第15話

 外は日が暮れたというのに、未だ昼間の熱が尾を引いているような蒸し暑さだった。一花は細い路地を歩きながら息苦しさに眉を寄せる。少し前を歩く松本は、そんな一花の様子に気づきもせずに「俺、その店って初めて行くわ」と楽しそうな様子だ。


「どんな店なんだ?」

「知らない」


 答えた一花の声が不自然に聞こえたのだろう。松本は不思議そうに振り返ってから「まあ、行ってみりゃわかるか」と楽しそうな様子のまま歩みを速めた。

 店のドアには、お洒落なフォントで店名が刻まれていた。英語ではないような気がする。なんという名前なのだろう。少し考えていると松本が「こんばんはー」と入って行った。まだ心の準備も出来ていなかった一花は「ちょ、待って」と慌てて追いかける。

 店内は水無月が言っていたようにとても狭かった。テーブル席は二人掛けが二つ。あとはカウンター席が四つだけ。少し照明が暗いが、スッキリとしたシンプルな内装である。流れている曲はジャズだろうか。どうやら静かに酒を楽しむのがコンセプトのバーのようだった。

 テーブル席はすでに埋まっており、空いているのはカウンター席のみ。そのカウンターの向こうには当然のことだが、見たくもなかった顔がある。


「二人なんですけど、大丈夫ですか?」


 松本の暢気な声に彼女は「カウンター席でよろしければ、どうぞ」とさして愛想が良いとも言えない態度で答えた。その視線が松本から一花に向けられる。しかしそこに驚きはない。


「如月? こっち座れって」

「ああ、うん」


 一花は頷き、松本の隣に座った。目の前には澄ました表情の秋山が立っている。まるで一花のことなど知らないように。その態度や表情が職場での水無月と重なって、なぜか嫌な気持ちが広がっていく。


「何にします?」

「あー、なんか適当にお任せしていいですか? オススメを」

「そちらは?」

「……わたしも、一緒で」

「わかりました」


 そう言って彼女はカクテルを作り始めた。秋山は無愛想で特に客を楽しませようという様子もない。それでも松本が話しかけると会話が途切れないように上手い返しをしているあたり、高校時代の彼女とは違うように思う。


 ――恥ずかしくない? 人前でああいうことして。


 彼女の声を聞いているうち、記憶の底に押し込めていた言葉が蘇ってくる。

 松本が笑う。しかし彼女は笑わない。ただ薄く口元に笑みを浮かべるだけだ。一花は知っている。彼女のその笑みには何の感情も込められていないことを。


 ――理解できない。わたしには。


 容赦なく蘇ってくる彼女の声が忘れていた嫌な気持ちを呼び起こしていく。彼女がそう言うから外で水無月と二人で会うのが怖くなった。誰かに見られて、また同じことを言われたらと思うと怖かった。


 ――来るんじゃなかった。


 ここに来れば水無月がいる。そう思っていたのに彼女の姿はない。代わりに会いたくもなかった人間がいる。声すらも聞きたくなかった相手が。

 一花は息を吐いて狭い店内を振り返った。テーブル席の客はいつの間にか帰ってしまったようだ。あっちに移ってしまおうか。そしてもう少し水無月を待って、それでも来なければ――。


「――叶向は来ないよ」


その声に一花は思考を止め、ゆっくり視線を戻した。気づけば、いつの間にか隣の席にいたはずの松本がいない。


「彼ならトイレ。けっこう強めのカクテル出してたから、そろそろ限界なんじゃないかな」

「そう、ですか……」

「あんたは全然呑んでくれないけど」


 その口ぶりから、おそらく秋山は一花のことを覚えているのだろう。彼女の声は、変わらず一花の心をかき乱す。


「叶向がこの店を教えたのは知ってたけど、なんで来たの?」


 秋山は洗ったばかりのグラスを丁寧に拭きながら淡々と続ける。


「あんた、わたしのこと嫌いでしょ」

「別に、そんなことは――」

「わたしは嫌い」


 コトッと彼女はグラスを置いた。


 ――あんたのことが嫌い。


 そう言われたのは夏休みが始まる前くらいだっただろうか。帰り道に偶然会った彼女は一花に水無月とのことを聞いた後、唐突にそう言った。


「……それは、わたしが水無月と一緒にいるから?」


 手元に視線を落としながら声を振り絞る。すると彼女はなぜか笑った。


「なにそれ」


 そして少し間を置いてから「ああ」と納得したように続ける。


「もしかして、昔わたしが言ったこと? だったら違うよ。あのときはこう言ったはず。叶向と一緒にいて何をしたいのかわからないあんたのことが嫌い」

「秋山さんのそういう回りくどい言い回しが嫌い」


 思わず口をついて出てしまったのは、多少なりともアルコールが入っているからだろうか。


「ふうん、そっか。わかった」


 秋山は苛立った様子もなくそう言うと「それじゃ今日は簡潔に言う」と続けた。


「あんたさ、見せつけに来たの? 叶向に」

「え……?」


 何を言われたのかわからずに一花は顔を上げた。秋山は冷めた表情で松本が座っていた席に視線を向けた。


「自分は今この男と付き合ってるって見せつけに来たのかって聞いてるの」

「付き合……? ち、違う! そんなんじゃない。松本と来たのは、ここに一人では来たくなかったからで……。わたしは誰とも付き合ってなんか――」

「ふうん? 今までは?」

「今まで?」

「高校を出てから今までは? さすがに誰とも付き合ってないなんてことないんじゃない?」

「……そんなこと、秋山さんには関係ない」

「そうだね。関係ないし、微塵も興味ない」

「だったら――」

「でも叶向は違う」


 突然出てきた水無月の名前に一花は思わず言葉を呑み込んだ。秋山は「あの子は、違う」と悲しそうに繰り返した。


「叶向、たぶん今の仕事辞めると思うから」

「え! なんで!」

「決まってるでしょ。あんたと一緒にいるのがしんどいからだよ」

「わたしと? なんで……」

「なんで? そんなこともわかんないの?」

「だって水無月は何も言ってくれない。話もしてくれない。それなのに、わかるわけない……」


 それでもきっと秋山にはわかるのだろう。彼女は一花よりもずっと水無月のことがわかっている。それは高校時代から変わらない。

 一花は目の前に置かれた真っ青なカクテルが注がれたグラスを見つめる。


 ――ズルい。わたしには、何もわからないのに。


 沸々と沸いてきた嫌な感情は一気に溢れ出していく。一花はグラスを見つめたまま短く息を吐き出した。


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