第22話
彼女の頬に触れたままの叶向の手にサラリと細い髪がかかった。それに気づいたのか、彼女は動きを止めると頬に落ちてきた髪を耳にかけた。そして再び顔を近づけてくる。
少しずつ彼女の息遣いが近づいてくるのを感じながら叶向は瞼を閉じることもせず、じっと如月のことを見つめ続けていた。
如月もまた、叶向のことを見下ろしている。
やがてあと少しで唇が触れ合うというところで彼女は再び動きを止めた。
「……やめる?」
目前に迫った瞳を見つめながら叶向は訊ねる。すると潤んだ瞳が微かに揺れた。
「水無月、なんでそんな顔してんの?」
彼女の囁くような声が耳をくすぐる。よく意味がわからず叶向はただ彼女を見つめた。
「水無月さ、やっぱり変だよ」
「知ってる」
「わたしがキスしたら元の水無月に戻ってくれる?」
「……かもね」
「じゃあ、する」
掠れた声が聞こえた次の瞬間、唇に触れたのは少し震えた柔らかな感触だった。力が入っているのか、彼女の唇は硬く閉じられたままだ。
――足りない。
ふいに沸き上がった気持ちに引っ張られるように叶向は彼女の閉じられた唇をぺろりと舐めた。瞬間、如月は驚いたように目を見開いて顔を引く。そんな彼女を追いかけるように叶向はもう片方の手も彼女の頬に添えると、ほんの少し開いた彼女の唇に自分の唇を押し当てた。
強く、そして今まで以上に深く。
もっと彼女を感じられるように。
彼女が嫌がるのではないか。そんなことを思いながら。
しかし彼女は嫌がらなかった。それどころか、まるですべてを受け入れるように叶向の顔を両手で包み込んで求めに応えてくれる。
「――ん、水無月」
どれくらいそうしていただろう。数秒か、あるいは数十秒か。ほんの一瞬、唇が離れた瞬間に如月が声を漏らした。
「なに」
「チャイム、鳴ってる」
耳を澄ませば確かにチャイムが鳴り響いていた。如月は頬を朱く染めたまま身体を起こした。彼女に触れていた手が宙を触る。叶向はその手を下ろしながら「もう終わり?」と聞いた。
「ちゃんとキスしたでしょ。だから終わり」
「……つまんない」
「もー、なに言ってんの。ほら、早く起きて。遅刻だけど走れば多分ギリ見逃してもらえるから」
「はいはい」
叶向は身体を起こしながら微笑んだ。彼女は弁当袋を手にして立ち上がると叶向に手を差し伸べてくる。
「いや、いいよ。先に行ってて」
「え、なんで。水無月も早く行かないと」
「嫌でしょ? わたしといるところ誰かに見られるの」
すると如月は悲しそうに眉を寄せた。
「別にそんなことは……」
「あと、元のわたしに戻るためには時間がいるから五限はサボる」
「え……?」
「大丈夫だって。わたし、成績良いからさ。友達に連絡して体調不良だって伝えてもらうから如月は気にしないで」
「でも――」
それでも手を差し伸べようとする如月に叶向は「早く行かないと怒られるどこじゃすまないかもよ」とニヤリと笑った。
「え? なんで?」
「次、物理でしょ。今日は確か小テストあったはず」
「うっそ」
「ほんと」
「早く言ってよ! 水無月、六限はちゃんと出るんだよ?」
「はいはい」
叶向は笑って手を振る。如月はそんな叶向を疑わしそうに見てきたが「絶対だからね」と言い残して階段を駆け下りて行った。
遠くなっていく如月の足音を聞きながら叶向は深くため息を吐く。そして座ったまま両手で顔を覆った。
唇にはまだ彼女の温もりが残っている。
息遣いが残っている。
彼女の香り。彼女の肌や唇の感触。何もかもが叶向の中に如月という存在を強くさせていく。
今のでわかってしまった。如月は拒まない。叶向が何を求めてもきっと彼女は困ることはあっても拒むことはしない。
そこに彼女の気持ちがあろうとなかろうと、叶向を受け入れてくれるのだ。
――ダメだ。
「……間違ってる」
口から漏れた言葉に叶向の心は締めつけられるように痛んだ。
間違っている。叶向は如月に恋愛感情はない。彼女に自分のことを好きになってもらいたいなんて思ったこともない。それなのに触れたいと思う。彼女を自分のものにしたいと思ってしまう。
――これはきっと依存だ。
そう思う。如月は叶向と似ている。そう思ってしまったから彼女に依存する気持ちが生まれただけ。それに気づいたときに離れればよかったのに、そうすることができなかった。
――わたしがキスしたら、元の水無月に戻ってくれる?
彼女の言葉が耳の奥で何度も響いている。
「ムリだよ」
呟いた声は自分でも驚くほど震えていた。
元の自分に戻るなんて無理だ。近くに如月がいる限り、もう彼女に出会う前の自分には戻れない。むしろどんどん深みにはまり、欲は大きくなる一方だ。
それが如月を傷つけるだけだということも分かっている。だって如月が望んだのは元の叶向だ。
それは彼女と出会ったばかりの、ただ彼女のことを面白がっていた頃の水無月叶向。
如月にとって叶向は友達に過ぎない。
少し変わった、ただの友達。
欲しかったものは未だ手に入らないままなのに、こんな気持ちだけを抱いてしまう自分が嫌だ。
――気持ち悪いよ、叶向。
いつだったか秋山に言われた言葉が唐突に蘇ってくる。叶向は顔を覆ったまま「ほんとだよ」と笑った。
「欲しかったのは、これじゃない」
静かな空間にスマホのバイブ音が響いた。叶向は深くため息を吐きながら冷たい壁に寄りかかり、ポケットからスマホを取り出した。そこに表示された如月の名前を見て嬉しくなると同時に心が苦しくなる。
『テストじゃなかったじゃん!』
そして可愛らしく怒った知らないキャラのスタンプ。
叶向は「素直すぎるよ、如月は」と微笑みながら彼女の言葉が並ぶスマホの画面を見つめ続けた。その視界が微かに歪んで、初めて涙が溢れていることに気づく。
「ほんと、わたしは変だね。如月」
涙が溢れた瞳を閉じ、叶向はスマホを握りしめて呟いた。
この気持ちをどうしたらいいのかも分からないまま。
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