第26話

 水無月が何を考えているのかわからない。それは初めて話をしたときからずっとだ。いや、むしろ最近は以前よりもわからなくなっている気がする。

 彼女の表情は以前よりも豊かなのに、どうしてそんな表情をしているのかいくら考えてもわからない。


「ねえ、水無月」


 一花はベッドの上で、なぜか自分の膝の上に頭を乗せて寝転んでいる水無月を見下ろしながら声をかける。


「なに?」


 風呂上がりの彼女の髪はまだ少し濡れているのか、触れるとしっとり冷たかった。


「なんでまた膝枕?」

「嫌?」

「嫌っていうかさ……」


 一花は視線をテーブルへ向ける。そこには水無月が風呂から上がるのを待つ間に解いていた問題集がそのまま広げられている。


「いいじゃん。勉強なんて」

「良くないよ。いや、そりゃ水無月は別にやらなくてもいいのかもだけど」

「今夜くらい、ゆっくり過ごそ?」


 視線を戻すと彼女は一花を見上げながら安心したように微笑んでいた。一花は困惑しながらため息を吐く。


「水無月」

「ん?」

「さては最初から勉強する気なかったでしょ」

「そんなことないよ。ちゃんとやるって。明日の朝からね」

「絶対?」

「スパルタで教えてあげよう」


 ククッと彼女は笑う。それは彼女が一花をからかうときによく見せる表情で、一花も安心して笑ってしまう。


「わかった。じゃあ、今日はもう勉強しない」

「お? 寝る?」


 一花は枕元に置かれた時計に視線を向ける。そろそろ深夜を回りそうだ。


「そうだね。寝ちゃおっか」


 しかし水無月は起き上がらない。不思議に思っていると彼女は何かを求めるようにじっと一花のことを見ていた。この表情には覚えがある。

 一花は苦笑しながら「ここでもするの?」と訊ねた。それでも水無月は動かず何も言わない。仕方なく一花は彼女に軽くキスをする。ふわりと香ってきたシャンプーの匂いが今の自分と同じで少し不思議な感じだ。


「ためらわなくなったよね、最近」


 一花が顔を上げると水無月はそう言ってニヤリと笑った。


「そりゃ、膝枕のたびにおねだりされたら慣れるって」

「慣れかぁ。ドキドキしない? わたしとのキスは」


 起き上がりながら彼女はそんなことを聞いてくる。一花は少し考えてから「しない」と答えた。


「だよね。如月は」


 彼女はそう言いながら布団の中に潜り込む。その言い回しに一花は首を傾げた。


「……水無月は違うの?」


 彼女は布団から顔だけを出して一花を見つめた。そして微笑みながら「とりあえず中へどうぞ」と掛け布団を少し上げた。


「同じベッドで寝るんだ?」

「付き合ってるし?」

「狭くない?」

「如月は小さいから大丈夫」


 なんとなく釈然としないが断る理由もない。一花は大人しく彼女の隣に潜り込む。布団は水無月の体温のおかげか、すでに暖かかった。


「電気、消すね」


 そう言うと水無月はリモコンで部屋の電気を消す。室内に聞こえるのは水無月の静かな呼吸の音と布団が擦れる音。仰向けのまま見上げる天井は真っ暗だ。


「……それで?」


 一花が声をかけると「何が?」と不思議そうな声が返ってきた。


「さっきの返事」

「覚えてたか」


 フフッと笑ったような息遣い。一花は身体を水無月の方へと向けた。目が慣れてきたのか、彼女の顔がぼんやりと見える。いつの間にか彼女もこちらを向いていたらしい。水無月はじっと一花のことを見つめると「ドキドキはしないよ」と言った。


「そっか」


 それを聞いて少しがっかりしたのはなぜだろう。考えていると突然、唇に柔らかなものが触れた。そして彼女の息が口元から漏れる。


「……水無月、何してるの?」

「キス」

「なんで?」

「したいから」


 再び口を塞がれる。呼吸をし忘れて苦しくなり、一花は顎を引いて彼女から離れた。


「嫌だったらやめる」


 顔はぼんやりと見えるが表情まではよくわからない。しかし彼女がまたあの悲しそうな、苦しそうな表情をしているのだろうことは想像がついた。一花は呼吸を整えるとそっと自分からもキスをする。


「嫌じゃないよ。水無月とのキスは嫌じゃない」

「好きでもないんでしょ?」

「水無月もでしょ」


 しかし答えはなく、代わりに強く唇が押し当てられた。


「――わたしは好きだよ。如月とのキス」


 少しだけ口を離して彼女は囁いた。一花は驚いて目を見開く。


「ドキドキはしないんでしょ?」

「しない。でも――」


 彼女はそう言うと再びキスをしてくる。


「もっとしてもいい?」

「……いいよ」


 ――それで水無月があんな表情をしなくて済むようになるのなら、いくらでも。


 水無月が自分を求めてくれる。そう思うと悪い気はしない。むしろ嬉しくなる。四月、放課後の教室で彼女に話しかけられたときに沸き上がった感情が強くなっていくような気がする。


「ん、水無月……」


 ほんの少し唇が離れた隙に一花は声を出す。


「もうやめる?」


 少し呼吸の荒い水無月の声に、一花は「そうじゃなくて」と微笑む。


「ちょっとドキドキしてきたかも」


 すると水無月の吐息が頬を掠めた。


「違うよ。それはただ、息が苦しいだけだよ」


 そう言って彼女が再び唇で口を塞ぐ。

 そうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。これはもしかすると自分がずっと欲しかった気持ちなのかもしれない。

 確かめたい。

 どうすればこの気持ちをもっと強く感じることができるだろう。もっと強く、はっきりとこの気持ちを……。

 そのとき、ふいにTシャツの中に水無月の手が滑り込んできた。そして一花の背中を撫でる。

 驚いた一花は思わず彼女の肩を強く押して身体を離した。すぐ目の前には目を丸くした水無月の顔がぼんやりと見える。


「水無月? いま――」

「ごめん」


 一花の声を遮って彼女は呆然とした口調で謝った。


「ごめん。ほんとごめん。わたし何を……」


 何度も何度も彼女は謝る。何かやってはいけないことをしてしまったかのように、混乱した様子で何度も彼女は謝った。


「いや、そんな謝らないでよ。ちょっとびっくりしただけで怒ってなんかないし」

「……ごめん」

「いいよ。ほら、大丈夫だから」


 言って一花は軽く彼女の頬にキスをする。水無月はそれでも謝りながら身体を丸めて一花の胸に顔を埋めてきた。


「ごめん、如月。わたし、なんか変なんだ。如月といると変になる。違うのに。これは、違う」

「……そうだね。水無月は変だよ。とくに今の水無月は小さな子供みたいな感じ。甘えんぼだ」


 彼女を抱きかかえるようにしながら一花はポンポンと背中を叩いてやる。


「ごめん」


 胸元で彼女のくぐもった声がする。一花は「大丈夫だってば。その証拠にもっかいキスしとく?」と笑いながら答えた。


「……しない」

「そっか。残念」


 ポンポンと背中を叩くたび、彼女の身体から少しずつ力が抜けていくのがわかった。


「ねえ、水無月」


 返事はない。眠ってしまったのかもしれない。それでも一花は続ける。


「なんで今日、誘ってくれたの?」


 やはり返事はない。背中を叩いていた手を止めると彼女の体温がじんわりと手から伝わってくる。暖かくて、優しい温もり。


「――ったから」


 微かに聞こえた声はくぐもっていてよくわからない。


「ん、なに?」


 身体を丸めて胸元の彼女を覗き込むようにしながら聞き返す。それが気配でわかったのか、彼女はさらに深く一花の胸元に顔を埋めた。


「一緒に、過ごしたかったから」


 それを聞いて一花は「そっか」と息を吐いて笑った。


「最近、わたしのせいであんまり一緒にいなかったもんね。甘えんぼプラスさみしんぼだったか」


 そして体勢を少し変えて彼女を包み込むように腕を伸ばした。


「じゃ、一緒に過ごそ。今夜はずっとこうしててあげる」

「……ありがとう」


 そんな素直な言葉を最後に、水無月は眠りに落ちたようだ。腕の中で聞こえてくるのは微かな寝息。身体に伝わってくる水無月の体温が心地良い。

 こんなに近くにいても彼女の気持ちはわからない。しかし彼女が何かに苦しんでいることは確かだ。


 ――どうしたらいいのかな。


 彼女は何に苦しんでいるのだろう。一花と一緒にいるときに見せるあの表情は、その何かのせいなのだろうか。


 ――わたしといると変になる、か。


 うとうとしながら水無月の言葉を思い出す。彼女の苦しみの原因が自分にあるのだとしたら……。

 目を閉じて考えているうち、いつの間にか一花もまた眠りの中へと落ちていった。

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