第28話

「――で? なんであんたはまたここにいるわけ?」


 夜。ベッドに背をもたれ、ビールの缶を片手にテレビを見ていると浴室から髪を拭きながら出てきた秋山が呆れた口調で言った。


「いい加減さ、人が風呂入ってる時間帯を見計らって上がり込むのやめてくれない? 軽く不法侵入だから。通報するよ?」

「だってそうでもしないと最近は美守、家に入れてくれないでしょ」

「誰の為だと思ってんの」


 彼女はため息を吐きながら棚に置いてあった瓶を持ってくると叶向の前に差し出した。叶向は「はいはい」とビール代を財布から取り出してその中に入れる。

 無断でビールを拝借する叶向に業を煮やした彼女が最近始めた徴収法だ。彼女はジャラッと瓶の中身を確認するように鳴らすと「小銭ばっか増えても迷惑なんだけど」とぼやく。


「だったらやめればいいのに」

「あんたが自分で買ってくれば万事解決なんだけど?」


 叶向は笑って誤魔化す。それを見た彼女は「それ、やめてくれない?」と冷たい口調で言いながら冷蔵庫の中から缶ビールを取りだして戻って来た。


「なにが?」


 首を傾げると「その顔、嫌い」と彼女は冷たく言い放った。そして叶向の斜め向かいに腰を下ろすとテレビに視線を向ける。


「顔って……。ちょっとひどくない?」

「ひどいのはあんただよ。如月さんとちゃんと話したの?」


 言われて叶向は缶を口元に運ぼうとした手を止めた。そして「してないけど」と笑う。


「もう如月もわたしのこと嫌いになっただろうし、向こうだって話したくないんじゃないかな」

「仕事は?」

「続けるよ。如月とは普通に話せてるしね。課長からも期間一杯まではお願いしたいって言われちゃったし」

「それでいいわけ?」

「いいんだよ。如月だってもうわたしのことなんか――」


 ガンッと秋山がビールの缶をテーブルに叩きつけるように置いた。反動で中からビールが飛び出し、テーブルの上に水滴を散らす。叶向は驚いて思わず言葉を呑み込んだ。そんな叶向を冷たく見やりながら彼女は「あのさ」と苛立った口調で言う。


「如月さん、一ヶ月もあんたと話をしようって頑張ってたんだよ? わたしに頼んであんたを呼び出せば簡単だったのにそれもしないで、ずっと店に通ってさ。職場だとあんたの迷惑になるだろうからって仕事中は我慢して、来るかどうかもわからないあんたのことを毎日待ってた」

「美守……? なに、どうしたの」


 今まで見たこともない彼女の様子に叶向は戸惑う。いつだって秋山は冷静で他人に興味がなく、感情を露わにすることだってなかった。それなのに目の前にいる彼女は怒っている。叶向に対して静かに怒っている。

 彼女は低い声で続けた。


「如月さんはあんたのことを考えて、あんたとの関係をどうにかしたくて頑張ってた。あんたは?」

「え……」

「あんたは何をしたの?」

「わたし……?」

「きっと如月さんはあんたとの関係を前に進めようと努力したはずだよ。あんたのことをちゃんと見ようとしてた。それなのにあんたは何? 彼女を怒らせたからって何もしないまま人の家に来て暢気にビールなんて呑んでさ。そんな、人形みたいな顔で」


 思わず叶向は自分の頬に手をあてる。


「――人、形?」

「そうだよ。ペラペラな笑顔張りつかせて、何もなかったみたいにスッキリした顔作って。高校の頃みたいなその顔、大嫌い」


 彼女は真っ直ぐに叶向を見つめてくる。叶向はその視線から逃げるように顔を俯かせた。テレビから流れてくるのは最近流行っている歌手の曲だ。来月発売される曲なのか、切ないクリスマスソング。そういえば、いつだったか如月がこの歌手のファンだと言っていたことを思い出す。


「……如月は、もうわたしと話なんかしたくないって」


 如月が好きな歌手の曲を聴きながら職場での彼女を思い出す。人形のような笑顔を浮かべる彼女のことを。


「それ、あの子が言ったの?」


 叶向は首を横に振る。


「あんたのことなんてもう嫌いだって、あの子が言った?」


 叶向は再び首を横に振った。


「じゃあ、あの子はなんて言ったの? あの日、あんたと別れる前に」


 叶向は俯いたまま口で呼吸を繰り返した。目が熱いのはアルコールのせいか、それとも別の感情だろうか。


「あの子はなんて?」


 秋山が再び聞いてくる。叶向は一度息を吐き出してから「好きが、欲しかったって」と答えた。その声が驚くほど震えていて叶向はようやく目を熱くしているのは涙のせいだと気づく。


「あんたは?」

「わたしは何も――」

「だったら、ちゃんとあんたも話さないとね。自分のこと」


 ゴトッと音がして叶向は顔を上げる。彼女はテーブルの上に置いていた叶向のスマホを手にしていた。


「なに……。美守、なにを?」

「電話。あの子に。スマホのパスコード、たまには変えたほうがいいよ、もしくは顔認証のやつにするか」

「やめて」


 叶向が手を伸ばすも彼女は「やめない」とそれを交わす。


「やめてよ、美守。お願いだから」


 言いながらなぜか涙が溢れてくる。彼女はそんな叶向を見つめながら「何が怖いの?」と言った。


「あの子はちゃんと自分の気持ちを言ったんでしょ? だったらあんたも言わないとフェアじゃない」

「……それで、もし気持ち悪いって思われたら? ほんとに嫌われたら? もう近づくなって、そう言われたら?」

「笑ってあげる」


 その言葉に叶向は目を丸くして彼女を見た。驚きのあまり涙すら止まってしまった。その反応が面白かったのか、彼女はフッと笑みを浮かべて「そのときは思いっきり笑ってあげるから安心して」と続けた。


「なに、それ……。全然嬉しくないんだけど」


 つられて叶向も笑みを浮かべる。


「そもそも、十年間もあの子のことで悩んでるあんたって充分気持ち悪いからね」

「それは、たしかに……」


 叶向は軽く声を上げて笑った。彼女の言う通りだ。

 こんなに誰かのことで悩んだことはなかった。

 こんなに長い時間、人への想いを引きずることだってなかった。

 叶向の人生において、そんな相手は如月だけだ。


「もしあの子に嫌われたら一緒に笑って、笑い飛ばして、それでおしまい。だから、さっさと話して終わらせな」


 言いながら彼女はスマホをタップして叶向に渡した。


「――なんで終わることが前提なの。ひどいって、それは」


 受け取ったスマホはすでに如月の番号を呼んでいた。叶向はそれをおそるおそる耳に当てる。すると「髪、乾かしてる」と秋山は洗面所へと消えていった。

 二回、三回とコール音が響く。しかし如月は出ない。テレビの音が煩く感じて叶向はリモコンでテレビを消す。叶向の耳に聞こえてくるのはコール音だけ。ドライヤーの音も聞こえてこない。きっと電話が終わるまで待ってくれているのだろう。しかし、どれだけ待ってもスマホの向こうから聞こえるのはコール音だけだ。


 ――やっぱり、もう。


 諦めてスマホを耳から少し離したとき、プツッとコール音が消えた。一瞬、切られてしまったのかと思ったがそうではないらしい。スマホの画面には通話中の文字が表示されていた。


「……如月?」


 声をかけるが相手は答えない。それでも叶向は「ごめん、いきなり電話して」と続けた。


「その、如月はもうわたしとは話したくないかもしれないけど、わたしの気持ちだけはちゃんと伝えておこうと思って」


 そのとき小さく吐息が聞こえた気がした。叶向は立てた膝を片手で抱え込みながら目を閉じる。


「――気持ちって?」


 微かに聞こえた如月の声に叶向は思わず微笑む。そして目を開けると「言ってたでしょ、如月」と続けた。


「ずっと好きが欲しかったって。それ、わたしも同じだったんだ。だから十年前、如月と付き合おうって言ったんだよ。如月はわたしと同じだって、如月とならもしかすると手に入れることができるかもしれないって、そう思ったから。でも如月と付き合ってるうちにわたしが如月に持ったのは好きとは違うものだった」


 如月は何も言わない。ただ彼女の微かな吐息だけがスマホの向こうから聞こえてくる。


「――わたしはさ」


 叶向は耳を澄ませ、彼女の存在を感じながら続ける。


「如月に触れたいって、そう思っちゃったんだよ。如月に触れて如月の全部をわたしのものにしたいって。でもそれは欲しかった好きという気持ちとは違ってて、わたしはそれがすごく嫌で自分で自分が気持ち悪いって、そう思って……」

「――だから、あんな顔をしてたの?」


 叶向は息を吐いて笑う。


「どんな顔かよく分からないけど、たぶんそう」


 如月はしばらく何も言わなかった。無音の空間で微かに物音がした。秋山が何かを動かしたのだろう。


「じゃあ、秋山さんは?」

「美守は友達だよ。大事な友達……。わたしと美守にはたしかに身体の関係はある。でもそれは、美守がわたしの気持ちを知ってたからだよ」

「……どんな気持ち?」

「言ったでしょ。如月を自分のものにしたいっていう気持ち。美守は、そんなわたしの気持ちを受け止めてくれてただけ」

「なにそれ。わからないよ、全然」


 そうだろうと思う。叶向にだってわからない。どうして彼女が受け入れてくれたのか。どうして何も言わず、ただ叶向が求めるままに応えてくれていたのか。


「美守は大切な友達。あの日は確かに美守のところに泊まったけど、それだけだよ。そうしないとわたしはきっと如月とのデートには行けなかったから」

「……嫌だったの?」

「違う。怖かっただけ」

「何が?」

「昔みたいに、自分の気持ちが抑えられなくなったらと思うと怖かった」

「昔、みたいに……」


 如月はそれきり黙り込んでしまった。思い出しているのだろうか。彼女が叶向の家に泊まった日、叶向が彼女にしようとしたことを。

 静かな時間はどれくらい続いただろう。やがて微かな声で如月は「どうしたいの?」と言った。


「え……」

「水無月がどういう気持ちでわたしと接していたのかっていうことはわかったよ。でも、それで水無月はどうしたいの? なんで電話してきたの?」

「わたしは――」

「昔の関係には戻るつもりないんでしょ?」


 如月の声は淡々としていて、やはり彼女らしくない。そうさせたのは自分なのだと思うと胸が痛くなる。苦しくなる。罪悪感が生まれてくる。叶向は潤んできた瞳を閉じると「そうだね」と頷いた。


「もう、昔の関係に戻るつもりはない」

「じゃあどうして――」

「今度はちゃんと付き合いたいって、そう思ってる」


 スマホの向こうから息を呑むような音が聞こえた。叶向は「昔みたいな遊び半分な関係じゃなくてさ」と続ける。


「ちゃんと、如月と付き合いたい」

「わたしのこと好きじゃないのに?」

「うん……。如月への、好きが欲しいから」


 もしかするとそれは如月じゃなくてもいいのかもしれない。きっと如月だって相手は叶向じゃなくてもいいはず。それでも今、叶向が求めているのは如月への好きという気持ち。秋山でも他の誰でもない、如月だけに求めている気持ちなのだ。

 それはただの依存かもしれない。執着かもしれない。それでもそれらの感情のどこかに好きという気持ちの欠片があってほしい。そう願い、確かめたいと思う自分がいる。


「……考えさせて」


 ポツリと彼女はそう言った。それまでと変わらない、感情のない口調で。叶向はグッと顎を引き「――わかった」と小さく答えた。

 通話が切れたスマホを投げるように床に置く。それと同時に、洗面所からドライヤーの音が響き始めていた。

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