4.弦士とあやかし
黒水家の馬車に乗せられた福寿は、竹林の手前で衛冬とともに馬車を降りる。
「うっ」
福寿は嘔吐しそうになって口を押さえた。異臭はないがドブの中にでも潜ったような感覚がある。
黒馬の
黒い靄に向かって冬真がすぐに弦を鳴らし、片端からあやかしを祓っていく。
「瘴気が濃いな」
竹林からもう少しで抜けるというところで衛冬が左手を懐に入れて何かを取り出した。
「福寿、この布で口を覆うんだ」
衛冬がくれたのは何の変哲もない白い布だった。しかしその布を口に当てると柑橘の爽やかな香りに包まれる。
「柚子には破魔の力があるんだよ」
そう教えてくれる衛冬に頷きながら、布端を後頭部で結んだ。不快感が軽減して呼吸しやすくなる。
鬼泉に近づくと、鬼泉はどす黒く変色していた。今まで見たことのない禍々しい色を帯びている。
「これは酷い」
浮かんでいる青和の和紙も異様な色に染まっていた。まるで夜の深い闇をいくつも重ねて鬼泉に浮かべたような色である。毒々しささえ感じて福寿は眉根を寄せた。
鬼泉の奥にいた顔の青い女性がこちらに向かってくるが、足取りは重くふらついている。長時間瘴気を吸いながら、あやかしを祓っていたのだろう。
「……く、黒水、さ、ま」
息も絶え絶えで現れたのは、薫子だった。
「薫子殿、あなたは家に帰るといい」
「です、が……」
「お役御免だ。といっても鬼泉番は福寿がずっと勤めていたんだろう。だから君はもう
「し、しかし」
「福寿、行こう」
福寿は薫子に頭を一つ下げて鬼泉の淵に膝をつく。
青和の和紙はすでに浮かべてある。あとは太陽に向かって祈りを捧げるが、鈍色の厚い雲に隠されその姿を現しそうもない。儀式の手順として、次は弓を鳴らすことになる。
しかしいざ酷い状態の鬼泉を目にすると、落ちこぼれの自分が本当にこの澱んだ鬼泉を浄化できるのかと不安になる。浄化できなければ衛冬と冬真は落胆するだろう。やはり出来損ないだったかと侮蔑の瞳で見下ろされるかもしれない。
福寿は急に怖くなって、肩が上がった。
「大丈夫ですよ」
冬真の声に顔を横に向けると、冬真が福寿の弓を差し出す。
「僕も横にいるから落ち着いて」
福寿は襤褸だけど愛着のある弓を受け取った。ぎゅっと強く弓を握って、それから冬真の言葉を脳内で繰り返す。
――大丈夫。大丈夫。
ふっと息を吐いて余計な力を抜き、立ち上がる。
いつものように弓を構えて、息を深く吸い、細く長く吐き出すのと同時に弦から指を離した。
「清め給え」
――ひゅわぁん。
弦の音色が鬼泉に波紋を広げる。
波紋が和紙に届く。届いた波紋が和紙にも広がっていく。和紙の色が薄くなったように見えたがそれは一瞬で終わった。和紙はすぐにまたどす黒い闇色に戻ってしまう。
「その娘は、落ちこぼれで、浄化の力など……」
薫子が
――そう、わたしはやっぱり落ちこぼれで浄化の力なんてない。
「口を閉じろ」
衛冬が低く一喝して薫子を黙らせる。
「福寿、これを使ってみなさい」
衛冬は持っていた弓袋の紐を外して自身の愛弓を出した。
「衛冬様の御弓では……?」
「福寿の弓では間に合わないだろう。しばらく使ってやることができず、少々拗ねているんだけど。福寿なら扱えると思うから、これを使ってみて」
「本当によろしいのですか?」
「ああ、もちろんさ」
福寿は衛冬から両手で受け取る。それは福寿が使っていたものよりも一回りも二回りも大きく重量もあり、腕に力のない福寿には少しばかり重たかった。
福寿はお腹に力を入れて踏ん張り、弓をしっかりと構える。呼吸を整えて、いつもより息を深くお腹の底にためた。
「福寿、願え。魔を祓えと、泉を清めろと!」
衛冬の言葉を反芻するように福寿は唱えた。
「どうか魔を祓ってください。どうか泉を清めてください。――祓い給え、清め給え」
福寿は闇色の鬼泉を睨めつけて、思い切り引いた弦を離す。
――びわぁぁぁぁん、わぁん、わぁん、わぁーーーー。
弓の音がどこまでもこだまするように響き渡っていく。重たく澱んだ瘴気が風に吹かれたように霧散していく。
鬼泉をつたう波紋は大きく水面を揺らし、波紋が触れた和紙から闇色を薄くした。
あっという間に鬼泉は闇色から灰色になっていく。
「よし、もう一息だ」
福寿のこめかみに汗が浮かぶ。身体が酷く重たくなった福寿は弓を構えていられずに地面に落とした。
「申し訳――」
「福寿!」
前に倒れそうになる福寿の腰を支えたのは冬真だった。
福寿は目の前が真っ白に染まっていた。冬真の「大丈夫か」という声は聞こえるが、口が動かず「大丈夫です」と答えることができない。
「福寿、横になって少し休もう」
――ですが、まだ浄化はできていません。
そう言いたいのに、福寿の声は出ていない。
「兄上の弓は、本来は
冬真の言葉に疑問を抱くが、しかしもう一度弓を引くためには、たしかに体力の回復が先決だと思った。福寿は全ての力を抜いて、その重たい身体を冬真に預けるのだった。
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