選択
第23話
もう一度付き合おう。そう水無月に言ったのはその場の勢いもあったのだと思う。彼女が自分のことを嫌ってはいなかった。それが嬉しかったから。そして欲が出てしまった。また彼女と付き合えば前に進めるのではないか、と。
一花はキーを打っていた手を止めて水無月へ視線を向ける。彼女はそれまでと変わった様子もなく、すんとした表情でパソコンのモニタに向かっている。
あれから一ヶ月。彼女との関係は変わったようで変わっていない。
連絡先を交換し、一花がメッセージを送れば彼女も返信をくれる。ただそれだけだ。水無月の方からメッセージが来たことは一度もない。もちろん一緒に出掛けたこともない。そんな話にすらならない。通話をするようなこともなく、メッセージの内容も仕事のことがメインだった。
――どうしたらいいんだろう。
彼女との距離感がわからない。昔のような関係には今のところ到底戻れてはいない。むしろ彼女との関係は以前よりも薄れているような気さえする。
一花はデスクに置いていたスマホを手にすると、少し考えてからメッセージを打った。
『次の土曜日、どこか行かない?』
送信して水無月を見ると、彼女はすぐに気づいたようでスマホを手に取った。それと同時に送信したメッセージの隣には既読の文字が表示される。そしてすぐに返信。
『仕事に集中して』
少し待ってみたが他に返信はこない。自然と気持ちは沈んでしまう。
あれから職場の外で会うときはいつも秋山の店だった。会話をしていても彼女の視線は秋山を追っていた。二人で過ごしているはずなのに水無月の意識は一花には向いていない。その時間が楽しいはずもなく、胸に広がっていくのは虚しさだけだ。
――やっぱり秋山さんのことが好きなのかな。
そういう関係ではないと水無月は言った。秋山も同じ事を言っていた。しかし秋山はこうも言ったのだ。身体の関係はある、と。
――だったら付き合ってるってことじゃん。
もしくは付き合っていたのかもしれない。あの二人の間には特別なものがある。それは自分には手に入れることができなかったもの。そんな二人の関係が羨ましくもあり、妬ましくもある。
自分は水無月と付き合ってどうしたいのだろう。
返信がこないスマホの画面を見つめながら考える。
昔みたいな関係には戻れない。それはもうわかっている。この一ヶ月で水無月にそのつもりがないこともわかった。それでも別れずにこうして付き合ってくれているのは彼女が優しいからだ。その優しさに甘えて自分は何をしようというのだろう。こんな口約束だけの関係に何の意味があるのだろう。
一花はスマホの画面に指を乗せてメッセージを打つ。
『ごめんなさい』
その先に続く言葉が思いつかず、しばらく考えた末にそれだけを送信する。きっと返信が来てもさっきと同じように怒られるだけだ。大人しく仕事に専念しよう。そう思ってスマホを閉じようとした瞬間、画面に新しくメッセージが表示された。
『どこ行きたいの?』
一花は驚きながら再び水無月へ視線を向けた。しかし彼女はこちらを見ていない。表情だって変化はない。黙々と仕事に打ち込んでいるように見える。それでも嬉しくなってすぐに返信を打つ。
『モールに行きたい』
『アウトレットのとこ?』
『そう。映画館もあるから何か観たいな』
『いいよ』
「やった……!」
思わず呟いた声に、近くの席の同僚が怪訝な顔を向けてきた。一花は笑って誤魔化しながら返信する。
『デートだね! 楽しみにしてる!』
『いいからちゃんと仕事して』
すぐに返ってきたメッセージに笑みを浮かべながら一花はスマホをデスクに置いた。水無月は相変わらずこちらを見てはくれない。しかし、ほんの少しだけその表情が和らいでいるような気がする。その変化が嬉しくて、つられるように一花の顔も和らいでしまう。
「おい、如月」
ふいに呼ばれて顔を上げると、そこにはいつの間に来たのか松本が立っていた。
「なに」
「気持ち悪い顔してんぞ」
「いや、いきなり失礼じゃない?」
「通りがかりにニヤけ顔が見えたもんで、つい」
彼はそう言うと不思議そうに首を傾げた。
「ちょっと前まではめちゃくちゃ具合悪そうな顔してたのに、最近はなんか浮かれてね?」
「そ、そう?」
「あー、さては男か」
一花は笑って「ないない」と片手をヒラヒラさせる。それを見てなぜか彼は安堵したような表情を浮かべた。
「だよなぁ。如月、全然そういう雰囲気ないもんな」
「なんかモヤッとする言い方だけど」
「まあまあ。それよりさ、聞いたか? 水無月さんの話」
急に水無月の名前が出てきて一瞬、心臓が跳ねる。
「え、水無月……さん? なにかあった?」
「んー。よくわかんないけど彼女、契約期間を短縮できないかって課長に相談してるらしいんだよ」
声を潜めて松本が言う。それを聞いて再び一花の心臓がドクンッと強く脈打った。
「――なに、それ」
一花は呆然と彼を見つめ、そして「いつ聞いた話?」と掠れた声で訊ねる。
「先週。課長が悩んでたよ。代わりを探すか引き留めるか、どうするかって」
「……へえ」
少し浮かれていた気持ちが一気に冷めていくのがわかった。
水無月は仕事を辞める気だ。それを秋山から聞いたのは一花が水無月と付き合う前だった。一花と働くのが気まずいから辞めたがっている。そう思っていた。しかし、今はもう以前ほどの気まずさはないはずだ。
――なんで、まだ辞めるなんて。
「何か嫌なことでもあったかな。如月、おまえ何かしたんじゃないの?」
いつものように如月をからかおうとしてくる松本の声。しかしとてもそれに応える気にはなれず、一花は無言で顔を俯かせる。その反応に戸惑ったのか、彼は「いや冗談だよ。マジになるなって」と慌てたような声で言った。
「何か家庭の事情とかだろ。水無月さん、仕事もできるし責任感あるタイプだしさ。誰かのことが嫌だから仕事辞めますなんて言う人じゃないだろ。絶対」
「……そうだね」
――そうとは言い切れない。
一花は思う。一花との関係は確かに気まずいものではなくなったかもしれない。しかし、きっとこの関係は水無月が望んでいたものではない。それは最初からわかっていたことだ。彼女は一花と深く関わる気なんてなかったのだから。
一花は水無月へ視線を向けた。仕事中の彼女はいつでも無表情で、そこにどんな感情があるのかよくわからない。
「ま、そういう話はあるけど本決まりじゃないからさ。あんま気にすんなよ」
松本はそう言うと自分のデスクに戻っていった。
「……無理でしょ、そんなの」
ぼんやりと水無月を見つめながら呟く。土曜日のデートを楽しみにしていた数分前の自分があまりにも滑稽で嫌になる。水無月の優しさに甘えて彼女の気持ちを考えようともしていなかった自分に腹が立つ。
――わたし、バカじゃん。
そのとき、ふいに彼女が一花の方へ顔を向けた。しかし彼女は怪訝そうな表情を浮かべただけですぐに目を逸らしてしまった。
一花は視線をスマホへ移動させる。もし今、彼女からメッセージが届いたら聞いてみよう。どうして仕事を辞めようとしているのか。
しかしスマホの画面はいつまでも真っ暗なままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます