第18話
全力で階段を駆け下りて靴に履き替え、水無月の後を追いかける。
どうして帰ってしまったのだろう。やはりもう振られてしまったということなのだろうか。嫌われてしまったのだろうか。そんな考えばかりが頭の中をグルグルと回る。
すでに校門に彼女の姿はない。学校を出た先の道にはバラバラと帰宅する生徒たちの姿。同じ制服が並ぶ中、一花は走りながら水無月の背中を探した。
追いついて何をしようというのだろう。彼女に何を言おうとしているのだろう。何を聞こうとしているのだろう。
わからない。
それでも今は彼女に会いたい。
やがて前方に求めていた姿を見つけ、一花は思わず「水無月!」と叫んでいた。その瞬間、彼女がピタリを足を止めた。しかし振り向いてはくれない。
一花は彼女に追いつくと肩で息をしながら「なんで帰るの?」と問う。すぐ近くを生徒が数人通り過ぎていく。チラチラと視線を向けてくるが、今はそんなこと気にはならない。
「待ってたのに」
「……階段、どこのことかわかんなかったから」
ボソリと彼女は言った。
「そんな――」
わからないはずがない。二人で会っていた階段は一つだけ。
一花は唇を噛みしめる。久しぶりに自分に向けられた言葉は、初めて話しかけられたとき以上に距離を感じる。
「わたし、何かしたのかな」
「何も」
言って彼女は歩き出す。その歩みはゆっくりで、一花を拒絶しているようには見えない。
「でも水無月、わたしのこと避けてるよね?」
彼女の後に続きながら一花は言う。
「避けてない」
「ウソ。花火大会の日から、なんか変だよ。水無月」
彼女は黙ったまま歩き続ける。秋の夕暮れらしい乾いた風が吹き抜けていく。気づけば、いつもとは違う通学路へ水無月は進んでいた。彼女はバス通学のはず。しかし、この道の先は住宅街でバス通りではない。
「なんで急に避けるの?」
彼女は答えない。一花は俯くと「もしかして」と足を止めた。
「わたしが気づいてないだけで、わたし、もう振られてる?」
ザッと靴音が響いた。視線を向けると数歩先で彼女もまた足を止めていた。
「わたし、こういうのよくわかんないから気づけなかったのかな。もしそうなら、そう言ってくれたらよかったのに。そうしたら――」
そうしたら、こうして追いかけたりしなかったのだろうか。
思った瞬間、蘇ってきたのは秋山の言葉だった。
彼女の言う通りだ。こんな必死になって彼女の背中を追いかけて、自分は何がしたいのだろう。水無月に何をしてもらいたいのだろう。
自分が彼女に何かしてあげられるわけでもないのに彼女から何かを与えてもらいたい。そんな自分勝手な想い、水無月にとっては迷惑でしかないのに。
そう気づいた瞬間、一花は短く息を吐き出して後ずさった。さっきよりも息が苦しい気がする。自分が情けなくて泣いてしまいそうだ。
「…ごめん。なんかわたし、ウザいよね。ごめんね。ほんと、わたし鈍感で」
ごめん、と繰り返しながらさらに数歩後ずさってから彼女に背を向ける。そのときグイッと腕を掴まれた。驚いて振り向くと、水無月が泣きそうな顔で一花のことを見ていた。
「違う」
消え入りそうな声で彼女は呟き、顔を俯かせて続ける。
「振ったわけでも、ウザいわけでもない。如月は悪くない」
「でも、じゃあなんで――」
「嫌じゃないの?」
窺うように顔を上げた彼女は秋山と同じ質問をした。しかしその表情は彼女とは違う。彼女の瞳は無垢な子供のように澄んでいた。その瞳を見ていると不思議と息苦しさも消えていく。一花は微笑んで「嫌じゃないよ」と答えた。
「嫌だったら追いかけたりしない。わたしは水無月に避けられる方が嫌だよ」
すると彼女は泣きそうだった表情をさらに歪ませて一花の腕を引っ張った。引き寄せられるがままに一花は彼女の腕の中に収まる。
「水無月? 何かあったの?」
頬に触れた彼女の温かな胸元からは、制服の薄いブラウス越しに鼓動が聞こえる。その音は一花の聴覚を包み込むような柔らかなリズムで心地良い。
「何も、ないよ……。何も」
耳元に吐息がかかる。気のせいか、一花を抱きしめる彼女の腕が微かに震えているような気がした。
一花はそっと腕を上げて彼女の頭を抱えるようにしながら撫でてやる。驚いたのか、一瞬身体を強ばらせた水無月だったが、すぐに力が抜けたように一花に寄りかかってきた。
「大丈夫だよ」
彼女を撫でてやりながら一花は囁いた。その言葉は水無月に向けてではない。自分に向けて。
大丈夫。自分はおかしくなんてない。水無月と一緒にいれば何か変わるはず。
水無月とどうなりたいかなんて、そんなことはどうでもいい。ただ、こうして彼女のそばにいられることができればそれでいい。
――わたしは水無月に何を求めているんだろう。何がしたいんだろう。
浮かんできた疑問は秋山の声と重なり、そして首元に感じた冷たさに沈んで消えた。
「――ごめん」
一花を強く抱きしめ、小さく震えながら呟いた水無月は声を殺して泣いていた。その涙と言葉の意味もわからないまま、一花は「大丈夫だよ。大丈夫……」と繰り返し続けた。
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