5.沈香と纏色
その夜。福寿はなかなか寝つけず、温かい布団から身を起こした。
眠る前に羽織っていた半纏に手を通す。綿がたっぷりと入った半纏の前の紐をしっかりと結び、障子を開ける。障子の向こうにはガラス窓がある。またその向こうには半月が闇夜を照らしていた。闇を覆う雲もなく、砂粒のような星がまたたく様子がはっきりと見える。
――ピイーーーーン
弓の音だった。微かに聞こえた音に驚きながら福寿はガラス窓を開ける。するとまた鳴る。間髪を入れず、また鳴る。
滅多矢鱈に打ち鳴らすその音が妙に気になった福寿は客室を静かに出た。
屋敷の中は使用人も寝静まっているのだろう。
福寿は身に沁みついた癖で足音を潜めて歩いた。邸内は静かで、どこからか微かに聞こえる弓の音しかしない。
弓の音を辿れば、それは奥の庭から聞こえてくるようだった。
歩みを遅くすると、遅くした分だけ鼓動が早まっているように感じて緊張する。
誰が奥の庭にいるのだろうか。衛冬や冬真ならまだいい。だが当主の尊冬や、その奥方、他の黒水の方であればどう対応しようかと福寿は足を止める。
「――れば」
まるで呪詛のような低い声が聞こえて、福寿は身体が動かなくなった。
「僕がもっと――」
弦が悲鳴を上げている。
「僕はもっと――」
休む間もなく弓を構えるのは冬真だった。
「僕にもっと――」
弦が泣いている。
このままではいけない、止めなければ――と福寿は動かない足を叩いて叱咤し、廊下の端まで急いだ。
「冬真様」
「僕がっ」
「冬真様!」
取りつかれたような冬真に向かって福寿は真夜中であることも忘れて大声を出した。
「僕は……」
福寿は裸足で奥の庭に下りた。冬真が弦を引けないように、右袖を引っ張る。
「冬真様。無闇に弦を引いては指を痛めます。肩を壊します」
「僕の指なんて、僕の肩なんて!」
「冬真様」
福寿は冬真の内にある闇を初めてのぞき、手が震えた。他人の闇を見るのが怖い。
だが、ここで冬真を一人にしてはいけないとも感じる。
福寿は震える指をぎゅっと握った。
「冬真様」
冬真がゆっくりと顔を横に向ける。
うろのような瞳に月光が差し込んだ。まるで月の光に浄化されるように、冬真の瞳に色彩が戻る。
その月明りに照らされた冬真の顔が悲しみに歪んで見え、福寿までひどく悲しい気持ちになった。
「僕が弱いから……」
「弱くなど」
冬真が首を横に振る。
「僕が悪いんだ」
「悪くありません」
冬真が泣きそうな顔をしているように福寿には見えた。
福寿の言葉は冬真に届かないのだろうか。どんな言葉を掛けるべきか分からない。冬真が望む言葉が何か分からない。当たり障りのない言葉しか出せない自分はやはり出来損ないなのだと突き付けられる。
冬真が横を向き弓を構える。
「兄上の腕がなくなったのは僕のせいだ。だから僕の指なんて千切れていいし、肩なんて壊れてもいいんだ。兄上の代わりに僕の腕が食べられれば良かったんだ!」
「……なの、……そんなの、いいわけありません。衛冬様は喜びません」
昼間には決してみせない弱さが、夜の寂しさとともに現れているのかもしれない。冬真の弱さを包めるのは福寿ではなく衛冬で、その弱さを克服するのは冬真自身。
福寿は何もできない。冬真が闇に飲み込まれるのを指を加えて傍観していることしかできない。それがひどくもどかしい。
鼻の奥がつんと痛みを発する。
「それでもわたしは、冬真様に助けていただきました。冬真様が竹林で助けてくださらなければわたしはあやかしに食べられていたでしょう」
「……ふ、くじゅ?」
「自暴自棄になるのは今ではないと思います。ご自分を大切にしなければ衛冬様も悲しまれます。どうか、まずはその右手を手当てしませんか?」
冬真が自分の右手を月の下で見る。マメは潰れ、血が滲んでいた。自覚するとズキズキと痛みを感じ始めたのだろう。冬真の眉が辛そうに動いた。
「……ごめん。ごめんね、幻滅したよね……」
小さな子供が謝るような声音を聞いて、福寿は首を横に振る。
幻滅などしない。するわけがない。こんな夜半になっても真面目に努力する姿を見て、尊敬こそすれ、幻滅などするはずがない。
「どうして福寿が泣いているの? どこか痛む? もしかして怪我してるのかい?」
「違います」
福寿は目元をごしごしと拭う。
「福寿、そんなにこすると赤くなりますよ」
目をこする両手を冬真に取られる。冬真の手はドキッとするほど冷たかった。
冬真はどれくらいここにいたのだろう。
「いつもこんな真夜中に?」
「五蘊魔を祓い損ねたので……。今度こそ僕があいつを祓わなければなりません」
「わたし、お役に立てなくて、ごめんなさい」
福寿は謝罪のために頭を深く下げた。
「いや、福寿は……。僕が強ければ、あいつを祓えるほどの力が僕にあれば、兄上だって腕を失くさずに済んだのに……僕が――」
「冬真様?」
また冬真が闇に引き込まれそうになっていると感じて、福寿は冬真の冷たい手をぎゅっと握った。自虐の沼から引き上げようと、福寿は冷たい手を温めるように包み込んでみる。
冬真が、はっとした顔をする。
「僕は……、今度こそ兄上と、それから福寿も守れる弦士になるために努力します」
「わたしも……、もっと頑張ります。もっと努力します」
冬真を支えるために頑張りたいということは心に留めた。
冬真に支えてもらうのではなく、いつか胸を張って、冬真を支えると言える日が来るよう鍛錬に励もうと福寿は決意した。
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