- 九月 -

ただ、彼女のそばに

第17話

 高校最後の夏休みは瞬く間に過ぎていった。遊びに出掛けたのはあの花火大会の日くらいのもので、あとは受験生らしく夏期講習に通っていただけだ。そして新学期が始まって早々に模擬試験。


「一花ー、どうだった?」

「ムリ。死んだ」


 机に突っ伏して一花は深くため息を吐いた。


「だよね。模試、難しすぎじゃない? なんかもう、どこの大学も受かる気しないわ」


 そう言って諦め気味に笑う友人に一花も笑って返しながら視線だけを教室の後ろに向ける。そこには同じように友人たちと雑談する水無月の姿。

 花火大会の日以来、彼女とは会っていない。たまにメッセージのやりとりはしたが、それだけだ。通話だってしていない。学校が始まってからも彼女は放課後になるとすぐに帰ってしまうし、昼休憩は友人と過ごしている。


 ――避けられてる気がする。


 思いながら視線を窓際の方へと移す。席に座って静かに本を読んでいるのは秋山だ。誰と絡むわけでもなく、ただ静かに一人で過ごす彼女の様子は見慣れたもの。彼女が水無月と一緒にいるところを見たこともなかった。それなのに二人には何か特別な関係があるようだ。でなければ一花と水無月の関係に彼女が口を出すわけもない。


 ――どういう関係なんだろう。


 水無月が一花を避けているのは、もしかすると彼女が原因なのではないか。そんな考えがずっと心の中に渦巻いている。しかし、それを秋山に聞こうとは思わない。彼女とは関わりたくない。


 ――あんたのこと、嫌い。


 夏休みに入る前、焼けるような太陽に照らされた下校の道で言われた彼女の言葉が耳から離れない。今まで一度だって話したことはなかった。それなのにはっきりと彼女は言ったのだ。それはきっと彼女にとって水無月が特別な存在だからなのだろう。


「一花? どうかした?」


 机に突っ伏したままの一花を心配したのか、友人が覗き込んでくる。


「ううん。別になんでも」


 笑って答えながら身体を起こす。今日はもう授業はない。ショートホームルームが終われば下校となる。しかし、帰宅しても用事はない。試験が終わったばかりで勉強をする気分にもなれない。


 ――会いたいな。


 水無月と一緒に過ごしたい。他には誰もいない場所で誰の目も気にすることなく二人で。もう誰かに彼女との時間を邪魔されたくはない。二人の関係を他人にどうこう言われたくない。

 一花は何か話してくる友人に適当に返事をしながらスマホを取り出した。そして水無月へメッセージを送る。


『放課後、階段で』


 会いたいと言っても彼女は会ってくれない。そんな気がする。

 待っていると送れば気を遣って来てくれるかもしれない。だけどすぐに離れていってしまう気がする。

 このメッセージだけで来てくれるかどうかはわからない。それでもこのまま何もしなければ、彼女はきっともう二度と一花の隣に並んでくれない。


 ――そんなのは寂しい。


 じっとスマホの画面を見つめながら思う。

 彼女と過ごしたいと思うこの気持ちは友情だろうか。それとも別の何かなのだろうか。それを確かめるための時間が欲しい。


「一花、聞いてる?」


 友人が不満そうな声を上げる。一花はスマホから顔を上げ、いつものように笑みを作って「聞いてる、聞いてる」と会話を続けた。水無月の席を振り返ることはしなかった。メッセージには既読の文字がついている。とにかく放課後、あの階段で待っていよう。


 一緒にお弁当を食べた、あの場所で。


 そこに彼女が来てくれなかったら自分はどんな気持ちになるだろう。悲しいだろうか。寂しいだろうか。それとも腹が立つのだろうか。

 どの感情も今の自分にはよくわからない。今はただ、彼女と一緒の時間を過ごしたい。それだけだ。


 九月に入ったとはいえ、まだ季節は夏の余韻が強く残っている。真夏のような湿気を帯びた熱気ではないものの、気温は高い。屋上に続く階段は踊り場の窓を開けていても風の通りが悪いようで暑かった。

 一花は暑さから逃れようと冷たい壁に寄りかかり、ぼんやりとスマホを見つめる。既読になったメッセージに返信はない。そして彼女が来る気配もない。

 やはり振られてしまったのだろうか。気づかないうちに何か気に障るようなことでもしてしまったのか。避けられている理由に思い当たる節がない。


「……それくらい、教えてくれても良いのに」


 ポツリと呟く。

 放課後の校舎は静かだ。開け放たれた窓からは運動部の軽快なかけ声と吹奏楽部の合奏が聞こえてくる。視線を窓へ向けると、鋭かった日差しは日暮れが近づくにつれて柔らかくなっているようだった。

 もう少し待ってみようか。それとも諦めて帰ってしまおうか。

 考えていると、外から聞こえる音に混じって微かに階段を上がってくる足音が聞こえた。一花は思わず身体を起こすと立ち上がる。足音は静かに、しかし確実に近づいてくる。そして現れた生徒の姿を見て、一花の胸は締めつけられたように苦しくなった。


「あ、なんだ。人がいた」


 さして驚いた様子もなくそう呟いたのは水無月ではない。会いたくもなかった相手、秋山美守だった。一花は気づかれないように深く呼吸をしてから「なんで秋山さんがここに?」と口を開く。


「戸締まり」

「戸締まりって……。なんで秋山さんが」

「教室に残ってたら先生に頼まれた」


 彼女はそう言うと踊り場の窓を閉めた。わずかだが動いていた空気の流れが遮断され、一気に息苦しさが増す。


「如月さんはこんなところで何を?」

「……別に」

「叶向のことでも待ってんの?」


 窓の鍵を閉めながら彼女は言う。


「関係ないでしょ。秋山さんには」

「そうだね。でも来ないよ。叶向は」


 一花はグッと顎を引くと下ろした手に拳を握った。


「――何か、言ったの? 水無月に」

「何を?」


 振り向いた彼女は不思議そうに首を傾げる。その仕草にも苛ついてしまう。一花は彼女を睨みつけながら「秋山さんが何か言ったから水無月、わたしのこと避けてるんでしょ?」と声を押し殺して言った。すると彼女は眉一つ動かすことなく「へえ」と声を漏らした。


「避けられてるんだ?」

「……もしかして誰かに言った? わたしと水無月のこと」


 秋山は答えない。ただ無表情に一花のことを見返している。一花は息苦しさから口で呼吸を繰り返しながら「夏休みの間に、誰かに言ったりしたの?」と続ける。


「そうなんでしょ? だから水無月、わたしのこと避け始めたんだ。花火大会の時だって様子が変だったし」

「花火大会、ね」


 秋山は呟くとわずかに眉を寄せた。


「そこで何かあったわけ?」

「何って、別に……」

「またキスでもされた?」


 秋山の言葉に一花は思わず口を閉ざした。その反応を答えと取ったのだろう。彼女は「ふうん」と息を吐くように呟いた。


「嫌じゃないの?」

「何が?」

「叶向にキスされて」

「……何で嫌なの?」

「だって好きじゃないんでしょ? 前に言ってたじゃん。付き合ってるけど好きなわけじゃないって」

「そう、だけど……。でも嫌じゃない」

「ふうん」


 彼女は再び呟くと、おもむろに振り返って窓へと近づいた。


「――好きじゃないけど付き合ってる。好きじゃないけどキスは嫌じゃない、ね」


 ぼんやりとした口調で彼女は言う。


「それ、相手は叶向じゃなくてもいいってことじゃないの?」


 窓の向こうを見つめたまま彼女は言った。その言葉に一花の心臓が大きく跳ねた。


「……そんなことは」

「ないの? 前も聞いたけどさ、如月さんって叶向とどうなりたいの?」


 夏休み前にされたのと同じ質問。しかし、未だにその質問の答えは出てはいない。一花が黙り込んでいると彼女は深くため息を吐いた。


「ほんと、ぜんぜん理解できない」

「――理解してもらおうなんて思わない」


 一花が言うと彼女はわずかに振り返って一花を見た。そして「叶向は来ないよ」とさっきと言葉を繰り返す。


「なんで?」

「だって、ほら」


 彼女は言って窓の向こうに視線を戻した。


「帰ってるし」


 言われて一花は彼女の隣に立ち、窓の向こうを覗く。すると校舎の下には一人で校門へと向かう水無月の姿があった。


「水無月……。なんで」


 呟きながら一花は窓から離れてフラリと走り出す。


「――そんな必死になって、何をしたいのかわかんないな」


 階段を駆け下りる一花の背中に、そう呟いた秋山の声が聞こえた。

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