5.沈香と纏色③
「兄上、いらっしゃいますか?」
「入っておいで」
「失礼します」
腰を落として襖を開けたのは冬真だった。廊下の眩しさに福寿は顔を背ける。目が慣れるより早く、冬真が襖を閉じた。
冬真が燭台に火を入れると、灯りのない部屋がぼんやりと明るくなる。
「鍛錬中に入ってくるなんて、何の用だい?」
「福寿の氣が大きく乱れているのを感じたので……。あの、兄上」
「なんだい」
「兄上は天才です」
「うん知ってる」
「しかし天才であるが故に、感覚のみで習得されたものが多いはず。兄上のその『ががが』とか『ぎい』とか『ぐう』というのは一般には伝わりにくいものです」
「そうなの?」
衛冬の視線が冬真から福寿に移る。
「申し訳ございません。わたしが衛冬様のご指導を理解できないのはわたしが出来損ないだからです。分かる方にはきっと分かりやすいご指導だと思います」
福寿は頭を下げた。自分が落ちこぼれだから理解できないのであって衛冬のせいではない。
「兄上、良ければ僕が福寿に助言してもよろしいでしょうか?」
「冬真の教示で福寿の修練になるのなら、もちろんだよ」
どうぞ、と衛冬は微笑んで壁際に下がる。
冬真は福寿の横に腰をおろした。冬真が近くに来ると少し緊張して身体が熱くなるのが分かる。
「呼吸を整えるとお腹に霊力が溜まります。これはすでに習得しているんだけど、お腹にある霊力が感じられますか?」
「……違うかもしれませんが、なんとなく元気が湧くような感覚でしょうか?」
「感じ方は人それぞれですが、概ね間違ってないと思います。修練を積めばよりはっきりと分かるようになりますので今はそれでいいです」
「はい」
「では次に。お腹にある霊力を全身に行き渡らせます。まずは上半身。お腹にある霊力を吸い上げ、胸いっぱいに霊力を満たします」
福寿は目を閉じてお腹にある元気が漲る空気を深く吸い上げた。肺に空気を満たすのとは別の感覚があるのを感じる。
「呼吸を繰り返して、徐々に上に広げていき、頭の天辺まで霊力を行き渡らせます」
福寿はお腹から胸に広げた元気を頭の中にも広げていく想像を繰り返す。
衛冬の抽象的な説明よりも、冬真の説明の方が福寿には余程分かりやすかった。そして何より理解できることが嬉しい。
どれほど繰り返しただろうか。首筋に汗が伝い、背中もぐっしょりと濡れているのを知覚した頃――。
「上手にできているよ、冬真は教え方が上手いね。部屋を明るくしてくれる、冬真?」
「はい」
カチ、と
「福寿はそのまま目を開けてみよう」
衛冬の声に従い、福寿はゆっくりと目を開けた。目の前がぼやけて見えたが、目をぱちりと開くと視界は明瞭になる。冬真より先に衛冬が見えた。
「視えた?」
「はい」
衛冬の身体が深い夜空の色を纏っている。
「これが霊力の色。自分の右手に霊力を送れるかい?」
「やってみます」
正直体力は限界だった。しかしここで集中を切るわけにはいかないと福寿は大きく呼吸して上半身に巡らせた元気を右手に流す想像を繰り返す。
三十回の呼吸のあと右手が軽くなった。
「視てごらん」
福寿は軽くなった右手を凝視する。その手は色を纏っていた。先日の五蘊魔との戦いで見た色よりも濃くなっているように感じるが福寿の霊力は紫色だった。
「
「それが福寿の霊力の色。霊力の色を
「これが」
福寿は冬真を見た。冬真の霊力の色もきちんと視える。
「冬真様も――」
「福寿」
衛冬がぴしゃりと制するように名前を呼ぶ。
「自身の纏色が視えない者に、その者の色を発言することは禁止されているからね。気を付けて」
「冬真様は視えないのですか?」
冬真が傷ついたような表情をするのを見て、福寿は失言だったと後悔する。
「申し訳ございません」
「いや、僕が未熟なだけだ」
「どちらかというと冬真もよくできている方なんだよ。ここまで指導できるんだから、あともうひと頑張りすれば視えるようになるはずだ。で、やっぱり福寿が凄いってことがよく分かった。この短時間でここまで習得するなんて。福寿は
「わたし弦士大学を落ちたのに?」
「そう。どうして落ちたんだろうね。と思って昨日の内に藩塾に行ってきたんだ」
衛冬は立ち上がると、入室してきた襖の向かいに位置する襖を開けた。鍛錬の間とは真逆で明るい陽射しの差し込む部屋だった。中央の卓袱台には茶と菓子が用意されている。
「こちらで休もう」
霊力の集中を切り、立ち上がろうとした福寿は足に力が入らず、へたり込む。
「福寿!?」
「力の使い過ぎかな。無理をさせてすまないね」
「いえ」
「少しずつ力の使い方を覚えよう」
「はい」
「冬真、福寿をこっちに連れてきてあげて」
「分かりました」
立ち上がるために冬真の腕でも掴まらせてもらえればいいと思っていた福寿は冬真の行動に目を見開く。
「失礼するよ」
「わっ!」
冬真が福寿の横に片膝を着いた。そして軽々と福寿を横抱きにする。
福寿は黒馬の緇黎に乗った時のような不安定さを感じて、冬真の首にしがみついた。冬真から沈香の匂いがして全身が熱くなるのを感じる。
「二人とも仲良しだねぇ」
衛冬は愛おしいものを見つめる眼差しで二人を見つめていた。
卓袱台の前にある座布団に下ろされた福寿は冬真に礼を言う。しかし冬真は聞こえていなかったのか黙って自身の両手を見ている。
「冬真?」
衛冬の呼びかけに、冬真は視線を上げる。冬真の視線の先にいた福寿は小首を傾げた。
「兄上。……どうしてでしょう」
「何がだい?」
冬真は衛冬を見る。
「福寿に触れると、なぜだか力が増すのです」
「人に触れて力が増幅するなど聞いたことはないのだが?」
兄弟の視線が福寿に向いた。
「わ、わたし、落ちこぼれなので、そんな力はないかと……」
しかし、それを否定したのは冬真だった。
「いえ、福寿は優秀だったと塾長が言っていましたよ」
「そうなんだよね。昨日、二人で話を聞きに言ったら、他の講師も口を揃えて福寿は優秀だったと言っていたよ。ねえ、福寿は受験の日の体調は万全だった?」
「悪くはなかったと思います」
「試験内容がとても難解だったとか?」
「手応えがあったように思います。でも傲りだったのでしょう。だってわたしは出来損ないですから」
頭の中で薫子の声がこだましている。
――落ちこぼれ! 出来損ない!
冬真が強く唇を結んで、それからゆっくり開いた。
「塾長は当時、弦大に問い合わせたと言っていました。何かの間違えではないかと。しかし弦大からの回答が届く前に柊家から福寿の死を知らされ、受験日は体調が悪かったのだろうという話で片付いたのだと言っていました」
「そこで、もう一度弦大に問い合わせようと思っているんだけど、勝手なことをしてもいいかな?」
「兄上、それは今更では? ですが福寿が良ければ、僕たちに調べさせてください」
福寿は二人の真剣な瞳を見て、自分が答える言葉が決まる。
「はい。……でも」
「でも?」
福寿は衛冬、冬真と順に目を見て、二人に条件を出した。
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