1.鬼泉番と弦士様③


 昼の陽射しは暖かいが、地面には雪が薄く残っている。足の痛みに気付いた福寿は自身の足を見下ろした。

 福寿は何も履いていなかった。素足がべちゃべちゃと雪と草と泥を踏んでいる。


 飛び出すにしても草履くらい履いてくるべきだったと福寿は後悔した。だが今さら草履を取りに戻る気にはならない。心の痛みの方が強すぎて足の痛みなどどうでもいいように思えた。心の痛みの方が強すぎて、心の痛みを紛らわせるために、小石の上に足を乗せてみる。ぎゅっと踏み込んで足裏にわざと痛みを感じさせた。涙が出そうになるのはどちらが痛いからだろうか。小石から足を下ろして、歩を進める。

 行く当てはないが、福寿の足は自然とそこに向いた。毎朝のお勤めをする鬼泉に。


 鬼泉の手前には小さな竹林があり、福寿はいつもその間を通り抜けていく。

 しかし違和感を覚えた福寿は足を止めた。


 ぞわりと背を這う、厭な感覚。


 思いきり振り返るが、そこにはおかしなものなど何もない。ただいくつもの竹が天に向かって真っすぐ伸びている。

 だが福寿の背には未だおぞましいものが、ひたりと張り付いている気がするのだ。


 笹の葉がさわさわと音を立てた。福寿は何かから逃げるように必死に走る。何かに追われているという感覚ははっきりと分かった。

 少し走ればすぐに竹林を抜けることができるだろう。


 竹林の向こうに見える光を目指して福寿は懸命に足を動かした。


「あっ」


 あと一歩で竹林を抜けるかという所で福寿は何かに足を取られて前につんのめる。

 それでも逃げなければ、と思う福寿は身体を半分起こしながら目と鼻の先にある鬼泉を目指すために、そちらへ視線をやった。


 鬼泉の側に誰か立っている。

 その人は弓を構えてそれを福寿に向けた。


 ――ピイィーーン。


 鬼泉の側に立つ人は、矢をつがえてはいない。それなのに福寿には矢が飛んできたように感じた。

 その矢は福寿の頭上ぎりぎりを越えて背後に届く。鈍く突き刺さる音が聞こえた。


 振り返った福寿は、黒いモヤが霧散していく様子を目の当たりにする。


「大丈夫?」


 弓を持った男性が福寿の側に来て、何でもないように声をかけてきた。

 

 今のは何か、と問いたい気持ちと一緒に福寿は口を手で覆い隠す。


「……大丈夫?」


 男性が心配そうに再度問うので、福寿は手を口に当てたままコクンと頷いた。


「喋れない?」


 喋れないことはない。ただ薫子に口を開くなときつく言われているため声を出してはいけないと福寿は思ったのだ。

 だが、目の前の男性は福寿が声を出すのを待っているように見える。仕方なく福寿はそっと手を下ろした。


「あ、……あれは、なに?」


 掠れた、小さな声が出る。


 福寿は黒いモヤについて男性に問うていた。いや、福寿はその正体が何か知っているはずだった。それなのに質問したのは、それに初めて襲われたからだろう。


「あやかし」


 男性は何でもないことのように淡々とした声で教えた。

 質問の答えを聞いて、福寿はやはりそうなのだ、と思った。途端に鼓動が早くなっていくのを知覚する。

 この男性があやかしを祓ってくれなければ、福寿はあやかしに食べられていたかもしれないのだ。


「助けていただきありがとうございます、弦士げんし様」


 弦士とは、あやかしを祓える力を持つ者のこと。弦士になるには弦士大学を卒業し、弦士と認められなければならない。

 福寿の妹、牡丹がその弦士大学入学試験に合格したと聞いたのは先ほどのこと。弦士になることを目指して春から通うことになるのだろう。


「……最近、黒水藩であやかしの出現率が高くなっているので、気をつけてくださいね」

「はい」

 

 男の注意に従うように『はい』と答えた福寿だが、今のようにあやかしに襲われても身を守るすべを持たない福寿には難しいことだった。

 次も運よく弦士が居合わせてあやかしを祓ってくれることなどないだろう。


「立てますか?」

 へたりこむ福寿に男は手を差し伸べたが、男の視線が福寿の足に向かう。


「履物は? 逃げている間にどこかで脱げてしまいましたか? 探してきましょう」

 言うや否や竹林の中に入っていく男を福寿は慌てて引き留めた。


「お待ちください。草履は」

 男は立ち止まって振り返った。北風が男の重たい前髪を揺らす。

 落ち着いた男の佇まいに年上であろうとは思ったが、相貌を見るに年齢はそれほど離れていないように感じる。


「草履は?」

「……草履は、はじめから履いておりません」

「裸足で出てきたの?」


 男の声には吃驚の気持ちが混じって聞こえた。


「私の下駄で良ければ貸しましょう」

「いえ!」


 福寿は男の足元を窺う。墨色の袴の下に一目で上等だと分かる下駄を履いていた。


「わたしは大丈夫です」

 貸してもらうなど恐れ多いと福寿は俯く。下駄を凝視していては、欲しいと言っているように見えるかもしれないと思ったのだ。

 そうやって俯く福寿の心情などお構いなしに男は覗きこんでくる。だがすぐに首を元の位置に戻した。


「何か、……悲しいことがありましたか?」


 男は福寿と初対面にもかかわらず、心配するような声音を出す。

 それに福寿は戸惑った。


「いえ、……」

「本当に? でも泣いていたでしょ?」


 そう訊かれて福寿は泣いて家を飛び出したことを思い出す。

 今の福寿にはあやかしに襲われた衝撃の方が大きく、一寸忘れていたのだった。


「目を冷やしたほうがいいでしょう」


 男は鬼泉まで行くと懐から出した手ぬぐいを鬼泉の水に浸した。それからきつく絞った手ぬぐいを広げて手際よくたたむと、また福寿の元に戻ってくる。


 どうぞ、と男は福寿に冷たい手ぬぐいを差し出した。

 男の少し重たい前髪から覗く瞳には優しさが滲んでいるように見える。


「冷やしてください。腫れますよ?」


 借りてしまってもいいのか、そう悩む福寿の顔に男は手ぬぐいを当てた。

 福寿は慌てて手を持ち上げると男の指に触れてしまう。

 男の指はどきりとするほど冷たかった。


「手を離しますね」

「寒く、ないですか?」

「それは私の台詞です。……足は本当に大丈夫ですか?」


 心の底から心配しているような男の声音に、福寿は裸足の指をぎゅっと曲げる。

 福寿が唇を噛むと、男は少し困ったように眉尻を下げてから福寿の隣に胡坐をかいて座った。


「兄弟はいますか?」

「え?」


 唐突な質問に福寿はすぐに答えることができなかった。代わりに男が答える。


「私には兄が、……優秀な兄がいるんです」

「わ、わたしには、妹が」


 ようやく答えることができた福寿だが、弦士大学に合格した優秀な妹がいる――とは言えなかった。それを言うと、福寿は受験に失敗した落ちこぼれだということも話さなければならない気がしたのだ。

 福寿は男の表情を見ようと顔を横に向ける。

 

 男はどこか悲しそうな顔をしているように感じて、福寿の胸が痛くなる。

 初めに『悲しいことがありましたか?』という問いは、男が悲しい気持ちを抱いていたから出た言葉ではないかと福寿はそう思った。


 優秀な兄がいる男。優秀な妹がいる福寿。

 男のことを落ちこぼれだとは全く思わないが、優秀な兄妹がいるという共通点があることに福寿は気付いた。


 もう少しこの人のことを知りたい――と思った福寿の視線と、男の視線が重なる。

 福寿は恥ずかしさに、さっと顔を正面に向けた。

 男がふっと笑う声を聞いて、福寿は失礼なことをしたのではないかと俯く。


 目線の下がる福寿を見た男は空気を変えるように、次は、と質問してきた。


「おいくつですか?」

「ええと、わたしは十六で……」

「妹さんは?」

 福寿は自分の年齢は聞かれていなかったのだと恥ずかしくなりながらも二つ下の牡丹の年齢を答える。


「……妹は、十四。……弦士様は?」

「十八。兄は二十五です」


 さああっと風が吹くと、雪が一片ふわりと落ちてきた。

 男の手の平が天を向く。


「そろそろ帰りましょうか」


 空の色が鈍色に変わりつつある。今晩はまた雪がしんしんと降るに違いない。

 しかし福寿は帰りがたい気持ちになり、すっと立ち上がれないでいた。


「あの、わたし……」

「まだ帰りたくない?」


 男が優しく微笑む。福寿の胸がきゅっと締め付けられて苦しくなった。


「あなたの名前を伺っても?」

「ふ、く、……福寿です」


 福寿も男の名前が知りたかった。どうしても聞いて帰りたかった。


「あ、あの、弦士様は?」


 冬の風に乗って、男の名前が福寿の元に吹かれてくる。


冬真とうまです」


 トーマ、と福寿は口の中で弦士の名前を転がした。


「おいで、緇黎しれい


 冬真が遠くに向かって声を伸ばす。ヒン、と鈴のような音がしたあと、蹄の音が近付いてくる。


「黒いお馬?」


 鬼泉の南西方向から黒馬が駆けてくる。柔らかな草が寒さに負けず生えている場所がそちらにある。福寿はそこに馬がいたことに、今の今まで全く気付かなかった。


「いい子だ」


 毛並みの艶やかな馬は冬真の横で足を止めて、冬真の手に鼻先をこすりつけた。


「この子は僕の愛馬で、緇黎と言います」

「シレイ?」

「緇黎、こちらのお嬢さんは福寿だよ」


 馬のつぶらな瞳と福寿の目が合う。福寿はどうしていいか分からず、冬真の愛馬に会釈した。


「福寿、少し失礼しますよ」


 冬真は福寿の膝裏に手を入れ、反対の手で背中を支えながら抱き上げる。

 自身に何が起きたのか理解できず福寿は蛙がへしゃげたような声を出してしまった。


「げ弦士様! なな、何を?」


 福寿は抱えられたのだと理解した。福寿は何も言えず身を固める。両親はおろか、誰かに抱えられた記憶が福寿にはない。しっかり抱えられているとはいえ浮遊感には少なからず恐怖がある。


 冬真は抱えた福寿を緇黎の背に座らせた。そして冬真も緇黎に跨る。


「ちょ、ちょっと待って、落ちる、落ちます」

 馬の背中に初めて乗った福寿はその不安定さに恐怖を覚える。


「首に掴まると怖くないですよ?」


 トーマの言葉に従って福寿はトーマの首に手を回して掴まった。先ほどより安定していることに福寿は安心する。

 冬真は、ふっと笑った。福寿の耳に冬真の息が掛かる。息の掛かった耳だけ特別熱いような気がした。


「福寿は柊の人?」

「はい」


 馬はゆっくりと歩いていた。

 竹林を抜け、少し先にある二又分かれの道で冬真は馬を止める。そしてそこで福寿を下ろした。


「柊の家はこちらの道ですね」


 冬真は右の道を見る。


「はい。ご親切にありがとうございました」


 冬真は優しく笑い、左の道に行く。福寿は頭を下げてしばらく冬真の背中を見送った。

 久しぶりに声をたくさん出して楽しかったのだと、福寿は感慨深い気持ちに心が温かくなった。


 *


 動き出した福寿の足音を聞いて、冬真は振り返る。柊邸の裏口に向かうのを見てから、冬真は自分の右手を見た。


「不思議な使用人だ。……力が漲るような、この感覚は何だろう」


 ぐっと握った手を開き、そして福寿の小さくなる背中に視線をやる。それと同時に冬真は自分に向けられた視線を感じ取る。

 その方向を見ると一人の少女と目が合った。

 大きな花が咲く赤い着物の少女だった。うっとりと見つめるような視線に辟易した冬真は会釈のみして顔を前に戻した。

 ああいう視線を向けてくる女性には極力関わらない方が良いと冬真は常々感じていた。




 

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