また、あの頃のように

第19話

 仕事を辞めるための良い理由はないだろうか。ここ一ヶ月ほど叶向はそんなことばかり考えながら過ごしていた。


「如月、仕様書を先方に確認してもらうからまとめてフォルダに入れといてくれ」

「はい」


 静かな声に叶向は視線を向ける。少し離れた場所に座る如月は、元気のない様子で言われた作業をこなしていた。とても寂しそうな表情で。

 そんな顔をさせているのは自分だということはわかっている。叶向はため息を吐いた。


「ん、どうかしました? どこか作業詰まってる?」


 隣に座る坂田がため息に気づいて聞いてくる。彼は無駄口を叩かず、ひたすら黙々と仕事を進めるタイプなので隣の席でも気が楽だ。決して叶向のプライベートに踏み込もうとはしない。


「いえ、大丈夫です。ちょっと集中力が切れちゃっただけなので」

「あー、今の時期は気候も良い感じで眠いですよね。飯の後は特に」


 言いながら彼は後ろを振り返る。少し開けられた窓からは心地良い乾いた風が緩やかに入ってきていた。その風は高校時代、あの住宅街に吹いていた風と同じ。


 ――あの時、抱きしめたりしなければ良かったのかもしれない。


 思いながら再び視線を如月に向ける。あの時、彼女が言うように別れたということにしておけばそれで終わったのかもしれない。少なくとも、彼女と付き合う前の自分に戻れたかもしれない。ただ求め続けるだけの自分に。

 しかし追いかけてきてくれた彼女にすがってしまった。求めてしまった。彼女は何も知らない。だから平然と叶向を受け入れたし、そして裏切ったのだ。彼女自身にそのつもりがなかったとしても。


 ――まだ、店に来てるのかな。


 先月から如月が秋山の店に来ている。それを知ったのは数週間ぶりに秋山の店へ行ったときだった。閉店間際の時間帯、彼女の店から如月が出てくるのを見た。酔った様子もなく、ただ力なく項垂れながら帰って行く彼女の後ろ姿を。

 秋山に聞くと、如月は毎日のように来ては閉店時間まで居座って帰って行くと言う。話をするために水無月のことを待っている、と。

 そのせいで如月が寝不足になっているのだろうことは明白だった。日に日に疲れていくように見える彼女の目の下にはクマが浮かんでいる。


 ――何を話したいんだろう。わたしは別に何も話したくなんてないのに。


 そう思ってあれから店には行っていない。いきなりあんなことをしたのだ。いくら如月でも困惑したはず。そして、どう思っただろうか。今度こそ嫌われたかもしれない。そう思ったが彼女の顔を見てそうではないかもしれないとも思う。

 叶向のことを嫌いになったのなら無視すれば良いだけのこと。わざわざ秋山の店で叶向を待つ必要もない。


 ――違うのかな。


 そのとき、デスクに置いていたスマホにメッセージの通知が届いた。秋山からだ。彼女からメッセージが届くのは珍しい。いつも叶向が送るばかりで彼女からは返信だって来ないこともあるのに。

 不思議に思いながらメッセージを開く。


『今日も店に来なかったらわたしの家の玄関、鍵変えるから』


 一瞬どういうことだろうと考える。そして納得した。きっと彼女も如月のことを気にしているのだろう。毎日のように来るのだ。気にならないはずもない。しかし、と叶向は苦笑する。

 玄関の鍵を変える。つまり、もう叶向を家には入れないという意味なのだろう。


「ひどいな……」


 口の中で呟く。別に鍵を変えられても行かなければいいだけのことだ。しかし、叶向にはそれができない。秋山がいなければきっと今の自分はもっとダメになってしまう。それを彼女もよく分かっているからこその脅し文句。

 叶向は深くため息を吐いた。そして再び視線を如月に向ける。彼女は疲れた顔で黙々と作業を続けていた。


 仕事を終えた叶向は逃げるように退勤した。ここ最近はずっとそうだ。そして秋山の家に上がり込んで夜を明かす。この職場に来てからというもの、自分の家に帰るよりも秋山の家に帰ることの方が多い気がする。それでも彼女が何も言わなかったのは叶向が自分から行動するのを待っていたからかもしれない。

 しかし叶向は動かなかった。ずっと逃げていた。だから今日のメッセージは、おそらく秋山からの最後通告。

 叶向はため息を吐きながら出てきたばかりの職場のビルを振り返る。如月は残業のようだった。松本が心配そうに彼女のことを見ていたので、彼も如月の様子がおかしいことには気づいているのだろう。

 叶向は秋山の店へと重たい足を進めながら考える。

 きっと松本は如月のことが好きで、如月も彼のことが嫌いではないはず。


「わたしがちゃんと嫌われたら、それでおしまい」


 呟きながら横断歩道を渡る。そうだ。それで如月との関係は終わるはず。きっと、叶向自身の気持ちも。

 そう思えば思うほど心がズキズキと痛んでくる。叶向は歩きながら軽く胸元に手を当てた。


 ――そうしたら楽になれるかな。


 この痛みも消えてくれるだろうか。もし消えてくれるのなら、少しだけ勇気を出してみよう。

 叶向は胸元に当てた手を握りしめ、秋山の店のドアを開けた。まだ店は開店前。秋山はカウンターの向こうで開店準備をしているところだった。彼女は叶向を見ると呆れたような表情を浮かべる。


「営業時間中に来ない? 普通」

「時間指定はなかった」


 その答えに彼女はため息を吐いたが、それ以上は何も言わない。叶向は無言でカウンター席に座り、スマホを確認する。開店時間の十九時まではあと一時間ほどある。


「……先に何か食べとく?」


 ある程度の準備を終えたのか、秋山が言った。叶向は思わず笑ってしまう。


「バーなのにアルコールじゃなくて料理勧めるんだ?」

「だってあんた、どうせあの子と会ったら食事どころじゃなくなるでしょ。アルコールは論外。まともに会話できなくなるから」


 彼女は何でもお見通しのようだ。叶向は視線を俯かせながら「なんで会わせたいの?」と聞いた。しかし答えはない。視線を上げると秋山はコンロの前に立っていた。


「……如月と何か話した?」

「何も」

「じゃ、毎日来る客に情が湧いた?」

「そんなわけないじゃん」

「……だよね」


 フライパンで何か炒めているらしい。良い匂いがしてきた。秋山はしばらく無言で料理を続けていたが、やがて「迷惑なんだよね」と言った。そして料理を皿に盛りつけて叶向の前に置く。それはチャーハンだった。具材は卵以外何も入っていない。それでも温かくて良い香りは食欲をそそる。

 叶向は差し出されたスプーンを受け取りながら「如月、何も頼まないとか?」と苦笑しながら聞いた。


「いや、あんたと違ってちゃんと頼むし、ちゃんと払ってくれる。良い客だよ」


 でも、と彼女はチャーハンを口に運ぶ叶向を見つめながら続ける。


「さすがにあんな辛気くさい顔で閉店まで居座られちゃ迷惑。だからとっとと話して振られるなり嫌われるなりして終わらせてくれない?」


 その言葉に叶向は再び苦笑した。


「相変わらず美守はキツいね」

「あんたが甘いだけでしょ。いい歳して、なにダラダラ逃げ続けてんだか」


 その通りだ。叶向は返す言葉もなく再びチャーハンを口に運ぶ。それは温かくて少し甘く、優しい味がした。

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