4.弦士とあやかし②
*
「やっぱり福寿には鳴司の素質があるね」
「弦士である僕よりも余程力があるのに、どうして弦大を落ちたのでしょうか?」
冬真は福寿の頬に掛かる長い黒髪を横に払ってやる。上気した頬は赤く染まっていた。しかしその頬は瘦せこけている。この年齢の女性にしては随分と軽いのではないかと心配になる。
「一度調べてみないといけないね」
「はい」
鬼泉の奥にある林から風が吹いた。
衛冬が俊敏な動きで林に対峙する。
厭な空気を孕む風だ。衛冬の右袖をあざ笑うかのように揺らしている。
「冬真」
「兄上、この気配は」
衛冬が自身の右肩を左手で強く掴む。
「ああ。ここが疼く」
昼前とはいえ薄暗い林から重たい闇が這い出してくる。
冬真は自分の膝に置いていた福寿の頭を芝の上に寝かせると林を凝視したまま立ち上がる。目の前に現れるだろう恐怖に、冬真の足が震えそうになった。それを大地を踏みしめて堪える。
そして次に冬真は自分の弓を構えた。上がる心拍に合わせて呼吸を整え、お腹の底に霊力を貯めていく。
この動作は弦士大学で学ぶ基礎であるが、福寿はこれを誰に習うことなく自然に習得していたのだ。
冬真はお腹の底に貯めた霊力を右手に流し、霊力で矢を作ると弓につがえる。
林からどろりとした闇が吐き出される。
「冬真!」
「祓い給え」
衛冬の指示に従い、冬真は霊力の矢を放つ。
矢は闇に刺さるが核には届いていないようだ。冬真は次の矢を構える。
しかし矢を放つ前に闇から角が二本生え、するりと顔が出てきた。
「放て!」
冬真は角のある顔を狙って矢を放つが、その顔は器用に右に傾いて矢を避けた。直後、ずるりと身体すべてが闇より出づる。
「久しいな人間」
薄い唇が弓張月の形を作るのは白皙の青年だった。絹糸のような白い髪の毛が風になびく。眉目秀麗な貌の額から生える二本の角さえなければ人間にしか見えない。否、それがあやかしだと物語るような血よりも赤い、紅い眼が禍々しく光っている。
休んでいた福寿も、あまりの禍々しさに反応し、全身に怖気が走った。怖すぎて身体が動かない。しかしそれに対峙しなければならないのだ。恐怖を抱きながら薄く目を開けると、それも福寿を認めて艶やかに笑った。
「美味しそうなおなごがおるではないか?」
鷹揚に喋るそれが福寿に向かって一直線に飛んでくる。すかさず冬真が福寿の前に立ち霊力の矢をつがえる。
「
「お前は
冬真が五蘊魔と呼んだそれは、首を右に倒して冬真の背に隠れる福寿を再度見た。
「うむ。どうだ、我の嫁に来ぬか?」
「よ!? 嫁になどやるわけ――」
「お前の許可は求めておらん。なあ衛冬、どうだろう。もらっても良いか?」
五蘊魔は浮遊したままゆらゆらと今度は衛冬に向かっていく。
いつもは飄々としている衛冬の顔が歪んでいた。
「あのおなごを連れ帰るゆえ、今日の所はお前を喰わずに帰っても良いぞ」
五蘊魔は破顔する。
「お前は私が祓ったはずだが!」
「あははは、あれで祓えたと思ったのか!?」
衛冬は奥歯を強く噛み締めた。苛立ちを孕んだ静かな怒りがじりじりと福寿にも伝わってくる。
ぎりぎりと奥歯を鳴らす衛冬の横に降り立った五蘊魔は衛冬の右袖を楽しそうに揺らした。五蘊魔の右頬が上がっている。
「触れるな!」
「つれないな。お前の一部はすでに我の一部。もうちっと喜んではいかがか?」
「誰がっ!」
衛冬らしくない雰囲気に、このままでは大変なことになるかもしれないと思った福寿は少しだけ回復した身体に鞭を打って身を起こした。
冬真の背中が目の前にある。その背中は震えていた。
怖いのは福寿だけではない。弦士である冬真も恐怖を感じているのだ。
福寿は深く呼吸をする。口に当てていた布も外して全身に酸素を行きわたらせる。
福寿が立ち上がった気配を感じたのだろう、冬真が振り返った。
驚きながらも、さっと冬真が福寿の肩を支える。福寿は冬真にしか聞こえない小さな声で囁いた。
「弓を」
その言葉に冬真は衛冬の愛弓を前に持ち上げてくれる。
「体力は? 大丈夫?」
「わたしを支えていただけますか?」
「任せてくれ」
お願いします、と福寿は言うと冬真から弓を受け取って構える。
「福寿、霊力を練って矢にするんだ」
「霊力?」
「お腹に溜めているだろう? それを右手に集める」
冬真の指示がよく分からないながらも、福寿はお腹に貯めた空気を肺にあげ、右の脇から腕に流し、それを右手の平に留めるイメージを浮かべた。
「上手だ」
「出来ていますか?」
「それを細く、長くして、矢を作る」
冬真が福寿の右手の甲に、自身の手を添える。
刹那、福寿の中に別の空気が入り込むのを感じた。手の平が熱くなり薄い紫色の光が集まっているような気がする。
その光に対して細くなれと念じれば歪だが細くなっていく。福寿は矢を想起し、紫色の光を矢のような細長い棒に変えることができた。不格好な鏃にしかできなかったため、それが五蘊魔に届くか分からない。
それでも弓につがえて五蘊魔に狙いを定める。五蘊魔は衛冬に絡んだままである。
ぎりぎりと、福寿は腕の限界まで引いた弓を、衛冬が足を後ろに下げた瞬間に放った。
「祓い給え」
福寿の紫の矢は狙いより下降したが、五蘊魔の腿に見事に刺さった。
「あん? あー、痛い痛い。痛いだろう?」
五蘊魔は片眉を歪めるが、足に刺さった矢を引き抜くと艶然と笑う。傷口に手を当てると、ジュっと音がした。
手に付着した体液を五蘊魔は妖艶な表情で舐めとってみせる。
「ああ、これは嫌いだ。傷が治らぬではないか?」
五蘊魔は弦士の放つ矢で受けた傷であれば自力で治すことが可能だ。しかし体液の流出は止まったのだろうが、足には依然穴が開いたままふさがっていない。
「やはり旨そうなおなごだ。我に傷を与えられるのは鳴司のみ。鳴司というのは極上に美味だ。なあ衛冬」
口端をちろりと舐めとる五蘊魔を、衛冬は睨み殺しそうなほど鋭い眼光を放った。
「お前を祓うのは私だ」
「腕のないお前に何ができる?」
五蘊魔は憐憫の顔を衛冬に向けた。
衛冬の右袖が寒々しく揺れる。
「五蘊魔、お前を祓うためには確実に核を矢で貫かねばならぬ」
「ああそうだ。しかし先の戦いでお前はわずかに我の核から外れたところに矢を放ったのだ。惜しいなぁ。あと一歩で仕留め損ねたのだ」
「ならば今日こそ」
衛冬は霊力を左手に集めていた。貫くことだけに特化した霊力の矢を練る。それは矢というよりは大きな針に近かった。
衛冬は左腕を俊敏に動かして五蘊魔の核を狙う。核とは人間でいうところの心臓である。
衛冬の霊力の切っ先が五蘊魔の胸に突き刺さる。しかし核まで届いたところで止まった。核を突き刺すまでには至らない。
「惜しいのお?」
「いや、私の役目はこれでいい」
衛冬が、ふっと笑う。
「なに?」
「福寿、放て!」
「祓い給え」
衛冬の指示を聞き終わる前に福寿は衛冬の霊力の切っ先に向けて矢を放った。福寿は自分の霊力の色が見えたことで衛冬の霊力を見ることができていた。衛冬の霊力は福寿とは色が少し異なって見えた。
福寿の矢は五蘊魔に届く。しかし浅い。五蘊魔が後ろに飛びすさるほうが一寸早かった。核には届かなかったものの、しかし五蘊魔の胸に刺さった矢は確実に五蘊魔を疲弊させている。
「おのれ、忌々しい」
五蘊魔は片膝を付いたまま福寿の矢を抜く。着物の袷を緩めて胸の前をはだけた五蘊魔は手を胸に当てて体液の流出を止めた。手を下ろした五蘊魔の胸が大きく上下する。
傷を負った胸には三つの穴があった。
ひとつは小さく、それは衛冬の先ほどの大きな針が刺さった穴。
もう一つは新しく、福寿が放った矢で開いたもの。
そして最後の一つは小石ほどの大きさがある。
「ああ、しかしこれが一番痛いぞ、衛冬」
五蘊魔は一番大きな傷に手を当てる。
「大人しく祓われろ」
「厭だ。またそのおなごと会うために体を回復させてくる」
「させるか、ここで祓う」
しかし福寿はすでに限界を超えていた。息は乱れ、膝が落ちる。それでもまだ立ち上がろうとする福寿の背を支えていた冬真は、唇を噛んだ。
「福寿、手を離すよ」
冬真は自身の弓を持って五蘊魔に対峙した。身体に残る霊力全てを右手に集めて重く鋭い矢を作る。
「ははっ、お前に我は祓えぬさ」
「黙れ!」
五蘊魔もただではやられぬとばかりに冬真目掛けて駆ける。
近づく五蘊魔にぎりぎりまで狙いを定めて冬真は矢を放った。
矢を受ける瞬間の五蘊魔はにやりと笑う。鳴司ではない冬真の矢は核に届かないし、致命傷をも与えらえないという傲慢な笑み。
しかし五蘊魔の振り上げた腕は冬真の鼻先を掠めて落ちた。五蘊魔の視線が自身の胸に注がれる。そこには放ったばかりの冬真の矢が真っすぐに刺さっていた。
「う……、な、にを、した?」
冬真の矢は五蘊魔の胸にある小石ほどの大きさの傷をさらに抉り、一回り大きな穴にしていたのだ。
「冬真、まさか?」
衛冬はそれが鳴司に及ぶ力だと判じる。
「多分ですが、……視えました」
五蘊魔の周囲にどろりとした闇が発生し、闇の中に五蘊魔が溶けていく。
「うぐ……」
「待て、逃げるな!」
冬真はすかざず次の矢を作るが、霊力が少なく貧弱な矢しかできない。それでもないよりマシだと溶け残る五蘊魔の顔目掛けて放つが、五蘊魔の右の角に当たり弾かれた。
「糞ーっ!」
冬真の叫びを聞きながら福寿はぎりぎりで保っていた意識を手放した。
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