第16話

「――秋山さんは水無月と付き合ってるの?」

「付き合ってない」

「でも水無月は秋山さんのことが好きなんじゃないの? だから水無月のことよく知ってる。きっと水無月は秋山さんには何でも話すんでしょ? ああ、そうだ。もしかしたら高校時代から――」

「ウザい」


 心からの嫌悪が込められた声に一花はビクッと言葉を止めた。


「わたしは叶向とは付き合ってない。そんな気持ち、微塵もないし叶向もわたしのことなんか好きじゃない」


 しかし彼女は水無月と抱き合っていた。水無月は一花以外の誰かに触れられるのを嫌がっていたはずなのに。


「まあ、身体の関係はあるけど」

「え……」


 思いもよらぬ言葉に一花は目を見開いて顔を上げた。彼女は無表情のまま、ケースから煙草を一本取り出した。


「わたしは叶向が求めるものを拒まないって決めてるから。ま、叶向以外はお断りだけど」


 カチッと秋山がライターを鳴らす。しかし火はつかない。


「じゃあ、やっぱり水無月は――」

「でも叶向が求めてるものはわたしじゃない」


 カチッと再びライターが鳴る。微かに焦げたような匂いが漂ってきた。


「わたしは叶向が求めてるものの代わりをしてるだけ」

「代わり……?」


 わからない。では、彼女は何を求めているのだろう。

 水無月は一花のことを避けている。友達にもなれないと言っていた。だからきっと、彼女が求めているのは一花でもない。


「高校時代、あんたはどうして叶向と付き合ったの?」


 秋山は点かないライターを諦めてマッチを取り出した。


「……水無月が、付き合おうって言ったから」

「じゃあ、どうして断らなかったの?」


 ――どうして。


 何かが変わるかもしれないと思ったからだ。同性と、いや、水無月と付き合えば何かが分かるかもしれない。そう思ったから。


「なんでキスされたときに拒まなかったの?」

「それは……」


 嫌ではなかったからだ。むしろ、もう少し彼女に近づきたいと思った。そうすれば欲しかったものが手に入るような気がしたから。


「あのとき、あんたが叶向を拒んでたらあの子もこんなにしんどい想いしなくてもよかったかもしれないのにね」

「――なんで?」

「なんでって、そんなこともわかんないの?」


 呆れたような声に苛立ちが含まれているのがわかった。一花は顔を俯かせる。


「わからないよ……。わかるわけ、ない」


 彼女は深くため息を吐いた。


「ほんっとめんどくさい。あんたさ、あのとき叶向のこと好きだった?」


 ――わからない。


「今は? 今は叶向のことどう思ってるわけ? 好きなの?」


 わからない。

 今も昔も彼女を束縛したいと思ったことはない。

 キスをしたいとも思わない。

 身体の関係をもちたいと思ったこともない。

 それでも一緒にいたいと思ってしまうのだ。


 誰よりも彼女の隣にいたい、と。


 その気持ちは高校時代から変わっていない。しかしその気持ちが何なのか、今も昔もわからないままだ。じっと俯いたまま答えないでいると、彼女は「やっぱりわたし、あんたのこと嫌い」と高校時代と変わらぬ口調で言った。


「十年経っても何も変わってない。あんたがしてることは叶向を傷つけてるだけだよ」

「……水無月が苦しんでるのは、わたしのせい?」

「そう」

「最近、水無月の様子がおかしいのも?」

「あんたのせい」


 そんなつもりは微塵もなかった。自分の言動が彼女を傷つけているなんて思いもしなかった。その理由だってわからない。


「どうしたらいいの?」


 一花は顔を上げる。秋山はただ無表情に一花のことを見つめて「自分で考えれば?」と肩をすくめた。


「わたし、嫌いな奴に助言できるほど人間できてないから。知ってると思うけど」

「……話を、したい。水無月と。ちゃんと昔のことも、今のことも」

「すれば?」

「でも、避けられてるから」


 きっと話をしたいと言っても彼女は拒否するだろう。ふいにマッチを擦る音がした。火薬の匂いが鼻を刺激する。そして香ってきたのは、いつだったか水無月から香ったのと同じ煙草の匂い。


「――この店に通ってれば、そのうち来るかもね。叶向も」


 一花は目を丸くして彼女を見つめた。


「……いいの? ここに来ても」

「ちゃんと注文してくれるなら。でも叶向、最近は店に来るの遠慮してるみたいだから、いつ来るかわかんないよ?」


 嫌な顔もせずに彼女は言う。水無月のこともわからないが、秋山のこともよくわからない。

 水無月と秋山はよく似ていると思う。しかし秋山は水無月と違って他人を寄せつけない。何かを求めたりもしない。

 だから苦手だった。

 だから嫌いだった。

 自分とは違う彼女のことが。

 今だってそうだ。彼女のことは嫌いだ。自分よりも水無月のことをよく知っている彼女のことが。

 煙草を吹かす彼女をじっと見つめていると、ふとその後ろの壁に貼られたポスターが目に留まった。それは、いつの間にか終わってしまった今年の花火大会のポスター。


 ――浴衣、選んでくれるって言ったのに。


 あの花火大会の日にした約束は未だ果たされないまま記憶の中に残っている。思えば、あの日から水無月の様子は少し変わった気がする。

 水無月が求めているものは一花と同じものだと思っていた。だけど違った。そのことに今まで気づかなかったわけではない。ただわからなかったのだ。わからないから考えないふりをしていた。


 ――ああ、だから。


 一花が考えず、受け入れることもせず、ただフラフラと逃げていたから水無月は離れてしまったのかもしれない。

 きっと秋山は逃げることもなく水無月のことを受け入れた。水無月と向き合い続けた。だから今、彼女の隣には水無月がいる。


 ――間違えていたのは、わたし。


「如月……。俺、もう帰るわ」


 ようやくトイレから出てきた松本は、真っ青な顔で言って会計を始めた。


「タクシー呼んであげるから少し待って」

「あー、すんません」

「あんたは? 一緒に帰るの?」


 秋山がどこか挑発的な視線を一花に向けた。一花はそんな彼女をまっすぐに見返して首を横に振る。


「まだもう少し、ここにいる」


 ――水無月が来るまで。


「今日は来ないと思うけどね」


 彼女はつまらなさそうな表情でそう言うと、松本に荷物を持たせ始めた。

 灰皿に置かれた煙草から水無月と同じ香りが緩やかに立ち昇っている。その香りが一花の全身に染みつくまで待ってみたものの、秋山が言うとおり彼女が店を訪れることはなかった。

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