かれるのはとても痛いのだ。


「ミツとあんたには、棒叩き千回の罰をあた――」

「薫子っ!」


 薫子の宣告を遮ったのは低い声だった。小走りで姿を現したのは柊家の主人、満人みつひとである。


「旦那様?」

「呼ばれた。出動だ。あやかしが現れた」

「場所は?」

「黒水藩の北」

「北は、蕪元かぶもと領ですね」

「ああ。それで東の柊と、西の帆立ほたてに応援要請が出た」

「はい」

 

 薫子は福寿を一度強く睨みつけると、急ぎ足で母屋に戻って行く。

 しかし安堵はできない。ここにはまだ牡丹が残っている。


「ねえ~、お姉さま~」


 粘着質な声は薫子によく似ている。それがまた福寿の肩を震わせる。


「見たわよ。どうして……」


 牡丹は福寿を睨んでいる。


「なぜお姉さまが冬真様と一緒にいたのよ?」

「そ、それは――」


 牡丹に気付かれないようにと、両手で持った手ぬぐいを胸の前に抑えつけた。後ろ手に隠せば牡丹は目敏く見つけるだろう。だから変に目立つ行動はしないほうがいい。


「冬真様に汚れが移るじゃない。やめて! 冬真様は優秀なお方なの。落ちこぼれが易々と近付てはならないのよ!」


 牡丹の言葉で、落ちこぼれの自分が弦士様に近付いてはならなかったのだと気付かされる。


「ごめんなさい」

「ああ、本当に気分が悪いわ」


 これ以上福寿の顔も見たくないとばかりに牡丹は踵を返した。



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