8.紫水晶の首輪
次の日曜まで、福寿は黒水邸で欠かさず霊力の操作に励んだ。
まずは五蘊魔の再来に備える必要がある。福寿を嫁にするためまた来ると言っていた五蘊魔だ。いつまた現れるか分からない。
鍛錬に励んでいるのは福寿だけではない。宮都から帰ってからの冬真は前にも増して時間を惜しむように鍛錬していた。
午後から奥の庭に行くと、冬真がすでに弓を構えていた。
冬真が霊力を練って矢を作り、奥の庭の端に設置された的に狙いを定める。冬真の矢は的の中央にある円から一円外に当たった。
「お見事です」
「あ、まだまだだよ。福寿も鍛錬?」
そうだと頷けば冬真が場所を譲ってくれる。
襤褸弓を構えて濃紫の矢をつがえると的に向かって放った。始めは真っすぐ飛ぶが次第に下降していく。福寿の矢は的の手前で落ち、霧散した。
「今のは良かったね。僕もまだまだ頑張らないと……」
福寿こそまだまだ鍛錬が必要だと思うが、時折冬真が褒めてくれるのが嬉しい。それに昨日より矢の飛ぶ距離が伸びていた。
半刻ほど集中して鍛錬していると、足音が聞こえてきて二人とも手を止める。
奥の庭に現れたのは小柄な女性だった。雪輪の柄が描かれている薄紅色の袷に、水縹色の帯を締めている。後ろには御付き女中が控えていた。
「母上」
冬真がその女性を母と呼ぶなら、それは黒水夫人である。
福寿は急いで汗を拭い、着物の乱れを整えた。
あまりじろじろ見てはいけないのだが、夫人は美しく衛冬と顔の造りが似ている。
「僕の母です。柊の分家の出だが、福寿は初めて会うのかな?」
「はい。初めまして、柊福寿と申します」
「お会いできて嬉しいわ。妙子と呼んでね」
にこりと笑った顔は少女のように可愛らしく、その笑い方は冬真と同じ。
「その弓を見せていただける?」
「あの、汚くて、襤褸ですが」
「いいのよ」
申し訳ないと思いながら福寿は妙子に襤褸弓を渡す。
「随分と使い込んであげたのね。弓も本望でしょう。とても喜んでいるわ」
弓が喜んでくれているのなら嬉しいことだと、福寿も嬉しくなる。
「でも年寄りで、もう疲れたから福寿ちゃんの力を後押しできなくて申し訳ないって言ってるわ」
「え? 弓の気持ちが分かるのですか!」
福寿が驚くと、隣の冬真は苦笑した。妙子は、ふふふと笑っている。
「衛冬の弓を使ったと聞いたわ。あれは重かったでしょう?」
「ええと……」
「一回り小さいものなら持てるわよね!」
「へ?」
妙子の話の行き先が分からず福寿は冬真の顔を見た。
冬真も分からないのか、肩と眉を上げて困惑の表情を福寿に向ける。
そんな福寿たちなどお構いなしに妙子は後ろの女中に声を掛けた。女中は手に大きな布袋を持っていて、それを妙子が受け取る。
妙子は布袋の縛り紐を解くと中に手を入れ「見て見て」と言いながら中身を出した。
出てきたのは弓だった。
「わたくしが嫁入りで仕立ててもらった弓なんだけど、実は使いこなせなくて仕舞っていたの。眠ったままじゃ可哀想じゃない? 良かったら福寿ちゃんに使って欲しいの。ねえちょっと構えてみて? 手に馴染まなかったら戻すから……」
言葉尻が萎んでいく妙子の声に悲しみが滲んでいる。福寿に拒否などできるわけもなく、ありがたく受け取った。
重厚感はあるが衛冬の愛弓に比べれば軽い。
妙子が使いこなせなかった弓を、果たして福寿が使いこなせるだろうかと、緊張と不安に包まれていく。
深呼吸をしてゆったりと弓を構えてみる。
――お願いします。力を貸してください。清め給え。
霊力の矢は作らず、鬼泉を浄化するのと同じように弦を引いた。弦も弓もしなやかで、福寿の手を拒絶しない。
――ぴいいいいぃぃん。
奥の庭に麗らかな音が響き渡る。
「まあ」
妙子の感嘆の声に振り返ると妙子は涙を頬にこぼしていた。
「妙子様?」
「母上?」
妙子は着物の袖で涙を隠し、ゆっくりと顔を上げて美しい微笑みを見せる。
「良かった。弓もとても喜んでいるわ。福寿ちゃん、その子をよろしくね」
「本当にいただいてもよろしいのでしょうか?」
「その子は福寿ちゃんを認めたのよ」
認められた、と言われても半信半疑だが、しかしそう言われて嬉しくないわけがない。嬉しくて鼓動が早まっていく。身体がまた弓を鳴らしたいと叫んでいる。
「福寿、次は矢を飛ばしてみては?」
「分かりました」
福寿は的に向かうと呼吸を整え、それから霊力を練る。美しい弓に相応しい、美しい矢になるよう感覚を研ぎ澄ませた。
足幅を開いて弓を構え、矢をつがえる。
――清め給え。
ぎりぎりまで弦を引き、矢じりで的の中央を狙い、放つ。清澄な音を奏でて、福寿の矢はついに的の下に当たった。
「当たった……。当たりました冬真様!!」
福寿が横を向くと冬真も驚いている。
「福寿凄いよ! やったね!」
冬真が近付き、ねぎらうように福寿の頭を撫でる。その手の心地よさに、福寿は嬉しいと思った。
「ありがとうございます」
妙子の弓のお蔭だろう。だが矢が的に当たったことは素直に嬉しい。
「福寿、笑ってる? 福寿の笑顔、初めて見た……」
福寿は頬を触る。自然に口角が上がるのはいつ以来だろう。ヤヱが亡くなる以前には笑っていた気もするが、それでも微笑む程度。
「わたし、笑えてます?」
「可愛いよ」
ヤヱからもらった『可愛い』という言葉を思い出す。『福寿様は可愛いですね』と何度もヤヱから言われた。
しかし冬真が言う『可愛い』はヤヱとは別の言葉のように聞こえてしまう。そしてそれはとんでもなく嬉しい事だと福寿の全身が騒いでいるようだった。
妙子の笑い声が聞こえて福寿ははっとする。
「若いっていいわね。二人ともよく励みなさい」
妙子が立ち上がるのを見て福寿は急いで頭を下げた。
「ありがとうございます。弓はずっとずっと大事にいたします!」
妙子と御付き女中が去る。すると、冬真が妙にそわそわし始めたのがはっきりと分かった。
「冬真様? いかがされました?」
「福寿、……あのね」
「はい」
よく見ると冬真の耳がほんのり赤い。風邪でもひいて体調が悪いのを我慢して鍛錬していたのではないかと心配になる。
「調子が悪いのであれば中に入りましょう。寒くはございませんか?」
「いや……」
はっきりと否定するのではなく、躊躇うような返答に、福寿は首を傾げた。
「あの、その、」
「?」
「つまり、矢が的に当たったお祝いに……。これを福寿に、……あげる」
冬真は左袖の中から真四角の薄い箱を出した。
「受け取って欲しい……」
「矢が当たったから? そのお祝いを? わたしに、ですか?」
「そう」
お祝いと聞いて、誕生日にヤヱがこっそりくれた甘味を思い出す。冬真からのお祝いは何だろう。饅頭だろうか団子だろうか。先日食べたキャラメルも嬉しいなと思いながら両手で箱を受け取った。
「ありがとうございます」
「開けてみて」
中身に思いを馳せ、胸を躍らせながら箱の蓋を持ち上げる。
「え……」
そこには福寿の想像もしないものが入っていた。しかしそれには見覚えがある。
「これは、でも、冬真様が」
「福寿に贈りたくて買ったんだ。福寿がこれを選んでくれたから気に入ったのかと思ったけど、もしかして違った?」
銀色の鎖に、紫水晶の宝飾品。それが箱に入っている。
宮都の市へ二人で行き、最初に入った見世で購入したものだ。
「でもわたし、これは受け取れません」
「どうして?」
冬真が悲しそうな表情をするので胸が痛む。
「きっととても高価な物ですよね?」
「だから受け取れない?」
「はい。わたしには不相応です」
「どうしてそう思うの?」
「わたしはだって――」
「落ちこぼれじゃないよ。福寿は自分を卑下しなくていいんだよ」
冬真の真剣な瞳が真っすぐ刺さる。
「福寿、君は認められていい人だ。それに福寿は美矢様が求婚するほどの女性だよ」
「それはっ」
「うん。福寿は僕の隣にいてくれるんだよね?」
「はい」
「それなら受け取って欲しい。これからも一緒にいて欲しいから」
冬真は福寿が持つ箱に手を伸ばすと鎖を摘まみ上げる。鎖についた留め具を外すと冬真は福寿の後ろへ回った。
「これは
福寿の首元で紫水晶が煌めく。首に鎖の冷たさが伝わるが、冬真の指も触れて首や顔が熱い。
「毎日付けてくれると嬉しいな? 付けてくれる?」
無理です、と否定できるわけもなく、福寿は首を縦に振った。じわじわと嬉しさがこみ上げてきて目の前が涙で滲み、紫水晶が濡れる。
すると後ろから冬真の腕が伸びて、福寿はそのたくましい腕に包まれた。右肩に冬真の頭が乗っているのが分かる。
「福寿に触れると力が湧き上がるのは纏色が似ているから。でもそれだけではないと思うんだよね……」
冬真の熱い息が首にかかる。匂いが近すぎて福寿の頭がくらくらする。いつもであれば落ち着く沈香の匂いだが、今日ばかりは鼓動が早まり眩暈さえしそうだった。
だが、嫌ではない。
むしろ――。
――わたし、今何を思った?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます