4.弦士とあやかし③

 福寿が目を覚ましたのは、それから三日後の夜だった。

 広い部屋。ふかふかの布団に寝かされていることを認識した福寿は、そこが黒水邸の客間だと分かった。

 上体をわずかに持ち上げるものの酷く身体が重く、起き上がれない。福寿は諦めて背中を柔らかな布団に沈めた。


「ぁ、あ」

 掠れているが、声は出る。喉の渇きを自覚した、その時。

 静かに襖戸が開いた。ろうそくの灯りがほのかに目に入ってくる。誰だろうかと思っていると声が耳に届いた。


「お、……お嬢様?」


 ろうそくの側から発生された声。その声は福寿がよく知るもの。


「ミツ?」


 まさか、と思った。ミツは柊家の使用人だ。黒水家にいるわけがない。


「お目覚めになられたのですね」


 しかしろうそくに照らされた顔はミツだった。嬉しそうな顔をして涙ぐんでいるように見える。


「ミツなの? どうして?」

「黒水様が連れて来てくださいました。いま、黒水様をお呼びして参りますね」


 黒水の誰がミツを連れてきたのか、どうしてミツを連れてきたのかという疑問とともに福寿は一人室内に残された。


 しかしすぐに廊下が慌ただしくなる。

 客間に現れたのは冬真だった。


「福寿!? 目が覚めましたか?」

「冬真様、ご迷惑をおかけしました」

「いいえ。福寿は頑張ってくれました」


 冬真は眉間を寄せたまま福寿の横に膝をつくと布団の上にあった手をぎゅっと包んだ。


「冬真様?」

「不快感があったりしませんか? 痛いところはないですか?」


 身体は酷く重いが痛む所はない。

「大丈夫です」


 冬真は安堵したように息を吐き出す。


「あの?」

「何でしょうか?」

「どうしてミツを」


 連れて来てくださったのですか、と問う前に冬真は微笑んだ。


「君がうわ言で呼んでいたからですよ」

「わたしが?」

「悪夢でも見ているみたいにうなされて『ミツ逃げて』と」


 悪夢を見たかと訊かれれば覚えていないと福寿は答えるだろう。しかし胸に残ったざわつきが、冬真の言葉が真実だと思わせる。


「それに僕たちも柊家の内情を知る者が欲しかったので。それなら福寿が呼ぶ『ミツ』という方を当たってみようと思い、昨日柊から連れてきたんです」


 包まれたままの手から冬真の優しさが伝わってくる。


「ありがとうございます」

 

 その冬真の手に傷がいくつもあるのを福寿は見つけた。この屋敷に来た時にはなかったもの。五蘊魔との戦いでできた傷かもしれない。だが昨日今日できた新しい傷にも見える。


「福寿? 辛いですか?」

「いえ、それは――」

 ――冬真様の方が辛くはないのですか? と聞きたくなったが、その質問が正しいのかどうか分からず飲み込んだ。福寿は首を横に振りながら冬真に微笑む。


 襖の手前に視線を向けるとミツが優しい眼差しで控えていた。


「今日はもう遅いからまた明日、君の調子がいい時間に顔を出しますね」

「ありがとうございます」

「おやすみなさい」


 冬真は福寿の手を今一度強く握ると、その手を布団の中に戻し、客間から出て行った。

 入れ替わるようにミツが福寿の横に座る。


「明日はきっと色々尋ねられるはずですよ」

「何を?」

「お嬢様のことを」

「わたしが落ちこぼれだってこと?」


 ミツは悲しい顔になる。


「ミツはそう思いません。だからこそ、ミツが知っていることは全て隠さずお話するつもりです。たとえそれが柊家への裏切りとなっても」

「ミツ」

「お嬢様が落ちこぼれなど、ミツは一度も思ったことはありません。藩塾の成績も良かったではありませんか」

「成績ね……」


 自嘲した福寿は、弦士大学を受験するまで通っていた藩塾のことを久しぶりに思い出した。

 藩塾とは、補家の子どもが通う寺子屋のようなもの。本家も分家も関係なく補家に類する者であれば誰もが通うことができる。

 黒水藩の藩塾は黒水藩の中央に位置していた。柊家から通う福寿は牡丹の乗る馬車についでに乗せてもらっていたのだ。当時の牡丹は今のような態度ではなく、母のいない所ではごく普通に姉を慕う妹だった。

 その牡丹を変えた原因は福寿にある。


 藩塾で成績の良かった福寿は、問題なく弦士大学入学試験に合格すると誰もが思っていた。福寿としても筆記試験の手ごたえはあった。

 しかし不合格の通知が届いたことで、それが慢心であったと気付かされる。


 藩塾で「賢い」「素晴らしい」と受けていた賛辞は、どれもが筆頭補家である柊家をおもねる言葉でしかなかったと気付いたのはその時のこと。


 元々福寿を嫌っていた薫子は、虫でも見るような目に変わった。牡丹は尊敬のまなざしを侮蔑のまなざしに変えた。

 柊家の長女として多少の期待を抱いていたのだろう満人に至っては、福寿を視界から消した。


 いや、今考えればその時に福寿の死亡届は提出されたのかもしれない。


「ああ、そうか」

「お嬢様?」

「ミツは知ってた? わたしの死亡届が出されていたことを」

「まさか!?」


 ミツは口を手で覆う。しかし、何かに納得したのか、小さく首を縦に数回振った。


「だから、……お嬢様を日中外に出すなと……?」


 満人と薫子は使用人に厳命していたのだろう。

 福寿はどうしても庭の花を見たいとヤヱに訴えたことがあった。その時は『旦那様のご命令で、庭に行くことはできません』と止められた記憶がある。

 それでもどうしても花が見たくて、ヤヱに花を贈りたくて福寿はこっそり庭に出た。しかし庭から薫子の部屋が近く、福寿はあっけなく見つかってしまう。薫子は怒りと焦りを合わせた憤怒の形相で福寿の髪を掴んで引っ張った。薫子は誰もいない部屋に福寿を押し込めるとその細い背を棒で何度も打ち付けたのだ。

 薫子はしきりに『出てくるな』と怒鳴っていた。当時は嫌われているからだと思っていたのだが……。

 しかしそれは薫子の視界に入るなという意味ではなく、柊家の外へ福寿の生存を隠すためだったのではないか。


 柊家にとって、弦士大学を落ちた福寿は恥でしかない。そしてそれは弱みにもなる。

 黒水藩から一緒に受験した帆立本家の子と、蕪元分家の子たちは合格したのに、筆頭補家たる柊本家の娘、ただ一人が不合格だったのだ。

 柊家が筆頭補家であるために、そして落ちた事実を隠すために福寿は亡くなったことにしたのではないか。

 

 ミツと福寿はお互いに顔を見合わせる。二人は言葉が出ず、呆けたような驚いたような、泣きそうな顔をしていた。



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