第11話

 翌日も如月の様子は変わらなかった。

 叶向を見ない。

 業務上の会話もぎこちない。

 話題を振ろうとしても交わされてしまう。

 話をするタイミングを掴むこともできないまま、気づけば終業時刻を迎えていた。


「今日は上がりますね」


 その声に視線を向けると、彼女はすでに端末の電源を落として帰り支度を整えていた。


「あ、もう帰られるんです?」

「ええ。作業も落ち着いたので。お先に失礼します」


 如月は淡々とした口調でそう言うと席を立った。


「あの、如月さん!」


 しかし、その声が届くよりも先に彼女はフロアから出て行ってしまった。叶向は慌てて残っていた雑務を終わらせて彼女を追いかける。

 たしか前に彼女が松本と話していた。金曜日は帰り際に近くのコンビニで自分へのご褒美を買うのが習慣になっている、と。ならばきっと今日だってまだコンビニにいるはず。

 そう信じて叶向はコンビニまで走った。一番近くのコンビニは会社の先にある交差点の横断歩道を渡ったところだ。目の前の信号は赤。帰宅時間の国道は車の量も多い。

 叶向は足を止めて信号が変わるのを待ちながらコンビニの方へ視線を向けた。そして「え……」と声を漏らした。

 そこには如月がいた。彼女は満面の笑みを浮かべている。心から安心したような笑み。それが向けられた先に立っているのは見覚えのあるスーツ姿の男。松本だ。


「……なんで」


 職場では会話をしていることもあったが、そこまで親しい仲には見えなかった。ただの同期。それだけのはず。いや、果たしてそれだけだろうか。

 ふいに脳裏に蘇ったのは如月を心配する昨日の松本の様子だった。

 松本はもしかすると如月に好意を持っているのではないだろうか。だからあんなに心配をしていた。

 そのとき松本が如月の頭にポンポンと手を乗せた。如月は嫌がる様子もなく、ただ恥ずかしそうな、しかし嬉しそうな笑みを浮かべている。その様子はまるで信頼し合った恋人同士のようにすら見える。

 横断歩道の向こう。たった数十メートル向こうで彼女は松本と会話をしている。さっき叶向と話していたときとはまるで別人のように、楽しそうな様子で。

 信号が青になり、叶向は如月の笑顔を見つめながらぼんやりと足を進める。

 何を話しているのだろう。高校時代には叶向に向けていたような笑みで。

 何で嫌がらないのだろう。彼女のフワフワの髪を撫でることができたのは自分だけだったはずなのに。


 ――なんだ。バカみたいだ。


 こんなにもショックを受けている自分がバカみたいだ。

 如月と離れて十年。

 再会して二ヶ月。

 何も変わらない。

 自分は如月のことが恋愛として好きなわけではない。それなのに、いざ彼女が自分以外の誰かに触れられている様子を見ると堪らなく腹が立つ。嫌な気持ちがとめどなく沸き上がってくる。

 叶向は足を進めながら如月に視線を向けていた。やがて松本が彼女の頭から手を下ろしたとき、彼女の視線が叶向を捉えた。瞬間、彼女が浮かべた表情は驚き。そして動揺だろうか。


「あれ? 水無月さん?」


 暢気な松本の声が勘に障る。叶向は気づかないふりをして二人の横を通り過ぎる。だが、どうしても視線を如月から逸らすことはできなかった。

 彼女は何か言いたそうな表情で、しかし何かが喉につまったような苦しそうな表情で眉を寄せている。


 ――言いたいことがあるなら言えばいいのに。


 そう思ってから、それは自分も同じかと心の中で自嘲する。

 やはり仕事は辞めよう。これ以上、彼女の隣にいればきっとダメになる。彼女を傷つけてしまう。それは嫌だ。如月にはあの頃と変わらず、笑っていて欲しいから。

 振り向くこともせず、家とは逆方向に歩き続ける。どこかで一度引き返さなくてはいけない。でも今引き返せばきっとまだ如月はいるだろう。遠回りして帰るのも面倒だ。どこかで時間を潰さなければ。そのとき前方に見えてきたのは小さな公園だった。


「……ここ」


 公園に向かって歩きながら叶向は周囲を見渡す。そこは図書館裏の小道だった。

 懐かしさにほんのわずかだが気持ちが和む。少しあの公園で思い出に浸るのもいいかもしれない。そんなことを思ったとき「水無月さん!」と声が響いた。驚いて足を止めた叶向は振り返る。そこには息を切らした如月が思いつめたような表情で立っていた。

 叶向はじっと彼女を見つめると、気づかれないように深呼吸をしてから「如月さん、どうされました」と笑みを浮かべた。いつも職場でそうしているように。もうすっかり慣れてしまった愛想笑いを精一杯、顔に張り付かせて。

 如月はそんな叶向を見ると泣きそうな表情で「なんで、そんな顔してんの」と呟くように言った。


「え。なにか変な顔でもしてますか?」


 叶向は首を傾げながら頬に手をあてる。大丈夫だ。いつも通りの自分のはず。しかし彼女は「なんで怒ってるの」と続けた。


「なに言ってるんですか。わたしは別に怒ってなんか――」

「ウソだ」


 叶向の言葉を遮って言う。


「水無月……さんは、怒ってるときは泣きそうな顔でわたしのこと見てくるもん」

「だからわたしは別に――」

「でも!」


 さらに彼女は口調を強めて続ける。


「わたしにはその理由が全然わからなかった! 高校のときも、今も! なんでわたしのこと無視してたくせに、そんな顔してんの? わけわかんないよ。ねえ、水無月!」


 そう言った彼女の瞳には涙が滲んでいるように見える。しかし泣くまいと必死に堪えているのだろう。彼女の唇は震えていた。

 叶向は深く息を吐き、顔を俯かせると「こっちだって」と低く声を絞り出す。


「こっちだってわけわかんないっての」

「……え」

「先月、美守の店に行ったんでしょ?」


 言いながら顔を上げると如月は目を見開いて叶向を見つめていた。叶向は続ける。


「そこでわたしが美守と抱き合ってるの見て、それでなんで如月がいきなり態度を変えたのか理由がわかんない」

「それは――」

「聞いたよ。如月は美守のこと嫌いなんだよね? それは知らなかった。でも別に関係ないじゃん。わたしと美守のことなんだから。如月には何も関係ない」

「――なんで、そんなこと言うの」


 涙声の彼女は、しかしまだ懸命に涙を堪えようとしている。叶向は胸にズキズキと痛みを感じながら「だって如月はわたしとは何も関係ない、ただの他人じゃん」と言葉を吐き出した。


「違う……。わたしは水無月の」

「わたしの?」

「友達だって、昔も今もそう思って――」

「無理だよ。わたしは如月の友達にはなれない」


 叶向の言葉に、如月は涙をこぼした。彼女は顔を俯かせると震えた息を吐き出した。


「なんでそんなこと言うの。なんで、怒ってるの? わかんないよ。高校のときも、なんで水無月がわたしのそばからいなくなっちゃったのか全然わかんない」


 言いながら彼女は手の甲でゴシゴシと涙を拭う。大人になって化粧もしている彼女の顔は、すっかりマスカラも落ちてボロボロだ。


「本当に?」


 叶向は泣きじゃくる彼女に一歩近づいて手を伸ばした。如月は溢れる涙を拭いながら頷く。


「わかんない。教えてよ。わたしが悪かったなら謝るから」

「謝るんだ?」


 如月の頬に手を当てる。涙に濡れた彼女の頬は温かくて冷たい。彼女は涙を拭うのをやめて叶向を見上げてきた。こうして彼女から見上げられるのは嫌いじゃなかった。如月の瞳に自分だけが映っている気がしたから。


「謝るよ。秋山さんのことも、たしかにあんまり好きじゃないけど。でも水無月とまた仲良くなれるなら秋山さんにだって謝る」

「何を?」


 訊ねると彼女の視線が泳いだ。


「それは――」

「悪くないのに謝る必要なくない?」

「じゃあ、どうしたら許してくれるの」

「許すも許さないもないよ。それにきっと如月はわかってる。わたしがどうして如月から離れたのか。だってそうさせたのは如月じゃん」

「わたし……?」


 そうだ。そうさせたのは彼女だ。越えてはいけないラインを叶向が越えようとしたから、だから如月は……。


「わかんないよ。わたしが何かしたの?」

「ウソつき」

「水無……」


 動いた彼女の唇に叶向は自分の唇を押し当てて黙らせた。すぐ目の前で涙に濡れた彼女の瞳が大きく見開かれる。そっと口を離すと、彼女は呆然とした様子で叶向を見つめていた。


「わかった? 理由」


 しかし如月は答えない。その代わりのようにゆっくりと首を左右に振っただけだ。


 ――如月に触れたい。


 そう強く想うようになったのはいつからだっただろう。叶向は視線を公園の方へ向けた。

 あの公園で、彼女にキスしたときからだろうか。

 わからない。

 しかし、少なくともあのときのキスがきっかけだったのは確かだ。そしていつしか膨らんだ叶向の欲に気づいた如月は去ってしまった。当然だ。彼女は知っていたのだから。叶向が如月に恋愛としての好意を持っていないことに。


 ――わたしは、如月が好きじゃない。


 それなのに触れたいと思う。嫌われたくないと思う。しかし好かれたいとは思わない。もし彼女が叶向のことを好きになったりしたら、それはきっと叶向が触れたい彼女ではなくなってしまうから。


 ――めんどくさい奴だね、あんた。


 そう言って馬鹿にしたように笑う秋山の声が耳の奥で聞こえた気がした。


「帰るね。忘れて、今の」


 まだ呆然と立ち尽くしている如月にそう言葉を残し、叶向は彼女に背を向けた。

 もしかしたら追いかけてきてくれるのではないか。

 そんな自分の気持ちとは矛盾した淡い期待を胸に。しかしもう、彼女が追いかけてくることはなかった。

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