第24話
モヤモヤした気持ちを抱えたまま迎えた土曜日。一花は待ち合わせ場所であるモールの一角にぼんやりと立っていた。
スマホに表示された時刻は午前十一時半。待ち合わせの時間は十一時だ。連絡もない。一花はため息を吐きながら近くのベンチに腰を下ろすと水無月にメッセージを送った。
『大丈夫? 何かあった?』
すっぽかされたのかもしれない。そう思うと同時に彼女がそんなことをするわけがないとも思う。だったら何か事故に遭ったのかもしれない。根拠のない不安が別の不安を呼び寄せる。
「……水無月」
送信したメッセージに既読はつかない。一花は画面をスクロールさせて水無月とのやりとりを最初から眺めた。
連絡先を交換してから短い文だけが続く水無月からの返信。そのどれもが上辺だけの言葉。そこに彼女の気持ちが感じられない。
――やっぱりもうダメなのかな。
一花と松本との関係を勘違いしてヤキモチを焼いてくれた。一瞬でもそう思ったが勘違いだったのかもしれない。
一花はそっと唇に指をあてる。あのときのキスも一花がうるさく騒いだから黙らせようとしただけなのかもしれない。あのときも彼女は怒ったような悲しい顔をしていたから。
「――全然成長してない。わたし」
ポツリと呟いてスマホの画面を閉じる。
高校の頃、どうして自分といると水無月があんな悲しそうな顔をするのかわからなかった。だから少しだけ距離を置いてみた。その選択が間違っていたとわかったときには彼女はもう手の届かない遠い場所に行ってしまった後。
そのことを後悔して過ごしてきたというのに、どうやら大人になった今も誤った選択をしようとしているらしい。
「まだ間に合うかな……」
スマホを握りしめて立ち上がる。まだ間に合うのなら別の選択をしたい。自分がそばにいても彼女が彼女らしく笑ってくれるような、そんな選択があるのならばそれを探したい。
そのとき「如月!」と声が響いた。反射的に振り返る。すると私服姿の水無月がこちらに向かって走ってくるところだった。
「ごめ……、寝坊しちゃって」
彼女は一花の前まで来ると息を切らせてそう言った。一花は呆然としながら「メッセージ、送ったんだけど」と呟く。
「ああ、うん。慌てて出てきたからスマホも忘れちゃって」
彼女は言いながら申し訳なさそうな表情で頭を下げた。
「ほんっとごめん」
謝る彼女の髪の毛は一房だけフワフワと立って揺れている。一花はフッと微笑みながらその髪に手を伸ばした。
「寝癖、そのままでバスに乗ってきたの?」
「え、寝癖ついてる? 美守、何も言ってくれなかったのに」
その瞬間、一花は手を止めた。ほんの少しだけ暖かくなっていた胸の奥から急に温度が消えたような気がする。
「秋山さん、か」
一花は彼女の柔らかな寝癖をそっと撫でて手を下ろした。
「うん。車で送ってもらってさ。バスより速いと思って」
「そう……」
一花は顔に笑みを張り付かせながら「とりあえず、ランチにしようか」と背を向けて歩き出した。
「お腹減っちゃった」
「……そうだね。わたしが奢るよ」
「彼女として?」
斜め後ろを歩く水無月を振り返って一花は訊ねる。しかし彼女は困ったような顔で「お詫びとして」と言った。
「……そう」
期待した答えが返ってくるわけがないことはわかっている。それが無性に悲しくて腹が立つ。一花は無言のまま歩き続けた。
「――如月」
そう呼んだ水無月の声は彼女らしくもない、不安そうなもの。
「なに?」
「ごめん。遅刻して」
「別に怒ってないよ」
「じゃあ、こっち見てよ」
その言葉に一花は立ち止まって振り返る。水無月は声の通り不安そうな表情で一花のことを見ていた。
「やっぱ怒ってるじゃん」
「怒ってないってば。ただ何を奢ってもらおうかなって考えてるだけで」
「その笑った顔、如月が怒ったときの顔だよ」
「なにそれ。なんでわたし怒ってるのに笑うの。怖いじゃん」
「だって如月、腹が立っても我慢するでしょ。そうやって笑ってさ」
水無月は少し悲しそうな笑みを浮かべて首を傾げた。そして「ごめんね」と再び謝る。
一花は笑みを消して顔を俯かせると「……別に遅刻なんてどうでもいいよ」と声を絞り出した。
「じゃ、なんで怒ってるの」
――なんでだろう。
必死で考える。どうして自分が怒っているのかわからない。
水無月が仕事を辞めようとしているから?
水無月との関係が上手くいかないから?
きっとそのどれに対しても腹が立っている。
――でも、違う。
一花は目頭が熱くなるのを感じながら息を吐くと、片手で額を押さえた。
「……如月?」
数メートル離れたところに立つ水無月の靴が一歩こちらに近づいてくるのが見える。同時に一花は一歩後ずさった。
「嫌だから」
「え……?」
溢れ出てくる言葉はどれも彼女を傷つけるものだとわかっている。それでも我慢することができない。一花は深く息を吐き出して「水無月が、秋山さんのこと見てるのが嫌」と震える声で言った。
「え、なに。なんで美守が……。美守は、だって付き合ってるとかそういうのじゃないのに」
「身体の関係はあるって言ってたよ? 秋山さん」
一花は手を下ろすと顔を上げて笑みを浮かべた。
「水無月、好きでもない相手とそういうこともしちゃうんだ?」
瞬間、彼女の顔が引き攣ったのがわかった。
「今日も泊まったの? あの人の家に」
「それは……」
「なんで? ねえ、水無月。いま水無月と付き合ってるのはわたしなんだよ?」
目から溢れてきた涙のように、一度吐き出してしまった言葉は止まってはくれない。一花は次第に俯いていく水無月を見ながら続ける。
「わたしといるのが嫌ならさ、最初にそう言って欲しかった。昔みたいな関係に戻るつもりがないならそう言って欲しかったのに」
「如月、違うよ。わたしは――」
水無月が手を伸ばして一花の腕を掴む。一花は「秋山さんがいなかったらさ」と呟きながら水無月を見つめた。
「わたしと水無月が特別な関係になれたりしたのかな」
「え……?」
水無月が目を見開く。一花は涙を拭うと「ごめん。なんでもない」と彼女の手を力なく振り解いた。
「今日は帰るね。なんか今日のわたしダメだ。忘れてよ、全部。もう全部なかったことにしよう? 付き合うとか、そういうのも全部なし。ごめんね、勝手で」
言って一花は彼女に背を向けて足を踏み出す。
「……如月は、わたしに何を求めてたの?」
周囲は騒がしい。それなのに不思議なほど水無月の声だけがはっきりと耳に届く。
一花は立ち止まって振り返った。彼女は無表情に一花のことを見つめている。一花も彼女を見つめ返して口を開く。
「わたしはずっと、好きが欲しかった」
水無月の表情は変わらない。一花は息を吐きながら「あの頃は水無月も一緒なんじゃないかって思ってたんだけどな」と笑って続けた。そして再び歩き出す。背後から水無月が追いかけてくる気配はない。
これで彼女との関係は完全に終わってしまうのだろう。きっとこれで水無月が自分のせいで傷つくことはない。それはお互いにとって良いことだ。自分は昔の世界に戻っただけ。色も音も凹凸すらない平らな世界に。
足掻くことにも疲れてしまった。このまま何もない世界で人生を終える。それでいい。
――違う。
モールの喧噪の中、そう呟いた水無月の声が聞こえた気がした。
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