気持ち
第27話
もう、どれくらい話をしていないのだろう。叶向はキーボードを打つ手を止めてスマホを開いた。そこには如月とのトークルームが表示されている。最後のメッセージは彼女からのもの。
『大丈夫? 何かあった?』
デートに遅刻した叶向を心配してくれる彼女の言葉。これを最後に、このトークルームは動いていない。
「水無月さん」
ふいに呼ばれて顔を上げると課長が「少しいいですか」と叶向を呼び出した。話の内容は予想がついている。叶向は返事をして課長の後ろに続いた。
別室へ向かう途中で視界に入った如月は淡々と仕事に集中している。元気がない様子でもない。通りがかった松本が声をかけると彼女は笑顔を向けた。
「水無月さん、どうしました?」
「あ、いえ」
つい立ち止まっていたらしい。叶向は慌てて謝りながら課長の後に続いて会議室へと入った。
「それで、話というのは契約期間短縮の件なんですけどね」
ドアを閉めるなり、課長はそう口を開いた。契約期間の短縮。それは叶向が先月からお願いしていたことだった。課長は難しい顔で「やはりこちらとしてはこのままプロジェクトが終わるまで水無月さんにお願いしたいと思っているんです」と続けた。
「もし職場環境に問題があるのなら――」
「いえ、そういうわけではないんです」
叶向は口を開くと「すみませんでした。無理なことを言ってしまって。反省しています」と頭を下げる。
「え、じゃあ、このまま続けてくれるということで?」
「はい。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。よろしくお願いします」
「そうか。良かった。もし何か思うところがあれば遠慮なく言ってくださいね」
課長はそう言うとにこやかに部屋を出て行った。残された叶向は浅く息を吐いて会議室を出る。
ここは良い職場だ。そんな職場を本気で辞めるつもりだった。如月と付き合うことになってからも彼女と普通に過ごせる自信がなかった。だから逃げようとしたのだ。あの頃と同じように。
しかし不思議なことに今ではそんな気持ちは微塵もない。それはきっと如月が変わってしまったから。
「あ、水無月さん。ちょうど良かった」
席に戻ろうとした叶向を呼び止めたのは如月だ。彼女は「共有に入ってる今日日付のファイル、出力しておいてもらえませんか」と笑みを浮かべて言った。
「……わかりました。何部必要ですか?」
「んー、とりあえず六部で。お願いします」
彼女はそう言うと席に戻って次の作業に取りかかり始めた。そんな彼女の姿を見ながら叶向は思う。彼女の言葉が空虚だ、と。
あの日からも如月は普通に叶向と接してくれている。いや、普通とは少し違うかもしれない。おそらく彼女の目に叶向は映っていない。
彼女の口調はそれまでと変わりなく、会話をしていても笑顔だ。しかしそこに感情が見えない。如月らしい温もりが感じられない。そこにいるのはまるで如月と同じ姿をした人形のようだった。
――わたしのせいか。
あの日、たしかに秋山の家に泊まった自分が悪かった。しかし決して如月が思っているようなことはしていない。当然だ。だって自分が付き合っていたのは如月だったのだから。それでも秋山の家に泊まってしまったのは彼女が必要だったからだ。
二人きりで如月と会ったときに、どうしたらいいのかわからない。緊張して混乱し、逃げ出しそうになっていた自分を叱ってくれる彼女の存在が必要だった。
席に戻ってパソコンのロックを解除し、如月に指示されたファイルの中身を出力する。少しの間を置いてプリンターが派手な音をたてながら動き始めた。それをぼんやり眺めながら如月の言葉を思い出す。
――わたしはずっと、好きが欲しかった。
そう言った彼女の言葉は、まるで自分の言葉のようだった。彼女と自分はやはり同じだったのだ。少なくとも出会った頃は。
――どうしてこうなっちゃったんだろう。
叶向が欲しいものは十年前から変わっていない。きっと如月も同じはず。ただ叶向だけが、求めてはいなかったものを手に入れてしまった。
気づけばプリンタの動きが止まっていた。叶向は席を立って吐き出された用紙を回収し、再び如月に視線を向ける。彼女は松本と話しているところだった。
松本が何か面白いことでも言ったのか彼女が笑う。てっきり如月は松本に好意を抱いているのだと思っていた。しかし彼に向ける如月の笑顔を見ればそれも違うということは明白だった。彼女の笑顔に感情はない。高校時代、初めて彼女を見たときと同じ空虚な笑顔。
――如月が欲しかった好きはどっちなんだろう。
彼女の笑顔を見ながら思う。彼女が欲しかったのは叶向が如月に向ける感情か、あるいは彼女が叶向に向ける感情か。
いずれにしても叶向も如月もそれを手に入れることはできていない。叶向はため息を吐いて用紙の束を手に自席へ戻った。
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